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あれから30年……セナ・プロの接触が世界に衝撃を与えた|1989年日本GP

1989年10月22日、モータースポーツ界を揺るがす大きな事件が起きた。マクラーレン・ホンダのアラン・プロストとアイルトン・セナが、日本GP決勝で同士討ち。FIAも関与する事態となり、数カ月間にわたる論争の引き金となったのだ。

Alain Prost, McLaren, Ayrton Senna, McLaren

Alain Prost, McLaren, Ayrton Senna, McLaren

LAT Images

 30年前の昨日、それは起こった。1989年10月22日(日)、鈴鹿サーキットで行われていたF1日本GPの決勝レース47周目、シケインでマクラーレン・ホンダのチームメイト同士、アイルトン・セナとアラン・プロストが接触したのだ。

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 この事件はその年のタイトルを決するだけでなく、その後数年間にわたって巻き起こった論争の火種となった。

 何が起きたのか……単純に言えば、プロストが文字通り、セナをブロックしたということだ。しかしプロストのそのシケインでの動きは、セナ自身、あるいはミハエル・シューマッハーが後に見せたような”冷酷”とも言えるものだった。

 この事件には布石があった。4月に行われたサンマリノGPの決勝レースで、セナが事前の協定を破り、プロストを抜いてしまった。この件により、ふたりの確執は表面化したのだった。その前年、ポルトガルGPでは互いにマシンを寄せ合う”幅寄せ”事件も発生していた。才能溢れるふたりの関係は、悪化の一途をたどっていたのだ。

 現在の基準に照らし合わせれば、それほど大したことではないのかもしれない。しかし1988年、チームメイトに対するセナのコース上での動きは、容認される基準をはるかに超えるものだった。

 1989年の鈴鹿に話を戻そう。同年のプロストは、ドライバーズランキングで快適なリードを築いていた。セナはマシントラブルに見舞われることも多く、さらにポルトガルGPでは黒旗を無視して走り続けたナイジェル・マンセル(当時フェラーリ)と接触してリタイア……痛恨の無得点に終わるなど、プロストに16ポイント及ばない状態で日本GPを迎えた。

 しかし予選で圧倒的な速さを見せたのはセナだった。セナは同じマシンに乗るプロストに対し、なんと1.7秒もの差をつけてポールポジションを獲得。今年の日本GPで言えば、予選Q1で首位シャルル・ルクレール(フェラーリ)と16位ダニエル・リカルド(ルノー)の差が1.4秒……セナのアタックラップは、それ以上の差を2位に対して付ける、圧倒的な速さだったのだ。

 ただプロストは別のことを考えていた。週末の間中、予選のパフォーマンスは捨て、決勝に向けて最適なセットアップを探ることに取り組んでいたのだ。最高速を上げるために、リヤウイングのガーニーフラップを取り外すこともした。

 日本GPのポールポジションはイン側。そのためレコードライン上にあるのは2番グリッドの方だった。プロストはこれを活かし、スタート直後にセナの前に立つことに成功した。そしてセットアップが効果を発揮し、プロストが優位にレースを進めることになった……少なくともピットストップまでは。

 しかしセナは徐々に速さを取り戻し、レース終盤にはプロストの背後へ。そして、厳しいプレッシャーをかけた。

 ただ、プロストのマクラーレンMP4/5は、空気抵抗が少なく、直線スピードが伸びる。セナのように抜群のオーバーテイクセンスを持つドライバーであっても、攻略するのは至難の技だった。

 そして残り6周、セナの忍耐力が切れた。セナは長い距離が開いていたにも関わらず、シケインでプロストのインに飛び込み、フロントホイールをプロスト車のコクピットに並べた。減速率は両者ほぼ同じ……しかしプロストはシケインに向けて切り込んだ。プロストは自身の言葉に忠実に、マシンを動かしたように見えた。「もうドアを開けるつもりはない」と。

 2台のマシンは絡み合うようにしてシケインにストップ。プロストはサスペンションもしくはステアリングが壊れたのを確認し、すぐにマシンを降りた。一方のセナはフロントウイングにダメージを負ったものの、マーシャルにマシンを押すように促した。そして押しがけの要領でエンジンを再始動することができた。

 セナはシケインをショートカットする形にはなったものの、コースに復帰することができた。そしてフロントウイングを交換するためにピットストップを行わざるを得なかったものの、ベネトンのアレッサンドロ・ナニーニを抑え、トップチェッカーを受けることになった。

 しかしその勝利はスチュワードによって認められなかった。スチュワードは、シケインをショートカットしたセナを失格処分としたのだ。ショートカットしたことによるタイム短縮のメリットよりも長く、コース上に止まっていたにも関わらずだ。

 その週の英国Autosport誌の表紙には「世界タイトルをめぐる内紛」というキャッチが踊った。そして同誌に掲載されたナイジェル・ルーバックが寄稿したレポートの見出しも「ホンダランドの悪意」となっていた(鈴鹿サーキットの運営会社はかつて、ホンダランドという名称だった)。

 マクラーレンはこの裁定に抗議した。チームは、どちらかのドライバーの肩を持っていたわけではなく、あくまで勝利がかかっていたため、裁定に不服を申し立てたのだ。しかし結局は、プロストのチャンピオン獲得が決まっただけでなく、セナに罰金10万ドル(現在のレートで約1100万円)と、6ヵ月の出場停止処分が科される可能性もあった。

 セナはその裁定を「チャンピオンシップの恣意的操作」だと公然と批判。当時FIA会長を務めていたジャン-マリー・バレストルとの論戦へと発展した。FIAは1990年のセナへのスーパーライセンス発給をなかなか認めず、これも論争激化に拍車をかけた。

 結局セナはスーパーライセンスを手にすることができたものの、その1990年はふたりの間にさらなる事件が起きることとなる。しかも、またしても舞台は鈴鹿だった。その一件は、モータースポーツ界を再び揺るがすことになった……でもそれは、また別の話だ。

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