レッドブルRB4(2008年ブラジルGP)
写真:: Red Bull GmbH and GEPA pictures GmbH
この年限りでF1を引退するデビッド・クルサードは最終戦ブラジルGPで、脊髄損傷治療研究のための国際的な非営利団体『Wings for Life』の特別カラーリングでレースに臨んだ。しかし、彼はスタート直後のクラッシュに巻き込まれてしまい、不本意な形でF1キャリアを終えることとなってしまった。
マクラーレン・MP4/2C(1986年ポルトガルGP)
写真:: LAT Images
1986年ポルトガルGPでは、ケケ・ロズベルグのマシンに“マールボロ・ライト”の黄色と白のカラーリングが施された。お馴染みの赤白カラーとは一線を画した出で立ちで、非常にレアな1台と言える。
メルセデスW10(2019年ドイツGP)
写真:: Jerry Andre / Motorsport Images
2019年ドイツGPで特別カラーリングをまとったメルセデスが悪夢のような週末を過ごしたことは記憶に新しい。ワークスチームとしての参戦200戦目を迎えたメルセデスは、同社のモータースポーツ黎明期のイメージカラーである白を織り交ぜたカラーリングを採用した。このデザインは1934年のレース前、重量制限をクリアするために白く塗られていたペイントを剥がし、金属製のボディワークが露出し銀色に見えたという“シルバーアロー”のルーツを再現している。
ロータス78(1977年日本GP)
写真:: LAT Images
1970年代のロータスと言えば黒と金のJPSカラーが有名であるが、1977年日本GPでは、グンナー・ニルソンのマシンがインペリアルの赤&金に染め上げられた。なお、この日本GPは翌年に病死したニルソンにとってキャリア最後のレースとなった。
BAR007(2005年中国GP)
写真:: XPB Images
2005年中国GPでBARホンダは、メインスポンサーであるラッキーストライクに代わって、同ブランドと同じくBAT(ブリティッシュ・アメリカン・タバコ)の銘柄である555のロゴをメインに据えた。青と黄色の特別カラーのレーシングスーツはWRCでのスバルを彷彿とさせる。
リジェJS39(1993年日本GP、オーストラリアGP)
写真:: Ercole Colombo
リジェは1993年のシーズン終盤2戦、メインスポンサーであるジタン・ブロンドたばこのパッケージデザインをベースにした“アートカラー”をマーティン・ブランドルのマシンに施した。この年のリジェは表彰台を獲得するなど戦闘力が高く、低迷期に入っていたフェラーリに肉薄するパフォーマンスを見せた。
レッドブルRB1(2005年モナコGP)
写真:: XPB Images
レッドブルはチーム発足初年度のモナコGPで、当時のスター・ウォーズシリーズ最新作『スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐』のプロモーション用カラーリングを採用した。華やかなモナコの街に映えるマシンだったが、ポイントを獲得することはできなかった。
フェラーリF2001(2001年イタリアGP)
写真:: Ferrari Media Center
2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロの1週間後に開催されたイタリアGP。フェラーリは犠牲者に哀悼の意を表して、スポンサーロゴを取り払い、ノーズ部分を黒く塗ったマシンでレースを戦った。F1チームやドライバーが故人をしのんで、特別なマシンやヘルメットでレースに臨むのは珍しいことではないが、スポンサーロゴを全て削除するのは極めて異例と言える。
フェラーリ158(1964年アメリカGP、メキシコGP)
写真:: LAT Images
フェラーリはこの年、スポーツカーレースで使用するマシンの承認を巡ってFIAと対立。憤慨したエンツォ・フェラーリは競技ライセンスをACI(イタリア自動車クラブ)に返還してしまった。これにより、北米での終盤2レースでチームは『スクーデリア・フェラーリ』としてエントリーすることができず、『NART(ノース・アメリカン・レーシング・チーム)』の名義で参戦することとなった。これにより、マシンのカラーリングはイタリアのナショナルカラーである赤ではなく、アメリカのナショナルカラーである青と白になったのだ。なお、この青と白のフェラーリを駆ったジョン・サーティースは同年のワールドチャンピオンを手中に収めた。
コローニC4(1991年日本GP、オーストラリアGP)
写真:: Ercole Colombo
服部尚貴は1991年、弱小チームであるコローニから日本GPとオーストラリアGPにエントリー。個人スポンサーを一口2万円で募り、その出資者の名前がサイドポンツーンに刻まれた。なお、結果は2レースともに予備予選落ちだった。
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