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ミカ・ハッキネンが生死を彷徨った30年前の大事故。速さは失わなかったが、短命F1キャリアのきっかけに「もう運試しはやめようと思った」

ミカ・ハッキネンが、自身のF1キャリアで最も悪夢のような1日となった1995年のオーストラリアGPを回想した。

Mika Häkkinen, McLaren

 2度のF1ワールドチャンピオンであるミカ・ハッキネンは、今から30年前、オーストラリアのアデレードで恐ろしいクラッシュに見舞われた。輝かしいF1キャリアに暗い影を落としたその事故について、本人が振り返った。

 ハッキネンは1991年にF1デビューを果たすと、1993年から引退までマクラーレンで活躍。1998年、1999年にはドライバーズタイトルを手にした。キャリア通算で優勝20回、ポールポジション26回、ファステストラップ25回をマークした、F1史に残るドライバーのひとりだ。

 そんな“フライング・フィン”と呼ばれたハッキネンが生死を彷徨うアクシデントに見舞われたのが、1995年のオーストラリアGP。11月10日に行なわれた金曜予選の出来事だった。

 ハッキネンはアデレード市街地コースで最も高速で曲がる左コーナー、ブリュワリー・ベンドへの進入時に左リアタイヤがパンク。コントロール不能となりスピンしながらバリアに激突した。その時の速度は200km/h近かったと推定されている。

Mika Hakkinen, McLaren

Mika Hakkinen, McLaren

Photo by: Sutton Images

 クラッシュの衝撃でヘルメットをコックピットに打ちつけたハッキネンは頭蓋骨を骨折。メディカルによる現場での緊急気管切開が行なわれ、昏睡状態のままロイヤル・アデレード病院に搬送された。

 幸い一命を取り留めたハッキネンだったが、目を覚ましてからは悪夢のような日々を過ごしたという。彼はMotorsport Networkが2020年に公開したドキュメンタリー映画『Motorsport Heroes』の中で次のように語っている。

「1995年の事故は本当に大変だった。オーストラリアのアデレードでのことだった」

「私はロングストレートを全開で走っていた。コーナーに差し掛かると、(タイヤが)破裂したというよりも、『プシュ』っと空気が一気に抜けたような感覚だった」

「それでマシンがボトミングを始めて、当然コントロールを失った。出口には大きな縁石があって、それに乗って何度か跳ねた後、横向きにバリアへ突っ込んだんだ」

「数日間は昏睡状態だった。そして目を覚ましたときから、本当の悪夢が始まった。『なんてことだ』と思ったよ。(頭を)あまりにも強く打ったせいで、顔の片側の筋肉を動かせなくなっていた。神経が損傷していたんだ。寝る時も、テープを貼らないと片目が閉じなかった」

「その後は嗅覚や味覚が正常かどうかを調べるテストが始まった。結局、5週間も入院していた。ガールフレンドがオーストラリアまできて支えてくれたよ」

 ただ1996年の開幕戦には見事カムバックを果たし、その後F1ワールドチャンピオンを手にすることになるハッキネン。同じくMotorsport Network系列の雑誌『GP Racing』のインタビューで、あの事故によってスピードが落ちたと感じるかと尋ねられると、次のように述べた。

「いや、(事故がなければ)もっと速くなっていたとは思わないけど、もう少し長くキャリアを続けられたかもね」と2001年にキャリアを終えたハッキネンは言う。

「あの事故は自分に影響を与えた。ああいう事故はいつでも起こり得るし、モータースポーツは危険なんだということを痛感した。だからワールドチャンピオンになってすぐにこう思ったんだ。『うーん……これ以上運試しをするのはやめようかな』ってね」

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