ミカ・ハッキネンが名門ロータスで過ごした2年間。彼の速さとチームの努力が苦境を救った
1998年、1999年と2度に渡ってF1ワールドチャンピオンに輝いたミカ・ハッキネン。彼のF1キャリアの始まりは名門のチーム・ロータスだった。決して万全とは言えないチーム状況だったが、彼はロータスで過ごした2年間を誇りに思っている。
1991年のF1開幕戦、アメリカGP。フェニックス市街地コースで行なわれたこのレースには18チームから34名ものドライバーがエントリーし、予備予選も実施されていた。その中でデビュー戦ながら13番グリッドを確保したのが、ロータスの新鋭ミカ・ハッキネンであった。
ハッキネンは1990年のイギリスF3でチャンピオンを獲得。同年のF3マカオGPではとあるドイツ人と接触して優勝を逃したが、それこそが後にF1で最大のライバルとなるミハエル・シューマッハー。ただ、彼らがF1でタイトルを争うことになるのはまだ先の話だ。
かつてベネトンを率いたピーター・コリンズをオーナーに迎え、建て直しを図ろうとしていたロータスは、実力のあるドライバーを獲得しようとしていた。そんな中、ケケ・ロズベルグがマネージャーを務めるハッキネンに白羽の矢が立ったのだ。同時にロータスは資金不足でもあったため、彼の母国フィンランドのスポンサーを獲得することに奔走することになった。
当時のことをハッキネンは次のように振り返る。
「ブランズハッチで行なわれたF3のレースで優勝した後、ベネトンでテストをする機会を得た」
「ピーターに会ったのはそれが初めてだった。その後、彼がロータスの運営を引き継ぐことになった時、彼はケケに声をかけたんだ」
ロータスがハッキネンとの契約を発表したのは1990年のクリスマスのことだった。その際にはPRの一環として、ギフトラッピングされた1990年マシン、ロータス102の風洞モデルがヘルシンキへと輸送されるという力の入りようであった。
ロータスが1991年シーズンに投入した102Bは、前年度のマシン102を焼き直しし、搭載エンジンをランボルギーニV12からジャッドEV V8に替えただけの代物であった。さらにその102のベースとなったのが1989年マシンの101。同年のレギュラードライバーであるネルソン・ピケや中嶋悟に合わせた小さなコックピットは102Bにもそのまま踏襲されており、ハッキネンはこれに窮屈さを感じていた。
「コックピットが狭く、ギヤレバーも小さかったから、何度も(ギヤ操作を)ミスして叱られたよ!」
「重く、遅く、小さく、そして運転しにくいマシンだった」
狭いコックピットに悪戦苦闘
Photo by: Motorsport Images
開幕戦フェニックスではステアリングホイールが外れるトラブルにも見舞われリタイア。第2戦ブラジルGPでは9位完走を果たし、第3戦サンマリノGPを迎えることとなる。
サンマリノGP予選でのロータス勢は、ハッキネンが25番手、ジュリアン・ベイリーが26番手と苦戦。辛くも決勝進出を果たした。迎えた決勝レースはウエット路面でスタートする難しいコンディションとなった。
「天候は最悪だった」とハッキネンは言う。
「トップドライバーが次々と脱落していったので、適切な時に適切な場所にいることが重要だった。唯一の問題はジュリアンが僕の前にいることだった」
「僕はプッシュして彼に追い付こうとしていたが、エンジンが壊れてしまうことが心配だった。その後彼がギヤボックスのトラブルで遅れたので、彼をオーバーテイクした。僕たちは5位と6位でフィニッシュした。信じられなかったよ」
結果的にロータスにとって、サンマリノGPはシーズンのハイライトとなった。ベイリーは予選落ちが続いたことで、開幕4戦を終えてコリンズのお気に入りでもあるジョニー・ハーバートに取って代わられ、ハーバートが全日本F3000に参戦する際はミハエル・バーテルスが代役として出場した。
ハッキネンとハーバートのコンビは1992年まで続き、共にブロンドヘアーでボーイズバンドのような雰囲気を醸し出すふたりは人気を博した。そしてふたりはホテルで生活を共にし、マシンの愚痴などを言い合った。
コリンズのお気に入りでもあったハーバートの加入は、ハッキネンにとって複雑であった
Photo by: Motorsport Images
「部屋をシェアするのは当たり前のことだった」とハッキネンは振り返る。
「バスルームに入ると、ジョニーが既に風呂に入っていたことがある。その時彼は一緒に入ろうと言ってきたが、いくらなんでもそれはないよね」
このようにハーバートとのエピソードを語ったハッキネンだが、ハーバートとコリンズが既に親しい関係を築いていたことに関しては、あまり面白く思っていなかったようだ。
「ジョニーはピーターと仕事をしたことがあったから、彼がチームメイトになった時はあまり気分は良くなかったね」
「僕は人気者のはずだった。でもボスはジョニーを気にかけるようになったんだ」
ハーバートは1988年にブランズハッチで行なわれた国際F3000のレースで大事故に見舞われ、足に重傷を負ったことでも知られている。ハッキネンはチームメイトの傷跡を見てショックを受けたことを覚えていると言う。
「僕は傷跡を見たことがあるし、彼はその痛みについて口にしていたこともある」
「ピーター・コリンズも心配していた。彼が(事故後)復帰するのが早過ぎたことは残念だったけど、それでも彼は頑張ってくれた。ブレーキングも加速も良かったし、素晴らしいマシンコントロールをしていた」
「僕たちのドライビングスタイルは異なっていた。僕はいつも早めにターンインしてアクセルを開け、エンジンのパワーを常に最大に保ちたいと思っていた。ジョニーはブレーキングの時もマシンは真っ直ぐのままで、ターンインを遅らせる。型落ちの102では大した違いは出なかったんだけどね!」
クリス・マーフィーが設計した待望のニューマシン、ロータス107の投入は遅れに遅れた。1992年シーズン開幕直後はハッキネンとハーバートも引き続き102の改良型(この年からフォードHBエンジンを搭載し、102Dと呼ばれた)を走らせ、第5戦サンマリノGPからまずハーバートに107がもたらされた。
サンマリノGPの予選では、107のハーバートが26番手、102Dのハッキネンが27番手で予選落ちに終わった。ちなみにこれは彼にとってキャリア最後の予選落ちとなった。次のモナコGPではハッキネンも107を手にし、予選14番手。ハーバートも9番手に入るなど、107は大いに期待された。
「ロータス107は、僕がF1で初めて走らせた“本物の”レーシングカーだった」とハッキネンは言う。
ロータス107
Photo by: Rainer W. Schlegelmilch / Motorsport Images
「クリス・マーフィーがやってのけたことは、予算を考えればとんでもないことだったし、(フォード)コスワースHBも大きなステップを踏んでいた。良いマシンであるためには空力バランスが良くないといけないし、それができて初めて開発をスタートさせられるんだ。あのマシンは高速コーナーでも低速コーナーでもうまく走らせることができたが、中速コーナーではイマイチだった」
その後、ロータス107を駆るハッキネンとハーバートは中団グループで存在感を放った。フランスGPではハッキネンが4位、ハーバートが6位でダブル入賞を飾ると、ハッキネンはハンガリーGPでも4位に入った。
そのハンガリーGPについて、ハッキネンはこう振り返る。
「モノショック式のフロントサスペンションは、ブレーキングでも加速でも安定していたので、ハンガリーにはうってつけだった」
「僕は4番手を走り、マクラーレン・ホンダのゲルハルト・ベルガーと3番手争いをしていたのを覚えている。ホンダのパワーは凄まじかったから、ゲルハルトがどこで速いか、僕がどこで速いかを見極めていた。最終的には僕が頑張り過ぎてコースアウトしてしまったけど、うまくリカバーしてポジションを失わずに済んだ」
この殊勲の4位入賞もあり、ハッキネンはパドックで注目を集める存在となる。ハッキネンは結果的にこの年6度の入賞を記録し、ランキング8位でシーズンを終えた。ロータスも彼に残留して欲しいと思っていたが、他チームが黙ってはいなかった。
「誰もが僕を欲しがっているように思えたし、あの頃は素晴らしかった」とハッキネン。
「ケケと僕は、誰が最高の未来、チャンスを与えてくれるのかについて、そしてもちろん資金のことも含めて検討していた」
結果的にハッキネンは1993年にマクラーレンへと加入し、その後1998年、1999年のドライバーズタイトル2連覇に繋がることになる。ロータスは最終的に1994年シーズンをもって消滅してしまったが、ハッキネンは当時を振り返ると、ロータスで過ごした2年間はポジティブなものだったと語った。
「ロータスの人々は素晴らしかった」
「彼らはスポンサーを手に入れるために奔走してくれた。特に日立や富士通、イエローハットといった日本企業にアプローチした。これは賢明だったと思う。日本人はロータスのブランドを愛しているし、日本はハス(Lotus)の花と文化的な関わりがあるしね」
「僕たちは多くのことを成し遂げ、素晴らしい結果を残した。あのような機会をもらったことに今でも感謝している。ケッタリンガムホールに行って、かつてチーム・ロータスで活躍したドライバーの写真を見た時、これがいかに貴重な機会だったかを改めて認識させられた。素晴らしい歴史を持つチームであり、そこでドライブできたことを誇りに思っている」
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