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【特集】“勇敢な男”ジョニー・ハーバートの鮮烈なデビュー:1989年ブラジルGP

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【特集】“勇敢な男”ジョニー・ハーバートの鮮烈なデビュー:1989年ブラジルGP
執筆:
2020/04/09 10:34

1989年、ベネトンで鮮烈なデビューを飾ったジョニー・ハーバート。足の痛みに耐えながらも大殊勲の4位でフィニッシュした開幕戦ブラジルGPを、ハーバート本人が振り返る。

 イギリス人ドライバーのジョニー・ハーバートは、1989年〜2000年までの12シーズンに渡ってF1に参戦し、161戦に出走。3勝を挙げ、7度の表彰台を獲得した。そんな彼のF1デビューまでの道のりは、波乱に満ちたものだった。

 1988年、国際F3000(現FIA F2)に参戦していたハーバートは、ブランズハッチで行なわれたレースで多重クラッシュに巻き込まれ、足と足首に重傷を負った。足を切断する可能性もあったほどの大きな事故だったが、ハーバートはその後リハビリに励み、1989年のF1開幕戦ブラジルGPにベネトンチームの一員としてやってきた。

 当時のベネトンのチーム監督は、ハーバートの長年の師匠であるピーター・コリンズであった。しかし当時、後に監督となるフラビオ・ブリアトーレがチームに参画し始めており、彼はハーバートの起用を疑問視していた。

「フラビオはまだF1の世界に来たばかりだったが、僕がちゃんと走れるかどうか懸念していたようだった」とハーバートは当時は振り返る。

「プレシーズンテストの際に彼は突然、プログラムにないレースディスタンスの走行を僕に要求したんだ」

「燃料を満タンにして、僕はコースに出ていった。ただピットウォールには誰もいなくて、みんな裏のホスピタリティに戻っていたんだ。僕が10周くらいしか走れないだろうと思っていたからだ。でも1時間半後、僕はガス欠でコース上に止まっていたんだ!」

「それが何よりもの証明になったと思う。(ブラジルGPが行なわれる)リオに着いた時、(チームオーナーの)ルチアーノ・ベネトンとピーター、そしてフラビオと僕とでミーティングをした。彼らが『本当に走れるのか?』と聞いてきたので、僕は『ああ、レースディスタンスを走ってそれを証明したよね』と返した。そしたら彼らは言い返せなくなっていた」

「不測の事態に備えて、エマニュエル・ピロがローマ空港で待機していた。でも僕は(チームメイトの)アレッサンドロ・ナニーニを予選で上回り、そのままレースに臨んだ」

■強烈な痛みを無理やり抑え、レースに

Johnny Herbert, Benetton B188

Johnny Herbert, Benetton B188

Photo by: Mark Sutton / Motorsport Images

Johnny Herbert, Benetton B188

Johnny Herbert, Benetton B188

Photo by: Motorsport Images

Johnny Herbert, Benetton B188

Johnny Herbert, Benetton B188

Photo by: Motorsport Images

Johnny Herbert, Benetton B188

Johnny Herbert, Benetton B188

Photo by: Motorsport Images

 無事レースに出場することとなったハーバート。彼はブラジルGPの期間中いつも通り陽気に振る舞っていたが、実際には酷い痛みに苦しんでいた。

「僕はオーストリアに行って、体力を戻すために痛みを我慢しながら色々とやった。でも怪我の状態は万全とは言えなかったので、(ブラジルGPの)パドックは小さい赤い自転車で移動した。そして(マシンをドライブする際は)右足で強くブレーキを踏むことができなかった」

「リオのサーキットには、バックストレート手前の左コーナーにバンプがあった。僕の左足はまだ敏感だったし、足首はメロンくらいの大きさに腫れ上がっていた。バンプに乗ると、マシンの側面に足が当たって死ぬほど痛かった」

「レースウィークエンドが進む中で、この痛みをなんとかして乗り越えないと、本当にレースを走りきれなくなると思った。そして僕は、バンプに乗った時にモノコックの底に思いきり足を打ち付けてみた」

「とんでもなく痛くて、マシンの中で絶叫した。でもそれ以降は痛みを感じなくなることに気付いた。つまり痛みの限界を超えたんだ。だから僕はレース前のインスタレーションラップでそれをやった」

Johnny Herbert, Benetton B188

Johnny Herbert, Benetton B188

Photo by: Mark Sutton / Motorsport Images

 予選2日間を通してチームメイトのナニーニを上回り、10番手タイムを記録したハーバート。彼に求められていたのは、猛暑のリオで61周をクリーンに走りきることだけだった。

「レース自体は安定した走りができていて、とてもうまくいった」とハーバートは語る。

「僕だけでなく、パドルシフト導入初戦だったフェラーリのナイジェル・マンセルも、まさかフィニッシュするとは思われていなかっただろう。でも彼は最終的に優勝した。信じられないよ」

「(マンセル以外に)僕の前を走っていたのは、クラッチにトラブルを抱えていたアラン(プロスト/マクラーレン)とマーチのマウリシオ・グージェルミンだけだった。ピットボードに『残り1周』と書かれているのを見た時、彼らが目の前にいたので『デビュー戦で表彰台に上がるチャンスだ!』と思ったけど、そこでチェッカーが振られた。興奮していたクルーがボードを変えるのを忘れていたみたいだね!」

Johnny Herbert, Benetton B188

Johnny Herbert, Benetton B188

Photo by: Mark Sutton / Motorsport Images

 デビュー戦を4位でフィニッシュしたハーバートは、チーム内での立場を確実なものとした。シーズン中盤までは……。彼は第6戦カナダGPで予選落ちを喫すると、そのままチームを追われることとなってしまった。

「僕にとって嬉しいのは、人々がそのレースのことを今でも覚えてくれているということだ」とハーバートは語った。

「あの後2年間はリハビリをしたり、日本でレースをしたりと、十分な調整をすることができた。でも(本格的に)F1に戻ってきた時には、ジャン・アレジやミハエル・シューマッハーなど、新しい血が入ってきていた。僕はもはや中古品のように見られていただろう」

「でもあのレースが僕のF1キャリアを救った。人々に『あいつはどうやってそんなことを成し遂げたんだ?』と思わせることができたからだ」

 ベネトンを追われたハーバートはティレル、ロータス、リジェを渡り歩いた後、1994年終盤戦からベネトンに復帰。1995年にはシューマッハーのチームメイトとして2勝を挙げた。その後はザウバーやスチュワートで光る走りを見せ、2000年にF1を引退した。

■勇敢な男

Johnny Herbert runs to help Takao Wada

Johnny Herbert runs to help Takao Wada

Photo by: Motorsport Images

 ハーバートの勇敢さを物語るエピソードが、実はもうひとつある。それは1991年に富士スピードウェイで行なわれた全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)の『富士500km』でのひとコマだ。そこで彼はスポーツマンの鑑とも言える行動を起こす。

 レース中、和田孝夫が駆る日産のマシンがメインストレートエンドで突然宙を舞った。時速300km近いスピードで横転した和田のマシンは何度も激しく回転し、逆さまになって炎に包まれた。

 この事故の一部始終は和田のオンボードカメラに収められているが、和田は逆さまになったマシンの中でもがいており、脱出するのに少し手間取っているような状態だった。

 その事故現場を通ったハーバートは、マツダのマシンを急停止させ、和田の元へ走っていったのだ。

 この時のことを、ハーバートは次のように語った。

「ターン1に近付いた時、逆さまになったマシンが炎に包まれているのが見えた。ドライバーが脱出していない様子だったが、誰もマシンを止めていなかった」

「でもその時僕は思った。『この男を助けた方が良いに決まってる!』とね。今すぐ行けばマーシャルよりも早く向かえると思ったので、僕は走った」

 大きなクラッシュにも関わらず、幸いなことに和田は無傷で、コックピットから自力で脱出してマシンから離れることができた。これはハーバートが到着したのとほぼ同じタイミングだった。

「ああいうものを見た時、僕の本能が彼を助けに行かせたんだ」とハーバートは言う。

「他の大勢のドライバーはそれをしなかった。もしかすると、彼らは見たくないものを見てしまうことが怖かったのかもしれないし、それは普通のことだと思う。ただ僕はああいう大事故を乗り越えてきたので、それができたのかもしれない」

 和田の無事を確認したハーバートは、再びマシンに乗り込みレースを戦った。この勇敢な行動が称賛され、彼は同年の英国オートスポーツ・アワードのスポーツマン賞を受賞した。

 

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シリーズ F1
執筆者 Charles Bradley