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事故死から今日で26年……アイルトン・セナを偲ぶ

1994年5月1日、イモラ・サーキットで行なわれたF1サンマリノGPで、ひとりの巨星が逝った。アイルトン・セナ。突然の死に、世界が悲しみに包まれた。あの日から今日でちょうど26年……。

Ayrton Senna, Williams

Ayrton Senna, Williams

LAT Images

 まるで昨日のようだというのは、誇張でも何でもない。アイルトン・セナが亡くなって今年の5月1日で26年。私にはそれほどの長い年月が経過したとは、どうしても思えない。最後に会った時の生気に満ちた表情がそのまま脳裏にある。亡くなった人は歳をとらない。1994年の時の、34歳の時のセナのままだ。

 私はセナがF1にデビューする前からF1を取材し、最後のシーズンも取材を続けていた。ほとんどのF1グランプリには足を運んでいたが、彼の最後のレースになったサンマリノGPには顔を出さなかった。よりによってそのレースでセナが亡くなるとは。

 セナに関しては多くの書物が出ているし、大勢の人が語っている。それはセナがそれだけ注目すべき存在だったということもあるが、彼は接する人誰をも虜にする魅力に溢れていたからだと思う。話しかければ気さくに答えてくれるし、インタビューをすればインタビュアーは自分だけに語りかけてくれているように感じる。セナの秘密を知っているような錯覚に陥ってしまう。そして、質問への答え方がまことに持って脳髄に響く。それは、少しウエットがかった喋り方によるのだろうが、聞くこちらの心のひだに絡みついてくるのだ。いちど絡みつかれると、もう駄目だ。知らないうちにセナのファンになっている。

 セナは母国ブラジルで13歳でカート・レースを始め、17歳で南米カート選手権を制覇。18歳でジャパン・カートグランプリ参加のために来日している。1981年、21歳の時にイギリスに渡ってフォーミュラ・フォードを戦い、その年と翌年連続で選手権1位。83年にF3にステップアップ、チャンピオンに輝き、マカオ・グランプリでも優勝を飾っている。そして1984年、24歳でF1に進出した。そこから先は読者の皆さんはよくご存じだろう。初年度の雨のモナコGPで、非力なトールマンでマクラーレンに乗るアラン・プロストを追い上げて優勝を目の前にしながらレースは途中で終了、2位に甘んじた。プロストを勝たせるためにレースを早く終了させた、とセナのファンは怒ったものだ。1985年にはロータスに移籍、快進撃が始まった。雨のポルトガルGPで初優勝。モナコ、ポルトガル、そしてベルギー(優勝)と続く雨中の快走から、レイン・マイスターと呼ばれるようになる。若干24歳でマイスター!

 ロータスには3年在籍し、6勝を挙げている。87年からセナのチームメイトになった中嶋悟は、セナのようにレースに真面目に取り組むドライバーを他に知らない、と述懐している。この87年、ホンダがロータスへエンジン供給を始め、セナと日本の関係が生まれた。セナはホンダを全面的に信頼し、特に当時総監督を務めた櫻井淑敏とは親子のように信頼関係を結んだ。88年、ホンダがマクラーレンにエンジン供給を始め、セナも一緒に移籍。その年に初の世界チャンピオンに輝いた。その後90年、91年とチャンピオンに輝き、生涯3度のタイトルを獲得している。3度ともホンダ・エンジンで獲得している。

 セナがホンダ・エンジンで走っている間、私は彼に何度もインタビューを行ない、彼のことを随分と理解出来るようになったと感じた。それは、彼のサービスだったかもしれないが、少なくとも私の方から一歩踏み込んでいっても彼に逃げられたりかわされたりはしなかった。インタビューに対しても、本心から答えてくれているように思えた。だから、かなりストレートな質問も投げかけた。その中で、『セナ足』と呼ばれる、コーナリング中の小刻みなアクセルワークについて尋ねたことがある。

ーーあなたのアクセルワークは独特で、魔法の右足と言われていますが、そのテクニックはいつ身につけたのですか?

「ハッキリ覚えていないけど、カート時代だろう。カートは非常にデリケートなアクセルワークを要求するからね」

ーーどういう効果があるんですか?

「良いエンジン・レスポンス、良いバランスが得られる。エンジン回転を落とさないでそれをやると、クルマの動きが突然変わった時でも、咄嗟の反応ができる。予選の時とか、雨の中とか、コーナリング中は100%皮膚感覚で走っているわけで、それがあのアクセルコントロールなんだ」

 今考えると、よくもまあ「どういう効果があるんですか?」などと聞けたものだと、冷や汗が出る。

 セナの成績を見れば、彼がずば抜けた才能を備えていることは誰の目にも明らかだが、反面、その才能を無駄遣いすることも多かった。特に強敵と対戦するときには自制が効かなくなり、プロストとは89年、90年の日本グランプリでクラッシュ、2年連続の接触からプロストとの仲は最悪になった。その他にも走路妨害をしたエディ・アーバインを殴りに行ったり、蛮勇は多々ある。要するに、セナはクルマに乗ると他が見えなくなる種類の人間だということだろう。ジャッキー・スチュワートやジャック・ブラバムといった重鎮ドライバーに危険な走りを指摘されたこともある。

 人間には二面ある。表と裏。セナにそれがあっても不思議ではない。しかし、モータースポーツは危険なスポーツだ。セナがそのことを知らないはずはない。であるなら、何を信じて走っていたのか?

 1994年、セナはマクラーレンからウィリアムズに移って新しい挑戦を始めた。しかし、長かったマクラーレンとの関係から脱して新天地で力を発揮するにはもう少し時間が必要だった。その年、ポルトガルのエストリル・サーキットで行なわれたチーム体制発表会の会場で、セナはまるで新人のようなミスを犯したり、どうも足が地に着いていないような感じに見受けられた。新しい彼女に夢中だという噂も飛んでいた。人間だから色々あっただろう。亡くなれば様々な噂が糸の切れた凧のように飛び交う。

 シーズンはセナの母国ブラジルで開幕し、2戦目は日本で初めて開催されたパシフィックGP。セナは2戦続けてリタイアをして、決して幸先の良い出だしとは言えなかった。90年以降、開幕戦では必ず表彰台に上がっていたセナだが、94年は明らかに違った。そして第3戦サンマリノGP。事故が起こり、セナは34歳になったばかりの若さで天に召された。事故の模様は逐一テレビ中継され、世界中に流された。葬儀は国葬。何十万人もの国民が葬送の列を見送った。

 去る4月12日に90歳で亡くなったサー・スターリング・モスは、セナのことを次のように語っている。

「彼の雨の中のドライビングは、誰にもちょっと真似ができないだろうな。何が素晴らしいかというと、あの、デリケートなタッチだね。センシティブでパワフルなF1マシンを、雨の中であれほど速く、あれほど巧みに走らせるドライバーは、セナをおいてほかにいないと思う」

「たしかに、プロストは(ファン-マヌエル)ファンジオの域にあるが、セナは少し違うんだ。彼はレーサーだよ。(ナイジェル)マンセルもレーサーだ。レーサーはプロストのように、何から何まで計算づくでは走らない。もっと動物的な走りをするんだ。分かるかい。プロストはベストのレーシング・ドライバーだ。しかし、速いのはセナのほうだ。奴は本当のレーサーだ」

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