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最年少PP記録樹立も、未勝利で引退。チェザリス悲運のキャリア

1982年に当時としては最年少のポールポジション獲得記録を樹立したアンドレア・デ・チェザリス。しかし結局未勝利のまま、F1から引退することになった。彼が最も優勝に近づいた1982年のアメリカ西GPを振り返る。

Andrea de Cesaris, Alfa Romeo 182

写真:: Sutton Images

 1982年の4月4日、ロングビーチの市街地コースで行なわれたアメリカ西GPで、アルファロメオのマシンを駆るアンドレア・デ・チェザリスがポールポジションを獲得した。これは、当時としては最年少ポールポジション獲得記録を更新する、画期的なモノだった。しかしチェザリスは、合計208レースに出走したものの、ついに勝利を手にすることができなかった。

 チェザリスがそのグランプリで勝利を手にしていたら、彼のF1でのその後のキャリアは変わっていたかもしれない。しかし彼は、周回遅れに抗議した隙に首位の座を奪われたばかりでなく、最終的にはウォールにクラッシュしてレースを終えることになった。

 代わりに勝利を手にしたのは、マクラーレンのニキ・ラウダだった。ラウダは1979年限りで1度F1から引退していたが、ロン・デニスの誘いに乗り、F1復帰を決断。マクラーレンはチェザリスとの契約を打ち切り、ラウダにMP4Bのシートを与えた。そのふたりが先頭を争うとは、皮肉な話だ。

 チェザリスは1980年にF1デビュー。そこから1994年までの間に、アルファロメオ、マクラーレン、リジェ、ミナルディ、ブラバム、リアル、スクーデリア・イタリア、ジョーダン、ティレル、ザウバーと多くのチームを渡り歩き、前述の通り208レースに出走した。

 彼はデビュー直後からクラッシュが多く、それがいつしか彼の代名詞ともなっていった。デビュー2年目のシーズンである1981年にはマクラーレンのシートを手にしたものの、その”粗暴”なイメージを覆すことはできず、幾多のクラッシュを引き起こした。ジョン・バーナードがデザインしたカーボンコンポジットのMP4シャシーの強度が証明されることにはなったが、それだけだった。

 そのシーズンが終了する遥か前の時点で、チーム代表のデニスはラウダに復帰を説得。それが成功したことで、1982年のマクラーレンにチェザリスの居場所は無くなってしまった。

Andrea de Cesaris, Alfa Romeo 179D

Andrea de Cesaris, Alfa Romeo 179D

Photo by: Motorsport Images

 しかしチェザリスは、マールボロ・タバコの強力なバックアップを手にしていた。彼の父親は、マールボロ・タバコなどを販売するフィリップモリス社の重役だったからだ。そのため、マールボロのブランドを纏うもうひとつのチーム(当時のマクラーレンは、紅白のマールボロカラーで塗られていた)である、アルファロメオに活躍の場を求めた。彼はデビュー時のチームもアルファロメオであったため、チームに溶け込むのはそれほど難しいことではなかった。

 アルファロメオにはその頃、様々な好材料が揃ってきつつあった。元リジェのチーフデザイナーであるジェラール・ドゥカルージュの加入である。彼はそれまでなかなかうまくいかなかったチームに、すぐさま好影響を及ぼした。彼はカーボンファイバーを多用した182を生み出し、すでに性能が実証された状態だったアルファロメオのV12エンジンがそこに組み合わされた。このV12エンジンは、特にストリートサーキットで優れたトルクを発揮……まともなパッケージだった。

 この年の開幕戦南アフリカGPでは、チェザリスとチームメイトのブルーノ・ジャコメリは、旧型の179Dを走らせた。第2戦ブラジルGPで182がデビューしたが、その初戦はパッとしたモノではなかった。

 しかしロングビーチで行なわれた第3戦では、コースインするや否や速さを見せた。ジャコメリは最初のフリー走行で2番手、チェザリスは6番手につけたのだ。

 いくつかの問題があったため、金曜予選の段階では10番手と12番手にすぎなかったが、土曜日にはチェザリスが魅せた。

 最終予選セッションの終盤、ラウダはラップをまとめ、ポールポジションを確実なモノにしたかに見えた。テレビ局のクルーたちも、すでにラウダの周りに集まっていたのだ……タイミングモニターの一番上に、予期せぬ変化が起きるまでは……。

 チェザリスは脅威のアタックを決め、0.120秒の差を付けてポールポジションを獲得したのだ。ピットに戻った時、チームのスタッフたちは歓喜で迎えた。その中でチェザリスは涙を流した。

 このポールポジションは、前年リジェを解雇されたドゥカルージュにとっても重要な瞬間だった。またマールボロにとっても、ラウダを復帰させたことを正当化しただけでなく、強力なパフォーマンスを発揮できる2チームをスポンサードしていることが確認できたという意味で、非常に重要なリザルトだった。

 この時のチェザリスは若干22歳。史上最年少ポールポジション記録を更新することになった。この記録は、1994年のベルギーGPでルーベンス・バリチェロに破られるまで、10年以上もの間最年少記録の座を保持した。

「最初のアタックについては考えたくない」

 そう彼は語った。

「そうじゃなければ、僕は眠れなかっただろう」

Andrea de Cesaris, Alfa Romeo 182 leads Niki Lauda, McLaren MP4/1B-Ford Cosworth, Rene Arnoux, Renault RE30B, Alain Prost, Renault RE30B,  Bruno Giacomelli, Alfa Romeo 182, Gilles Villeneuve, Ferrari 126C2, Nelson Piquet, Brabham BT49D-Ford Cosworth and Keke Rosberg, Williams FW07C-Ford Cosworth, at the start

Andrea de Cesaris, Alfa Romeo 182 leads Niki Lauda, McLaren MP4/1B-Ford Cosworth, Rene Arnoux, Renault RE30B, Alain Prost, Renault RE30B, Bruno Giacomelli, Alfa Romeo 182, Gilles Villeneuve, Ferrari 126C2, Nelson Piquet, Brabham BT49D-Ford Cosworth and Keke Rosberg, Williams FW07C-Ford Cosworth, at the start

Photo by: Motorsport Images

 しかしチェザリスには、まだレースで結果を残さなければならないという仕事が残っていた。一方で2番グリッドのラウダも、早々に首位を奪い返すことを決意していたが、ライバルの”クラッシャー”としての評判をよく知っていた。そのため、1周目に事故に巻き込まれることを避けなければならなかった。

 そのためラウダはレース前に、1コーナーで接触することがないよう、チェザリスと話をしようとしていた。そして自分のラインでリードを奪うことができなかった場合、1コーナーでバトルを仕掛けることはないということを明確にしたのだ。

「その場合、僕は辛抱強く、そして無理をしないようにしなきゃいけない」

 ラウダはレース前にそうジャーナリストに語っていた。

「なにより、チェザリスでチャンスを掴むことになるのは間違いない」

 そしてレースでは、チェザリスは素晴らしいスタートを決め、完璧な1周目を走って首位をキープ。3番グリッドのルネ・アルヌー(ルノー)が2番手に上がった。ラウダは3番手を走っていたが、6周目にもう一台のアルファロメオであるジャコメリに抜かれてしまう。ジャコメリはラウダを抜いた後、アルヌーに急接近。しかし2台は接触してリタイアすることになった。

 ラウダは労せずして2番手に上がり、最大4.8秒だった差は13周目には2.8秒に縮まった。チェザリスは周回遅れのマシンを抜く際にタイムを失い、ラウダとの距離が急接近することになった。

 その後、ピットストレートの前半区間に設けられていたシケインで、ラウル・ボーセルのマーチに追いついてしまう。チェザリスは進路を譲らなかったボーセルに対して抗議するのに集中するという、ミスを犯してしまったのだ。

「チェザリスは遅いクルマを追い越し、そのドライバーに拳を振り上げた」

 ラウダは自伝でそう回顧している。

「私は彼が、手を振り上げてジェスチャーで抗議するのを見て、自分に言い聞かせたんだ。彼は今、ギヤを変えるべきだとね」

「私は、彼のマシンが11000rpmのリミッターに当たる、醜い音を聞いた。私は彼を追い抜いて、彼に広いスペースを与えた。結局のところ、拳を振り上げるのに忙しくて、ギヤチェンジを忘れてしまうようなドライバーを抜く時には、自分自身のことを見ておく必要がある」

 ラウダはチェザリスの右側を突き、ピットストレートの終わりで先頭に立つことができた。このリードラップは、ラウダにとっては1978年のスウェーデンGPで、ファンカーを駆っていた時以来のモノとなった。

 ラウダはその後、チェザリスとの差を開いていった。チェザリスにとってはまだF1で19回目のレース。トラフィックを処理していくのに苦労したのだ。

 しかしそれでも、力強く2番手を走っていた。ただそれも、34周目に自分のマシンから煙が上がっているのをミラーで見るまでだった。それは、ブレーキ周りのプラスチックが燃えた時のような煙だった。

 その煙に気を散らすことになってしまったチェザリスは、激しくクラッシュ。マシンの右半分を、ウォールにめり込ませるようにストップしてしまった。チェザリスはすぐにマシンを降りようとしたが、右足のレーシングシューズが脱げてしまっており、それを履き直すのに時間がかかった。

 彼にとっては悲しい終わり方ではあったが、チェザリスの速さという評判を後押しする形となった。

 これで楽になったラウダは、ケケ・ロズベルグ(ウイリアムズ)に14.6秒の大差をつけてトップチェッカーを受ける。ラウダにとっては、復帰後わずか3戦目での復活勝利ということになった。

Niki Lauda, McLaren MP4/1B-Ford, second place Keke Rosberg, Williams, third place Gilles Villeneuve, Ferrari

Niki Lauda, McLaren MP4/1B-Ford, second place Keke Rosberg, Williams, third place Gilles Villeneuve, Ferrari

Photo by: Motorsport Images

 このレースから数週間後、チェザリスは再び輝きを見せることになった。大サバイバルレースとなったモナコGPで、3位になったのだ。

 チェザリスはフェラーリのティディエ・ピローニに次ぐ2番手で最終ラップに入った。しかしガス欠によりボー・リバージュでストップ。ピローニもやはりガス欠により、トンネルでマシンを止めた。この結果、ブラバムのリカルド・パトレーゼが優勝を遂げたが、同一周回で最終ラップに入れたのはピローニ、チェザリス、パトレーゼの3人だけ。その結果、チェッカーは受けられなかったものの、3位表彰台を手にすることになったのだ。

 他にも、素晴らしいレースはあった。1983年の開幕戦ベルギーではレース序盤をリード。ドイツと南アフリカでは2位表彰台を手にした。

 またキャリアの終盤、1991年のベルギーGPでは、ジョーダン191を駆り、首位を行くマクラーレン・ホンダのアイルトン・セナを追い詰めるシーンがあった。しかしこの時もエンジンが壊れてリタイアしてしまう。

 幾度となく勝利に近づいたチェザリス。結局未勝利のままF1を引退することになった。208レースにスタートしたという記録は、未勝利ドライバーの中では今をもって最多である。

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