逃した魚はあまりに大きかった……鮮烈デビューのミハエル・シューマッハーをわずか1戦で失ったジョーダンF1、明暗分けた契約書の“トリック”
1991年にジョーダンからF1にデビューし、わずか1戦でベネトンに電撃移籍したミハエル・シューマッハー。当初ジョーダンと1993年シーズンまでの契約を結ぶ予定だったシューマッハーがなぜ、チームを離れることに“成功”したのか?
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史上最多となる7度のワールドチャンピオンに輝き、偉大なるレジェンドとして今もF1の歴史に名を残すミハエル・シューマッハー。彼は1991年のベルギーGPでベルトラン・ガショーの代役としてジョーダンからF1デビューを飾り、いきなり予選7番手に入ったことでその才能が関係者の目に留まり、2週間後のイタリアGPで当時“4強”の一角を担っていたベネトンに移籍したのはあまりにも有名だ。
ただ実はジョーダンは、1993年までシューマッハーを起用すべく契約にサインまでさせていた。その文書の存在は、2005年にmotorsport.com傘下の『Motorsport News』紙によって公にされている。
ではなぜ、シューマッハーは契約にサインしたにもかかわらず、わずか1戦でベネトンに移籍することができたのか? その秘密は、シューマッハーがジョーダンのチームオーナーであるエディ・ジョーダンに宛てた文書の文言に隠されていた。
シューマッハーとジョーダンが交わした契約書
Photo by: Motorsport News
1991年8月22日、つまりベルギーGP前の木曜日の日付が入った契約書にはこう記されている。
親愛なるエディへ
1991年のベルギーGPに私を起用してもらえるのであれば、私はモンツァ(イタリアGP)を前に1991年、1992年、1993年(メルセデスの承認次第では1994年)のドライバー契約にサインする。
この文章を見れば、シューマッハーが1993年までジョーダンでドライブする契約が成立したように見えるが、原文ではとある箇所に修正が加えられている。それが『ドライバー契約(driver agreement)』の前に付く冠詞。元々の文書では“the driver agreement”となっていたところを、“a driver agreement”に書き換えられた跡がある。
この些細な修正をジョーダンが見落としたことは大きな痛手となった。driver agreementの前に“the”が付く場合、その契約は以降の文章で示された1991年〜1993年(1994年)の契約全体を指す。しかし“a”が付く場合、契約はそれらの内のたったひとつだけを指すことになる。つまり、期間中のファクトリー訪問など些細な取り決めを結べば、それが“a driver agreement”と解釈することもできた。
かくしてシューマッハーは法廷闘争の末にベネトンへ移籍。1992年に初優勝を飾ると、1994年からはドライバーズタイトルを2年連続で獲得し、現役最強ドライバーとしての地位を確立した。もしシューマッハーがオリジナルの文章のままでジョーダンとの契約にサインしていれば、ジョーダンチームの未来が大きく変わっていたかもしれない。
Motorsport Newsに対し、ジョーダンは次のように語っていた。
「契約に関して色んなことを教えられた」
「F1では多くの人と多くの契約を交わすので、細かいところまで把握しきれないんだ。サッカー選手と1試合だけ契約することなんて普通ないだろう?」
「確かに我々は彼を引き留めたいと思っていたし、彼も残りたいと思ってくれていたはずだ。ベルギーGPの後、テストに彼が現れなかった時、戦いが始まることを予感した」
「信じられないことに、F1では契約に“the”を使うべきところを“a”とするだけで大きな何かが決まってしまう。ただそれがモーターレーシングの世界だ。あれ以降、全ての文章に注意を払うようになった」
エディ・ジョーダン(左)とシューマッハー
Photo by: Sutton Images
「シューマッハーのマネジメントチームはベネトンに移籍することでより多くの資金を得られると考えていた。バーニー・エクレストンもフラビオ・ブリアトーレ(ベネトン監督)に対し、彼を引き抜くよう言ったようだ」
またジョーダン曰く、法廷闘争の末にシューマッハーを手放すことになったものの、示談金のようなものが支払われることはなかったという。
「私は一切の金銭を得られなかった」とジョーダンは言う。
「ただ人生には不思議な巡り合わせというものがある。シューマッハーがいなくなった後、我々は弟のラルフを獲得し(1997年)、ラルフがウイリアムズ移籍を希望した時にはミハエルがその契約を解除させるために金を払ったんだ」
1991年に発足したばかりだったジョーダンは同年のコンストラクターズランキング5位に入るなど健闘したが、シューマッハーの離脱後は低迷した。1992年はヤマハエンジンを搭載してマウリシオ・グージェルミンとステファノ・モデナを起用するも、獲得したのは1ポイントのみ。初優勝を飾ったのはそれから6年後の1998年だった。
1992年は苦しいシーズンとなったジョーダン
Photo by: Sutton Images
「ミハエル・シューマッハーをキープできていればどんな未来が待っていたのか、それについて答えるのは非常に難しい」と語るジョーダンは、さらにこう続けた。
「ベネトンも彼が加入するまではそれほど成功したとは言えない状況だったが、我々だって当時は新興チームだった。結果的に我々はベネトンほどの素晴らしい成果を収められたとは言わないが、自分たちの力は出し切れたと思っている」
「彼がベネトンで成し遂げたことを考えると、我々にも同じことができたかもしれないとも思う。アンラッキーだった」
当時シューマッハーのマネージャーを務めていたウィリー・ウェーバーも、Motorsport Newsで当時のことを回想している。彼は“a”の一文字が自分たちを救ったと表現した。
「契約書に書かれていたのは、『スパで走った後、“契約”(a contract)にサインする』ということだった。つまり年に2回、ファクトリーを訪問するという契約にもできた。それが“a contract”だ。何でも良かった」
「エディが(1992年に)ヤマハエンジンを積もうとしていることは知っていたが、それは我々が期待するものではなかった。この“a”が我々を救ったのだ。法廷でも、『ミハエルとウィリーは“a contract”にサインした』ということは明確で、すぐに判決が出た」
もし、契約書に“the contract”と書かれていた場合、シューマッハーはジョーダンに残留する必要があったのか? そう問われたウェーバーは次のように返した。
「そうだ。ミハエルは後1年、もしかすると2年残る必要があっただろう。ただあの時(1992年)のジョーダンは大失敗で、リザルトを見る限りは1年を棒に振ることになっていただろう」
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