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エントリー台数34の“戦国時代”……1991年のF1を彩った無得点チームたち:前編

18チーム34台という膨大な数のエントリーがあった1991年のF1。今回は、その中で1ポイントも獲得できなかった6つのチームの知られざる物語にスポットを当てる……。

Ayrton Senna, McLaren MP4-6 Honda, leads Alain Prost, Ferrari 643 at the start of the race

Ayrton Senna, McLaren MP4-6 Honda, leads Alain Prost, Ferrari 643 at the start of the race

Ercole Colombo

 1991年シーズンのF1では、実に18ものチームから34台のマシンがエントリーリストに名を連ねた。しかし決勝のグリッドに並べるのは26台。戦闘力、資金力に乏しい下位チームにとって、決勝進出のハードルは高かった。

 まず最初のハードルとなるのが金曜午前に設けられた予備予選。事前に参加を義務付けられている8台のマシンがまだ冷たく汚れた路面の上を走り、タイム上位の4台が予選を戦う権利を得る。ただ30台で競われる予選でも4台のマシンが脱落するため、予選に進んだからといって決勝に出られるという保証はない。そして何とか予備予選・予選を突破したとしても、当時決勝でポイントを獲得できるのはわずか6台だったのだ。

 そんな競争の激しい1991年シーズンにおいて、最終的に6つのチームがポイントを獲得できずに1年を終えた。今回はその6つのチームにスポットライトを当て、知られざる物語を紹介していく。

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1. リジェ

Thierry Boutsen, Ligier JS35 Lamborghini

Thierry Boutsen, Ligier JS35 Lamborghini

Photo by: Motorsport Images

車両:リジェJS35
エンジン:ランボルギーニV12
出力:700bhp/13800rpm
サスペンション:ダブルウィッシュボーン、プッシュロッド式スプリング/ダンパー
ギヤボックス:Xtrac製6速横置きセミオートマ
タイヤ:グッドイヤー

 1970年代後半〜1980年代初頭にかけてトップチームの一角を担っていたリジェも、その後は下降の一途をたどっていた。天才デザイナーのジェラール・ドゥカルージュはチームを去り、彼と共に全盛期を支えたジャック・ラフィーは1986年イギリスGPの事故でキャリアを終えた。その後は戦闘力の低いマシン、問題が山積みのエンジン、そして平凡なドライバーラインアップというパッケージでポイント獲得すらままならないシーズンが続いていた。

 復活を期すリジェは、ルノーと1992年シーズンからのカスタマーエンジン供給契約を結んだ。1991年に登場したJS35は来たる1992年に向けた“その場しのぎ”のマシンに過ぎず、大型でかさばるランボルギーニV12エンジンを採用しなければならなかった。

 ミシェル・ボージョン、クロード・ガロピン、リカルド・ディビラのデザイナー陣は、ランボルギーニエンジン採用に伴うオイルタンクの大型化に対処したが、それによりJS35は最低重量よりも重いマシンとなってしまった。リジェはガロピンとディビラを解雇し、1992年に向けた開発に注力させるためベネトンからフランク・ダーニーを獲得した。

 1991年シーズンのドライバーラインアップ自体は魅力的なものだった。前年のフィリップ・アリオー、ニコラ・ラリーニというコンビに代わり、ウイリアムズで3勝を挙げた経験を持つティエリー・ブーツェンと、1990年の国際F3000王者であるエリック・コマスを起用したのだ。

Erik Comas, Ligier JS35B Lamborghini

Erik Comas, Ligier JS35B Lamborghini

Photo by: Motorsport Images

 この年のリジェはルーキーのコマスが3度の予選落ちを喫したが、ブーツェンが全戦で決勝に進出し、サンマリノGPとモナコでは7位に入った。このブーツェンの働きもあり、チームは1年を通して予備予選対象チームとなることはなかったが、ダーニー設計の改良型マシン『JS35B』を投入した後もトップ6に届くことはなく、チームにとって直近4シーズンで3度目のノーポイントに終わった。

 それまでトップチームで順調にキャリアを積んでいたブーツェンだったが、リジェでの最初のシーズンは無得点と不名誉な1年を過ごしてしまった。JS35はかなりグリップの低いマシンだったようで、ブーツェンはモナコの低速コーナーをスクーターで走る方がスピード感を感じられたという逸話もある。

 翌1992年、ダーニーは復帰したドゥカルージュの協力の下、ルノーエンジン搭載のニューマシン『JS37』を作り上げた。この年以降、リジェは再び中団グループの中で存在感を発揮していくようになる。

2. モデナ・ランボ

Eric van de Poele, Team Modena Lamborghini 291

Eric van de Poele, Team Modena Lamborghini 291

Photo by: Motorsport Images

車両:ランボルギーニ291
エンジン:ランボルギーニV12
出力:700bhp/13800rpm
サスペンション:ダブルウィッシュボーン、プッシュロッド式スプリング/ダンパー
ギヤボックス:ランボルギーニ製6速横置き
タイヤ:グッドイヤー

 濃紺のカラーリング、なで肩のような三角形のサイドポッド、そしてイタリアのチーズを模したような黄色のロゴ……破天荒なデザインの“モデナ”291は、1991年のF1マシンの中でも印象的な1台である。

 ランボルギーニはこの年、ワークスエントリーという形で291を走らせたが、チーム本隊とは何かと距離を置いていた。このチームがエントリーリストに『モデナ・チーム』と登録されたこともそれを如実に表している。

 実はランボルギーニは当初から、マウロ・フォルギエリとマリオ・トレンティーノが設計した291でワークス参戦するという計画はなく、むしろメキシコ人ビジネスマンのフェルナンド・ゴンザレス・ルナ率いるチーム『GLAS』にマシンを供給するという形で契約を交わしていたのだ。

 しかし、1990年半ばに291が完成してテストの準備が整う頃に、ゴンザレス・ルナが残りの資金を持ち逃げして失踪してしまい、ランボルギーニは苦境に立たされた。その後、FILAの元最高経営責任者であるカルロ・パトルッコがチームを引き継ぎ、資金を投入。チーム名もGLASからモデナに変更された。

Nicola Larini, Team Modena Lamborghini 291

Nicola Larini, Team Modena Lamborghini 291

Photo by: Sutton Images

 291のテストは主にジョバンニ・アロイとマウロ・バルディが担当していたが、モデナは1991年シーズンのレギュラードライバーにニコラ・ラリーニとエリック・ヴァン・デ・ポールを起用した。その滑り出しは新規参入チームとしてはさほど悪くなく、開幕戦アメリカGPではラリーニが予備予選を突破し、サバイバルレースを生き残って7位で完走した。そして第3戦サンマリノGPではヴァン・デ・ポールが決勝進出を果たし、終盤までロータスのミカ・ハッキネンを抑えて5番手を走行していたが、最終ラップでガス欠に見舞われて入賞ならず。燃料を最後まで充填できていなかったチームのミスであった。

 後半戦は“予備予選組”から脱することができたものの、ヴァン・デ・ポールの決勝進出はこのサンマリノGPの一度のみ。ラリーニが後半戦に数度予選を突破するものの入賞は叶わず、ラルースとの合併話も実現しなかったため、チームは1991年限りで消滅した。

3. AGS

Fabrizio Barbazza, AGS JH25B Ford

Fabrizio Barbazza, AGS JH25B Ford

Photo by: Rainer W. Schlegelmilch

車両:AGS JH25B,JH27
エンジン:フォード・コスワースDFR 90度V8
出力:620bhp/12000rpm
サスペンション:ダブルウィッシュボーン、プッシュロッド式スプリング/ダンパー
ギヤボックス:6速マニュアル
タイヤ:グッドイヤー

 AGSのような小規模チームが長きにわたって存続したことは評価に値するが、開幕前からラルースと合併について話をしていた彼らに、1991年シーズンを戦いきる力はもはや残っていなかった。

 AGSは前年に使用していたJH25を1991年も継続使用。白をベースカラーに、青と銀が差し色として入ったマシンだった。当初このマシンにはMGNがデザインしたW型12気筒エンジンが載せられる予定であったが、パワー不足のW12は結果的に不採用となり、代わりにフォード・コスワースDFRが搭載された。

 シーズン前半戦の予備予選対象チームとなっていたのは、スクーデリア・イタリア(ダラーラ)、フォンドメタル、コローニ、ジョーダン、ランボの5チーム。AGSは予選から参加することができ、開幕戦ではガブリエル・タルキーニから22番グリッドからスタートし8位に入った。しかし、タルキーニはブラジルとモナコで決勝進出した後は予選落ちが続き、ステファン・ヨハンソンとファブリツィオ・バルバッツァがドライブした2台目のマシンに至っては1度も決勝に進めないまま前半戦が終了。この結果を受けてAGSは後半戦から予備予選組に降格となってしまった。

 チームオーナーのシリル・ド・ルーブルは、資金難の影響でシーズン途中にチームをイタリアのコンソーシアムに売却。第12戦イタリアGPからクリスチャン・ヴァンダープレイン設計の『JH27』(JH26はお蔵入り)が投入された。

Olivier Grouillard, AGS JH27

Olivier Grouillard, AGS JH27

Photo by: Ercole Colombo

 モンツァでデビューしたJH27はまずタルキーニひとりに供給されたが、予備予選落ちとなった上にJH25Bのバルバッツァよりもタイムが遅いという有様。タルキーニは第13戦ポルトガルGPを最後にチームを離れ、続くスペインGPからオリビエ・グルイヤールとトレードという形でフォンドメタルに移籍した。そしてこのスペインGPでAGSはバルバッツァ、グルイヤール共に予備予選落ちに終わり、日本、オーストラリアの終盤2レースに遠征することなくF1チームとして歴史に幕を下ろした。

 F1チームとしての活動は終了したAGSだが、その後は形を変えて復活を果たした。彼らは現在『Circuit du Var』と呼ばれるサーキットを拠点に、F1マシンの乗車体験やフォーミュラカーの運転講習などのビジネスを展開している。

 

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