【特集】マグヌッセン以前に出場停止を食らった7人のF1ドライバー……その“罪状”は何だったのか?
1レースの出場停止処分を受けるという、F1の歴史に残る重い罰則を受けたケビン・マグヌッセン。これまでグランプリを出場停止になったドライバーと、その理由を振り返る。
Michael Schumacher, Benetton and Benetton team manager Flavio Briatore
写真:: Sutton Images
2024年のF1第17戦アゼルバイジャンGPでは、ハースのケビン・マグヌッセンが出場停止処分により欠場。代役としてオリバー・ベアマンが走る。これはレギュレーションで定められているペナルティポイントの累積が直近1年間で12に達したためだ。
マグヌッセンは今季、4つのグランプリ、5つのレースでペナルティポイントを科された。サウジアラビアではアレクサンダー・アルボン(ウイリアムズ)と接触(3点)、中国では角田裕毅(RB)と接触(2点)、マイアミではスプリントでのルイス・ハミルトン(メルセデス)とのバトル中のコース外走行(3点)と決勝レースでのローガン・サージェント(ウイリアムズ)との接触(2点)で累積10点となり、先日のイタリアGPでピエール・ガスリー(アルピーヌ)と接触したことで出場停止ラインに達した。このシステムが導入されて以降、F1で累積12ポイントに到達したのはマグヌッセンが初めてだ。
しかしながら、過去のF1では様々な理由で出場停止処分を受けたドライバーが7人いる。70年以上の歴史を考えると非常に少ないと言えるが、今回はその7人がどのような理由で罰せられたかを紹介する。
2012年:ロマン・グロージャン
写真: Steven Tee / Motorsport Images
2012年のロマン・グロージャン(ルノー)の出場停止は記憶に新しい。彼はマグヌッセンと違い、ひとつのアクシデントを問題視され処分に至った。
同年のベルギーGPでグロージャンは、スタート直後の攻防で当時マクラーレンのハミルトンに対してウォール側に幅寄せしたため、2台は接触。これによりコントロールを失ったハミルトンはグロージャンのマシンに追突して後ろから押すような格好となり、そのグロージャンのマシンは1コーナーに向かってターンインする集団に突進。多くのマシンが巻き込まれる多重クラッシュに発展した。
この事故の原因はグロージャンにあると判断され、チャンピオンシップを争うドライバーたちのレースに影響を与え、なおかつ著しくレギュレーションに反する行為があったとされた。結果的にグロージャンは翌週のイタリアGPに出場できず、代役としてジェローム・ダンブロシオが起用された。
1997年:ジャック・ビルヌーブ
写真: Williams F1
続いてのケースは、1997年のジャック・ビルヌーブ(ウイリアムズ)。フェラーリのミハエル・シューマッハーとシリーズタイトルを争う最中、シーズン終盤戦に出場停止となったこともあり、チャンピオンシップの行方にも影響を与えかねない出来事だった。
出場停止の原因となったのは、日本GPフリー走行での黄旗無視。ビルヌーブ以外にも多くのドライバーが同様の違反をしており、全員に執行猶予付きの出場停止処分が科されたが、ビルヌーブだけが過去に同様の違反を複数回行なっていたため、日本GPの決勝レースで出場停止が適用されることになった。
チームは裁定を不服として控訴した上、レースまでに公聴会を開く時間がなかったため、ビルヌーブはひとまず決勝に出走することを許された。レースを5位でフィニッシュしたビルヌーブだったが、その後FIAが控訴を棄却したため失格に。出場停止ながら厳密にはレースに“出走”したものの、後にそれが認められなかったというレアケースだ。
1994年:ミハエル・シューマッハー
写真: LAT Photographic
7度のF1ワールドチャンピオンであるミハエル・シューマッハーがベネトンで初めてのタイトルを獲得したこのシーズン、シューマッハーは最終的に2戦の出場停止処分を受けた。その引き金となったのが、イギリスGPであった。
同レースのフォーメーションラップ中、シューマッハーはポールシッターであるウイリアムズのデイモン・ヒルが遅かったことに業を煮やしてか、ヒルを追い抜いてしまった。これにより5秒のストップ&ゴーペナルティが科されたが、チームが抗議している間これを無視。ペナルティ不履行で黒旗(失格)が出されてしまった。
その後ベネトンはシューマッハーをピットロードに迎え入れ、5秒ペナルティを消化させてレースに復帰させたが、結局失格に。2レース出場停止の処分まで下った。ベネトンは控訴したため処分はすぐには執行されなかったが、ベルギーGPでもスキッドブロック違反で失格となると、直後の2レース(イタリアGP、ポルトガルGP)で出場停止を消化した。
1994年:ミカ・ハッキネン
シューマッハーの出場停止の陰に隠れるような形で、実は彼の生涯のライバルであるミカ・ハッキネンも1994年シーズンに1戦の出場停止を受けている。
当時マクラーレンのハッキネンは、イギリスGPの最終ラップにジョーダンのルーベンス・バリチェロと接触。この時点では執行猶予付きの出場停止処分が下ったが、続くドイツGPでもスタート直後の攻防でウイリアムズのデビッド・クルサードと接触してしまい、複数のマシンを巻き込む形でバリアにクラッシュした。
これにより早速処分が下る形となり、次のハンガリーGPでの欠場を余儀なくされた。この時点で9戦中7リタイアに終わっていたハッキネンにとっては、痛い制裁であった。
1994年:エディ・アーバイン
写真: Sutton Images
1994年シーズンは3人ものドライバーが出場停止となった稀有なシーズンであり、エディ・アーバインに至っては3戦出場停止という重い処分を受けた。
1993年の日本GPでジョーダンからデビューし、そのアグレッシブな走りでいきなり入賞も記録していたアーバインは翌年のシートも掴んだが、開幕戦ブラジルGPで多重クラッシュの原因となった。
アーバインはリジェのエリック・ベルナールを追い抜くべく、ベネトンのヨス・フェルスタッペンに強引に幅寄せする形で進路を変えた。その結果フェルスタッペンが芝生にタイヤを落としてスピンすると、アーバイン、ベルナール、そしてマクラーレンのマーティン・ブランドルを巻き込む大クラッシュに発展した。
これによりアーバインは1戦出場停止となったのだが、ジョーダンは控訴。その結果FIAはそれを棄却しただけでなく、出場停止は3戦に増えてしまった。なお、出場停止中の第2戦パシフィックGPでは鈴木亜久里が代役として出走した。
1989年:ナイジェル・マンセル
写真: Ercole Colombo
当時フェラーリのナイジェル・マンセルは悪名高きエストリルでの失格劇によって出場停止を食らってしまった。
1989年ポルトガルGP、チームメイトのゲルハルト・ベルガーを抜いてトップを独走していたマンセルは、40周を終えたところで猛然とピットロードに駆け込むと、オーバースピードでチームのピットボックスに進入したため、マシン1台分ほど行き過ぎてしまったのだ。マンセルはリバースギヤを使って逆走してボックスに戻りタイヤ交換をしたが、これはれっきとしたレギュレーション違反。失格の裁定が下されてしまった。
しかしマンセルはマクラーレンのアイルトン・セナを追いかけることに必死で、黒旗の提示を再三無視して走行。結局2台は接触し、マンセルはあろうことかセナを巻き添えにしてグラベルの餌食となってしまった。この行為でマンセルは5万ドルの罰金と1レース出場停止を命じられた。
1978年:リカルド・パトレーゼ
写真: Rainer W. Schlegelmilch / Motorsport Images
1993年まで現役を続け、16シーズンに渡ってF1を戦い“鉄人”と呼ばれたリカルド・パトレーゼだが、アロウズに所属していたキャリア初期は攻撃的なドライビングをするドライバーとみなされることが多かった。
1978年イタリアGPは、スタート直後に10台のマシンが絡む大規模なアクシデントが発生。バリアにクラッシュして炎上したロータスのロニー・ピーターソンはすぐに救出され、脚に重傷を負っていたものの命に別状はないと思われていたが、搬送後に塞栓症によりこの世を去った。
そんな悲劇的なアクシデントは、パトレーゼがジェームス・ハントを追い抜こうとしたことが原因だと非難された。その後多くのドライバーが、パトレーゼを出場禁止にしなければ次戦アメリカGPへのエントリーを取りやめると主張。その結果、パトレーゼは実際にアメリカGPへの出走を禁じられてしまった。
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