ロベルト・モレノ インタビュー第1回:運命を変えた”10月12日”

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ロベルト・モレノ インタビュー第1回:運命を変えた”10月12日”
2017/12/17 8:27

SUZUKA Sound of ENGINEにゲストとして来場したロベルト・モレノに、現役時代の話を訊いた。

 今年の11月18〜19日に鈴鹿サーキットで行われた「RICHARD MILLE SUZUKA Sound of Engine 2017」に、特別ゲストとして元F1ドライバーのロベルト・モレノが来場した。

 ロベルト・モレノといえば、多くの日本のファンが1990年のF1日本GPでの活躍を思い出すだろう。ヘリコプター事故で重傷を追ったアレッサンドロ・ナニー二に代わってベネトンから参戦し、見事2位表彰台を獲得。レース後のパルクフェルメで同郷の先輩でありチームメイトでもあるネルソン・ピケと号泣しながら抱き合う感動のシーンは、今でも多くのファンの間で語り継がれている。

 来日したモレノに、その当時の状況や彼のレースキャリアについて、インタビュー。そしてあの代役参戦は“運命の1日”から始まっていたことが明らかになった。

Roberto Moreno, AGS Cosworth - retired with engine troubles
AGSのマシンを駆るモレノ(1987年日本GP)

Photo by: LAT Images

 F1の現役で走っていた1995年以来、実に22年ぶりの鈴鹿訪問だったというモレノ。彼にとって鈴鹿サーキットはレースキャリアの中でも“成功した”思い出ばかりだという。

「鈴鹿サーキットに来るのは、1995年に現役でF1を走っていた時以来だ。鈴鹿は僕にとって、成功した思い出ばかりがある特別な場所なんだ。初めてここを走ったのは1984年。F2の時だった。翌年には森脇(基恭)サンのところでお世話になってフル参戦した。あと、僕にとってのF1デビュー戦は、ここ鈴鹿なんだ。1987年だった。AGSからエントリーしたんだ」

「1990年にはアレッサンドロ・ナニー二の代役で日本GPに出場して2位に入った。僕にとってはF1キャリア唯一の表彰台だった。このように、鈴鹿にはたくさんの思い出があって、こうしてまた来る機会を作ってくれたモビリティランドを始め、関係者全員に感謝したい」

 早速、話題は1990年の日本GPへ。その前にモレノはシーズン序盤、ユーロブルンというチームに所属していた頃のことを話し始めた。

「1990年、僕は当初ユーロブルンというチームから出走していた。当時は予備予選というものがあって、金曜の早朝に1時間のセッションが設けられ、そこで上位に入らないと以降のセッションに参加できなかった」

Roberto Moreno, Eurobrun ER189B
ユーロブルンのマシンを駆るモレノ

Photo by: LAT Images

 ユーロブルンは、ユーロレーシングとブルン・モータースポーツがタッグを組んで1988年にF1参戦を開始したチーム。スポンサーマネーはまずブルンが受け取り、そこから現場実働を務めるユーロレーシングに毎レース一定額が支払われるシステムだったという。しかし、結果の良し悪しに関わらず金額は一定だったため、チームは本戦に進むことに強い興味を示さず、予備予選でサーキットを引き上げることが当たり前だったという。

「ユーロレーシングはブルンから、毎戦(結果に関わらず)一定の金額を受け取れるようになっていた。予備予選では2セットのタイヤと1基のエンジンがあれば十分だったが、もし予備予選を通過すれば、さらに多くのタイヤとエンジンが必要になる。でも予備予選を通過したからといって受け取れる金額が追加されることはない」

「予備予選を通過してしまうと自分たちが手にできる資金が減ってしまう(レースへのタイヤ・エンジン代をまかなうため)から、正直彼らは予備予選を通過することにあまり興味がなかったんだ。でも仕方がない、彼らにとってはこのやり方がビジネスだったのだから。でも何かが違っていた気はした」

 チームの方針に快く思っていなかったモレノは、シーズン終盤に別チームの移籍に向けて動きだす。これが、運命の始まりだった。

「第14戦のヘレス(スペインGP)が終わってから、来年に向けて別のチームと交渉を開始することにした。まずはイギリスのブラバムにコンタクトをとって行くことにした。それが、レースが終わった週の金曜日(1990年10月12日)。ちょうど日本GPまで1週間前という状況だった」

 モレノは、この他にもホンダの川本社長(当時)やゲイリー・アンダーソンなど、多くの関係者とコンタクトをとっていたという。そして、その中にはベネトンで当時デザイナーを務めていたジョン・バーナードと会う約束も取り付けていた。

「バーナードに電話したら『ブラバムのファクトリーから近いから、彼らの所に寄った後に来てくれないか? ちょうど来年のマシンのモックアップカー(試作用の模型)ができたから、そのシート合わせを手伝ってほしい』と言われた。もちろん僕はOKを出した。それが金曜日の午前10時だった」

 その日、モレノは予定通りブラバムに行ってミーティングを行い、その足でベネトンのファクトリーに向かった。その間に、アレッサンドロ・ナニー二が重傷を負うヘリコプター事故が発生したのだ。

「まずはブラバムに行ってミーティングを済ませ、ベネトンのファクトリーに移動した。到着したのは午後6時か7時くらいだった。そこでバーナードからナニー二がヘリコプター事故に遭ったことを聞かされた」

 ヘリコプター事故が起きたのは午後2時ごろ。直後からベネトンのファクトリーには、多数のドライバーから代役参戦を志願する旨の連絡があったという。しかしチーム側はこれらを全て断り、この日“一番最初に”連絡したモレノに代役参戦を打診した。

Roberto Moreno, Benetton B190
ベネトンB190を駆り、1990年の日本GPに挑むモレノ

Photo by: LAT Images

「バーナードは『君は(ナニー二の)事故の前に僕たちのところに連絡をくれた。そして僕たちを助けてくれるために今日こうして来てくれた。ぜひ君に任せたいのだけど、どうかな?』と言ってくれた。でも僕はユーロブルンとの契約もあるから、即答はできなかった」

 しかしベネトン側も時間の猶予はなく、実際にチーム代表のフラビオ・ブリアトーレも他のドライバーにしようと選択肢を固め始めていた。とりあえずモレノは当初の目的であったシート合わせを手伝った後、すぐにユーロブルンに連絡。すると、チームから思いがけない回答が返って来た。資金面の問題もあり、ユーロブルンはF1撤退を決定していたのだ。しかも、それが正式決定したのは、12日のお昼頃だったという。

「ユーロブルンが参戦しなくなって、自分が乗れることをすぐにバーナードに報告した。そのまま日本GPへ向かうことになったよ」と、モレノは当時の10月12日に起こったことを昨日のことのように詳細に思い出しながら語った。

 もし彼があの日の午前中にバーナードに電話をしていなかったら……。間違いなく、日本GPでの歓喜の2位表彰台というストーリーは生まれなかっただろう。まさに代役参戦が決まった運命の1日だった。

 こうして、ナニー二の代役として参戦が決まったモレノだが、日本GPでのレースウィーク中も、あまり表に出なかった大きな問題を抱えていたという。彼にとって短いようで非常に長かった鈴鹿でのレースウィークが始まった……(次回に続く)。

取材・執筆/吉田知弘

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この記事について

シリーズ F1
ドライバー Roberto Moreno
記事タイプ インタビュー