ナイジェル・マンセル、功績を称えられて名誉ある賞を授与される
ナイジェル・マンセルは、モータースポーツに多大な功績を残した人物に贈られるグレゴール・グラント賞を受賞した。









ナイジェル・マンセルは、アメリカとヨーロッパにおけるオープンホイールの最高峰カテゴリーでチャンピオンを獲ったわずか4人のドライバーのひとりである(他には、マリオ・アンドレッティ、エマーソン・フェッティバルディ、ジャック・ビルヌーブが該当)。1992年にF1でチャンピオンを獲得したマンセルは、その翌年にインディカー(当時はCART)でチャンピオンを獲得しており、2年連続で大西洋両岸でチャンピオンとなったのは、マンセル唯一人だ。
グレゴール・グラント賞は、Autosport誌の設立メンバーであり最長期間(1950~69年)編集長を務めたグレゴール・グラントにちなんで命名され、モータースポーツに多大な功績を残した人物に贈られる賞である。
今年のAutosport Awardで、6個のオリンピック金メダルを持ち、ナイトの称号を授与されたイギリスサイクリング界のレジェンド、サー・クリストファー・ホイがプレゼンターとして登場し、マンセルにグレゴール・グラント賞が授与された。
マンセルは1986年、87年、91年とF1でランキング2位に終わり、1992年に当時最強を誇ったウイリアムズ・ルノーFW14Bでようやくタイトルを獲得した(マンセルは16戦中、9勝14ポールポジション)。マンセルは当時39歳、デビューから12年目のタイトル獲得は当時の最遅記録であった。
チームオーナーであるフランク・ウイリアムズとの契約交渉のもつれにより、チャンピオン獲得からわずか2戦後、独断で引退表明を行った。
F1を離れたマンセルは、カール・ハースとポール・ニューマンが設立したニューマン・ハース・レーシングと契約し、活躍の場をアメリカのCARTに移した。
CARTではルーキーであり、チーム・ペンスキーのポール・トレーシーとエマーソン・フェッティバルディの強烈な抵抗があったにもかかわらず、マンセルはインディ500では3位、シーズン5勝7ポールポジションを記録して、チャンピオンとなった。
1994年はペンスキーが支配的なシーズンを送り、マンセルは王者防衛どころか勝利することすらができなかった。しかし、この年の5月にアイルトン・セナ(ウイリアムズ)がレース中の事故によりこの世を去ると、マンセルは再びウイリアムズからF1に4度スポット参戦した。スポット参戦の4戦目であるアデレードで、彼のF1での最後の優勝である、通算31勝目を記録している。
1995年、ウイリアムズはデイモン・ヒルの相棒として、当時若手のデビッド・クルサードと契約、マンセルはマクラーレンと契約を結んだがわずか2戦の出場でチームを去った。
マンセルは2005年に国際モータースポーツ殿堂入りを果たしており、1990年には大英帝国勲章・オフィサー章(OBE)、2012年には同・コマンダー章(CBE)を受勲している。
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