奔放で自由人な天才、ネルソン・ピケのF1キャリアを振り返る
1980年代のF1を代表するドライバーであるネルソン・ピケ。3度のワールドタイトルを勝ち取った彼のキャリアを振り返る。
写真:: Rainer W. Schlegelmilch
ネルソン・ピケは、1981年、1983年、1987年にF1ワールドチャンピオンに輝き、通算23勝を挙げた。アイルトン・セナ、アラン・プロスト、ナイジェル・マンセルらと共に1980年代のF1を盛り上げたひとりである。今回はそんなピケのF1キャリアを振り返っていく。
ピケがF1デビューを果たしたのは、1978年のドイツGP。弱小チームのエンサインからエントリーした。その後マクラーレンで3レースを戦った後にブラバムに移籍し、1979年からフル参戦をスタートするが、これがキャリアにおける転機となる。
当時バーニー・エクレストンがオーナーを務めていたブラバムは、ハービー・ブラッシュ監督の下、鬼才ゴードン・マレーがマシンをデザインしていた。1979年のブラバムは前年の活躍から一転して低迷し、ニキ・ラウダが入賞2回、ピケが入賞1回にとどまったが、ピケは自身のたぐい稀な才能、スピードを見せつけ、マシン開発のためのテストにも精力的に参加した。そんなピケの存在は、ラウダが同年限りでの引退を決断する要因のひとつになったとも言われている(ラウダは後に復帰)。
翌1980年、ブラバムは息を吹き返した。ニューマシンBT49の戦闘力は高く、ピケは一躍タイトルコンテンダーとなった。1980年こそウイリアムズのアラン・ジョーンズに逆転を許しランキング2位に終わったものの、1981年はカルロス・ロイテマン(ウイリアムズ)との激闘を制して初のワールドチャンピオンとなった。
1982年は新たに搭載したBMW製ターボエンジンの熟成期となり、タイトル争いに加わることはなかった。彼がこの年目立った場面を強いて挙げるならば、優勝したカナダGPよりも、エリセオ・サラザールとコース上で乱闘を繰り広げたドイツGPだろうか……。
そして1983年はグランドエフェクトカーが禁止されたことにより、ブラバムはダーツの矢のような細長いシェイプが印象的なマシン、BT52(BT52/B)を投入。ピケはルノーのプロストを最終戦で逆転して2度目のドライバーズタイトルを手にした。
■天才デザイナー、マレーが語るピケ
デザイナーとしてピケの2度のタイトルの立役者となったマレーは、ピケのことを次のように評した。
「才能あふれる素晴らしいドライバーだ。彼と共に働くことは喜びであり誇りだった。我々は家族のような関係であり、チームの域を超えた間柄だったと自信を持って言える」
「我々は当時、情熱と献身にあふれていた。風洞モデルを持参してサウサンプトン大学に行き、よく実験をした。ネルソンはずっとそこにいて、色んなことを学んでいた。彼は本当に勉強熱心なヤングスターだったので、エンジニアリングという点からも非常に良い関係を築けていた」
■7年間過ごしたブラバムを離れ、ウイリアムズに
ディフェンディングチャンピオンとして迎えた1984年、ピケは年間9回のポールポジションを獲得する。これは当時のシーズン最多記録だったが、ターボの信頼性が今ひとつで、リタイアも9回を数えた。その結果2勝・ランキング5位に終わった。
ミシュラン撤退によりブラバムは1985年からピレリタイヤユーザーとなるが、この年もタイトル争いに絡むことはできなかった。元来レースとレースの間はリラックスした時間を過ごすことが好きなピケは、際限なく行なわれるピレリのタイヤテストにうんざりしていた。そんな中、戦闘力を上げつつあったウイリアムズ・ホンダのフランク・ウイリアムズ代表が、高額のオファーを持ちかけたため、彼は7年間過ごしたブラバムを離れることを決めた。
ピケは自身のブラバム時代について次のように語った。
「素晴らしいものだった。私たちは7年間共に仕事をして、2度チャンピオンシップを獲得した。大家族のような雰囲気だったし、チームと共に学び、働くことが最も重要なことだった」
■ウイリアムズは“安住の地”ではなかった
1986年は、ウイリアムズのピケ、マンセル、そしてマクラーレンのプロストによる三つ巴のタイトル争いとなったが、最終戦でプロストが大逆転を果たし、2年連続のチャンピオンとなった。翌1987年はウイリアムズが圧倒的な速さと安定感を見せ、選手権をリード。ピケはマンセルを下して3度目のドライバーズタイトルを手にした。
ピケはある意味、敵を作りやすいキャラクターだったのかもしれないが、ともかく彼は3度目のタイトルを獲得した1987年がこれまでで最も厳しいシーズンだったと話した。
「私はあらゆるものと戦わなければいけなかった。イギリスのチームで、イギリス人のチームメイトがいる中でチャンピオンになるということは簡単ではないんだ!」
「私はチーム内に派閥を作って、なんとかチームの中で生き延びようとした。とても困難な1年だった」
そういったチーム内の悪しき雰囲気は、契約交渉の際にも悪影響を及ぼした。ピケはタイトルを獲得した直後にも関わらず、翌年からウイリアムズを離れてロータスに移籍することを選んだ。中嶋悟のチームメイトとして加入するロータスではナンバーワン待遇が確約されていた上に、強力なホンダエンジン搭載車でもあったからだ。
しかしカーナンバー1をつけて挑んだ1988年シーズンは満足のいくものではなかった。しかも翌1989年にはホンダエンジンから非力なジャッドエンジンに代わってしまい、さらに成績は低迷した。
新天地を求めたピケは1990年にベネトンに移籍。日本GP、オーストラリアGPを制した。1991年はカナダGPで優勝するなど見せ場を作り、ミハエル・シューマッハーという次世代スターの登場を見届けて、F1から引退した。
F1引退後は、世界3大レースであるインディ500マイル、ル・マン24時間レースにも挑戦したが、いずれも勝利を収めることはできなかった。ちなみに彼はF1モナコGPも未勝利である。
彼の最後のレースは、2006年に母国ブラジルのインテルラゴスで行なわれたスポーツカー耐久レースで、息子のネルソン・ピケJr.、エリオ・カストロネベスらと共にアストンマーチンDBR9を駆り優勝した。
現在ではビジネスも行なっているピケ。特に商用車用GPS追跡システムが成功を収めた。そんなピケはこうジョークを飛ばす。
「レースを引退した時、バカンスがいかに楽しいかを実感したよ!」
Nelson Piquet
Photo by: Jose Mario Dias
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