ハースF1チーム新代表、小松礼雄物語(前編):イギリスで人生を変える出会い。佐藤琢磨がF1の世界へと誘った
ハースのチーム代表に就任することが発表された小松礼雄のレース人生回顧録。今回はヨーロッパに渡ってすぐに訪れた佐藤琢磨との出会いについてフォーカスする。
10代からイギリスに渡ってF1の夢を追い求め、ハースF1のチーム代表まで登り詰めた小松礼雄。その成功の裏には、佐藤琢磨との出会い、ロマン・グロージャンとの蜜月など、様々なサイドストーリーがある。そんな彼が自身の“幸運”なレース人生について独白した。今回はその前編。
僕は学生時代、数学や物理があまり得意ではありませんでした。正直、自分は調査報道の記者になりたかったんです。父は音楽学者でベートーヴェンについての本を出していましたが、だから僕も文学が好きだったのだと思います。実際、10歳くらいの時に書いた小説で賞をもらいましたしね。
新聞社に勤める父の友人が、警察も触れられないような政治汚職について本格的な調査記事を書いて報道したことがありました。これには感化されましたね。「自分がやりたいのはこれだ!」と思いました。
でもそれからバイクにハマりました。隣の学校の同い年の子が、モトクロスなどをやっていました。その当時はよく知らなかったのですが、名前が阿部典史だということだけ知っていました。彼は後にMotoGPで活躍することになります。
自分も世界レベルで何かをしたいと思っていましたが、ライダーやドライバーになりたいと思ったことはありませんでした。レースのエンジニアになりたいと思ったんです。でも、エンジニアがバイクに与える影響が4輪ほど大きくないということは子供ながらに気付いていました。それに、当時は(F1で)マクラーレンとホンダエンジンが活躍していて、セナプロ対決が勃発していた時期です。日本ではF1が無料で放送されていて、それを見るのが好きでした。だからF1でエンジニアとしてキャリアを積みたいと思うようになったのです。きっかけはそんな感じですね。
それから色々と調べて、日本と違ってイギリスには多くのチームがあることを知り、高校を卒業したらイギリスに行くしかないと思いました。そのためにはまず英語を勉強する必要がありましたが、日本で英語を勉強するのにかかるコストと、ロンドンで勉強するコストを比べた時、航空券代や滞在費を差し引いても大差ありませんでした。しかも日本だと、英語を話すのは教室の中だけですよね。イギリスはどこだって英語です。
当時の自分は18歳。僕にとっては挑戦というより、刺激的で新しいことでした。(イギリスに渡るのか)現実的なのか、金銭的には大丈夫なのかと自問自答しましたが、あまり深くは考えませんでしたね。国からもなんとか助成金をもらうことができました。それで僕はイギリスのラフバラー大学に進学し、田舎の方に住むことになりました。
実習生として、ロータス・エンジニアリングで仕事ができることになりました。ボスがレース好きで古いF3マシンを持っていたので、彼とレースに出て、色んなことを学びました。そこで基礎を磨き、レースに関する実践面を知れたと思います。
シルバーストンでの出来事でした。僕は地元の若いドライバーのために、サルーンカーの下に潜ってアンチロールバーを交換していました。そしてふと見上げると日本人がいて、誰かは分からなかったものの簡単な挨拶だけ交わして、そのことはすぐに忘れていました。
それからしばらくして、レースでピットレーンに物を運びやすくするためにクワッドバイクを借りたいと思い、その時に「そういえばあの日本人の子、F3に出てると言ってたし、彼なら持ってるかもしれない」と思ったんです。
それで彼にバイクを借りに行きました。それが佐藤琢磨との出会いで、僕のキャリアにとって最も重要な出会いのひとつになりました。
彼のレースを見たんです。もちろんF3も少しはチェックしていましたし、マーティン・オコンネルというイギリス人ドライバーが、資金はないものの速いドライバーだということは知っていました。彼はナショナルクラスでは敵なしだったのですが、琢磨くんは彼に勝ったんです。その時「すごいな、この子は何者なんだ?」と思いました。
Photo by: Paul Sutton / Motorsport Images
佐藤との出会いが小松の人生を大きく変えた
それから話をするようになって、すぐに仲良くなりました。1歳違いで誕生日が同じで、ふたりともF1を目指してイギリスにやってきていて、共通点が多かったです。今自分がやっていることを説明すると、次の年にカーリンからイギリスF3に出ることになっていた彼は「一緒にやることに興味はない?」と尋ねてきました。
博士課程にいる時に、教官にこう言ったんです。「この男はレーシングドライバーで、イギリスF3に参戦する。僕の理論的なシミュレーションを通して色んなものを提供できると思うし、これが現実の世界でどこまで通用するかやってみたい」。すると彼は「OK、いいだろう。ガソリン代くらいは出すよ」と。儲けものでしたね(笑)。
それで僕と琢磨くんはカーリンで一緒にやることになりました。アントニオ・ピッツォニアとトーマス・シェクターに次ぐランキング3位になった最初のシーズンはほとんど一緒にレースをしました。チャンピオンになった次のシーズンも半分くらいは担当しましたかね。博士号取得に向けて勉強している中、無給で働きましたが、素晴らしい経験になりました。
Photo by: Peter Spinney / Motorsport Images
2001年はイギリスF3王者となった佐藤琢磨
大学ではあらゆる作業をコンピュータでやっていましたが、レースでは実際のデータを吸い出し、ドライバーやメカニックと話しながら、理論的な知識を実践することができました。これが今も自分の礎になっています。そして僕が初めて報酬をもらって仕事をしたのはF1でした。
実は当時、TRWという会社からのオファーを承諾していました。レースとは関係のない会社なんですけどね。でもそこのオーナーが変わって、まだ入社もしていないのに自分は余剰人員になって(解雇されて)しまったのです。1日も働いていないのに3ヵ月分の給料が支払われたので、最初は博士号取得に向けての3ヵ月が保証されて良かったと思いましたが、しばらくしたら「最悪だ、仕事がない」という状況に逆戻りです。そして僕はコリン・コレスの下で働くことになりそうでした。
ドイツにいるコリンに会いに行きましたが、彼からドイツのF3チームでレースエンジニアとして働かないかと誘われました。ただ、どうもしっくり来ませんでした。イギリスに帰って大学の研究室に戻り、ああでもないこうでもないと考えたことを覚えています。「やっと仕事のオファーをもらえたし、悪くない。でも場所はドイツ……でもF3でレースエンジニアか……でもコリン・コレスとか……どうしようか」と。
外も暗くなってきて、やるべきか、やめるべきかと迷い続けているうちに、琢磨くんから電話がかかってきたんです。「アヤオ、元気?」って。(続く)
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