リカルド・パトレーゼ、名将フランク・ウイリアムズを偲ぶ「彼と働けたのは名誉なこと」

かつてウイリアムズで活躍したリカルド・パトレーゼが、先日逝去したフランク・ウイリアムズとの思い出を語った。

Riccardo Patrese, Williams FW14 Renault, leads Nigel Mansell, Williams FW14 Renault, and Ayrton Senna, McLaren MP4-6 Honda, at the start of the race

 ウイリアムズF1チームの創設者であるフランク・ウイリアムズが、11月28日に79歳で亡くなった。そのウイリアムズのドライバーとして1987〜1992年にかけて81レースを戦ったリカルド・パトレーゼは、フランク・ウイリアムズの下でレースすることができたのは、非常に名誉なことだったと語った。

 1977年にF1デビューを果たしたパトレーゼはチームを渡り歩き、1987年の最終戦オーストラリアGPからウイリアムズに加入。その後5年間にわたって、同チームのマシンを走らせた。

 しかしパトレーゼ曰く、1978年にウイリアムズF1が再出発する際に、そのドライバーとして採用される可能性があったのだという。

「彼(フランク・ウイリアムズ)は私のF1キャリアの初期から、私に大きく共感してくれていた”友人”なんだ。後にサウジアラビア航空のカラーリングで歴史をスタートさせるチーム(ウイリアムズF1)を設立した1977年の時点で、すでに私のことを見てくれていた。1978年にそのチームのデビューイヤーのドライバーとして、私かアラン・ジョーンスのどちらを起用するか、議論していたんだ」

 1977年、シャドウからF1デビューを果たしたパトレーゼは、ジョーンズと組んで1年目のシーズンを戦った。そのいずれかのドライバーを起用しようと、ウイリアムズは考えていたのだという。そしてジョーンズが起用されることになった。

「我々は両方とも、シャドウからのシートに関する返事を待っていた。そしてそれまで、フランクはF1で大した成績を残していなかったから、私の優先順位は、(シャドウから分かれた)アロウズに加入することだった。何をすべきかについてアランと話、選択肢を共有したことを覚えている。結局アランがウイリアムズに行き、私はアロウズに入った。それが、彼(ジョーンズ)の運命を変えたと確信できる」

 ジョーンズは1978年こそ優勝できなかったものの、1979年には4勝。そして1980年にはワールドチャンピオンに輝く。結果としてジョーンズは、1981年までのウイリアムズ在籍時に、合計11勝を挙げている。

 一方パトレーゼは、アロウズのマシンで苦労。結局在籍中に勝利を手にすることができず、F1初勝利はブラバムに移籍した後、1982年モナコGPのことだった。その後、1983年の最終戦南アフリカGPで2勝目を挙げたものの、その年限りでブラバムを離脱。翌年からアルファロメオで2年走った。しかしこのアルファロメオ時代にはなかなか成績が伴わず、表彰台1回のみ。1986年からブラバムに戻った。

 ただこのブラバムも既に低迷期を迎えており、成績は伴わなかった。ただ、ゴードン・マレーが生み出したBT55、そしてBT56を最大限活かそうと奔走。その献身的な姿勢は、当時ブラバムのオーナーだったバーニー・エクレストンを含む全てのチームメンバーに、大きな感銘を与えた。

 当時のウイリアムズは、同年限りでチームを離れることになるネルソン・ピケの後任を必要としていた。そして、パトレーゼに声がかかる。これには、エクレストンも大いに関わっていたようだ。

「フランクは、私のことを高く評価してくれていた」

 そうパトレーゼは語る。

「最初のコンタクトから10年後、エクレストンのアドバイスもあり、ウイリアムズに加わることになった。まず私にテストの機会を与えてくれ、その後、5年間チームに在籍することになった。私は自分のキャリアの中でも、最高の時期を過ごすことになったんだ」

 パトレーゼは1987年の夏、当時最強を誇っていたホンダV6ターボエンジンを搭載する、ウイリアムズFW11Bをイモラ・サーキットで走らせた。そして同年のサンマリノGPで4番グリッドに匹敵するタイムを記録……ウイリアムズとパトレーゼの契約が、すぐに結ばれることになった。そして日本GPの予選で負傷したナイジェル・マンセルの代役として、最終戦オーストラリアGP(アデレード)でFW11Bのステアリングを握ることになった。

Patrese racing a great Williams car for the first time – subbing for the injured Mansell in the 1987 finale in Adelaide.

Patrese racing a great Williams car for the first time – subbing for the injured Mansell in the 1987 finale in Adelaide.

Photo by: Motorsport Images

 ただ、パトレーゼの不運は続いた。ホンダは、87年限りでウイリアムズとの契約を終了させ、翌年からロータスにエンジンを供給することを決定したのだ。そしてウイリアムズは、ジャッドの自然吸気V8エンジンを使わざるを得なかった。

 この結果ウイリアムズFW12の戦闘力は満足いくモノではなく、マンセルとパトレーゼを持ってしても、入賞7回(表彰台2回)しか記録することができなかった。しかもマンセルは、出走した14戦中2回が2位表彰台、他は全てリタイアという極端な成績だった。

 ただ翌年からはルノーV10エンジンを手にしたウイリアムズ。マンセルの代わりにチームに加わったティエリー・ブーツェンが、カナダGPで優勝。シーズン途中でFW13を導入して以降は、最終戦でブーツェンが勝利を手にした。

 その翌年となる1990年は、チームにとっては満足いく1年だったとは言い難い。しかしながら、第3戦サンマリノGPでは、パトレーゼが自身通算3勝目を挙げた。

 そして1991年、ウイリアムズは飛躍の年を迎える。レイトンハウスから移籍してきたエイドリアン・ニューウェイが手がけたFW14は、シーズン序盤こそ信頼性不足に見舞われたが、チームに復帰したマンセルが5勝(表彰台9回)、パトレーゼも2勝(表彰台8回)を記録し、マクラーレン・ホンダとアイルトン・セナをシーズン終盤まで苦しめた。結局タイトル獲得には至らなかったが、マンセルがランキング2位、パトレーゼが3位となり、コンストラクターズランキングでも2位になった。

 そして1992年、FW14をより熟成させたFW14Bは、リ・アクティブサスペンションなどのハイテクデバイスでも武装し、圧倒的な強さを披露。マンセルが開幕5連勝を含む合計9勝を挙げてチャンピオンに輝くと、パトレーゼも1勝ながらランキング2位になった。チームも当然、コンストラクターズタイトルを手にした。

 当時のパトレーゼは、自身のエゴをうまくコントロールし、必要に応じてマンセルのセカンドドライバー役も努めた。そして信頼性の高いフィードバックをチームにもたらし、テストにも積極的に参加……その献身的な姿勢は、当時のテクニカルチーフのパトリック・ヘッドにも重宝された。

 そしてパトレーゼとしても、自身のキャリアでもっとも成功したシーズンを満喫した。

「パトリック・ヘッドとエイドリアン・ニューウェイのおかげで、非常に重要な結果を手にすることができた。ドライバーとしての生活は非常に厳しいチームではあったけど、マネジメントの透明性は高かったと言えると思う」

「フランクは、いくつかの言葉を話せた。イタリア語……彼はキャリアの初期に、自身のプロジェクトに多くのサポートを必要としていたため、かなり頻繁にイタリアを訪れていたみたいだ。だから、イタリア語をかなり上手に話せたんだ。そして契約について話し合う必要があったとしても、彼と英語で喋る必要はなく、イタリア語だけで済んだ。私にはマネージャーはおらず、常に自分で全てのことをやってきた。だから我々は、尊敬と友情に基づいた、真の関係を築いていたんだ」

「彼は、自由に話し合うことができる愛想の良い人だった。彼は、商業的な能力も併せ持っていたから、重要なスポンサーを簡単に見つけることができた。彼は、特別なモノを作り上げた男だった」

Patrese after one of his finest weekends in F1, Estoril 1991, after taking pole and victory in the Williams FW14.

Patrese after one of his finest weekends in F1, Estoril 1991, after taking pole and victory in the Williams FW14.

Photo by: Motorsport Images

 パトレーゼは、ドライバーとチームオーナーの間に素晴らしい関係が構築されていたにも関わらず、当時のウイリアムズの雰囲気とチームの卓越性は、ドライバーにとって厳しい環境でもあったと認める。

「しかし、それはそうじゃなきゃいけないと思う」

 そうパトレーゼは語る。

「ドライバーにとっては期待値がとても高く、全てのミスが強調され、批判された。非常に難しい環境だった。彼のその要求は私に対してだけでなく、マンセルにも同じことを求めた。数年後、私はパトリックに、今のドライバーには甘すぎると言ったモノだ。それは結果にも現れる。今のドライバーたちは綿で覆われるような形で、甘やかされているんだ」

 パトレーゼは、1986年の事故で車椅子生活を余儀なくされた後のフランク・ウイリアムズの姿勢とその固い決意に、尊敬の念が高まったという。

「彼が四肢の麻痺を負った事故に遭った後、フランクに対する尊敬の念は高まった」

 そうパトレーゼは語る。

「彼は体調の面では非常に困難だったにも関わらず、長い間、精神的な面でチームを率いてきたからだ」

「しかし結局、彼はチームのマネジメントを、娘に引き継ぐ必要があった。彼は家族がチームを去るということについては、苦悩していたと思う。でもその時点で、少し気持ちが楽になったという面もあると思う」

「フランクは我々の世界における、素晴らしいキャラクターの持ち主だった。そして彼に相応しい、彼の姿を覚えておかなきゃいけない」

 
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