F1の奇妙なスポンサー1:アロウズに混乱をもたらした謎のブランド『t-minus』
F1マシンには、様々な企業による華やかなスポンサーロゴが欠かせない。しかしその中には全く実態が不明なものなど、奇妙なものも数多くあった。今回は1999年のアロウズをスポンサードした『t-minus』について振り返る。

1978年からF1参戦をスタートさせたアロウズ。1991年からの3シーズンは日本企業のフットワークがチームを買収し、チーム名称も”フットワーク”としてF1に参戦した。しかし本業の業績悪化に伴い、同社が1993年限りで撤退。1994年以降も、実体はアロウズに戻っていながら『フットワーク』の名でエントリーしていた。そして1996年にトム・ウォーキンショーがチームの運営を引き継いだのを契機に、翌1997年からはチーム名・コンストラクター名共に『アロウズ』に戻った。
そんな1997年にアロウズは、前年のワールドチャンピオンであるデイモン・ヒルを獲得し、天才デザイナーのジョン・バーナードを引き抜くなど、低迷していたチームの体制強化を図った。そしてヒルがハンガリーGPで2位に入るなど躍進を遂げたアロウズだったが、ヒルはその年限りでチームを離脱。バーナードが設計した1998年マシン『A19』は不発だったこともあり、ミカ・サロとペドロ・ディニスのコンビで挑んだ1998年シーズンも思うような成績を挙げることができなかった。
タイトルスポンサーだった『DANKA』を失った1999年は、ペドロ・デ・ラ・ロサと高木虎之介を起用し、それぞれが持ち込んだスポンサーであるレプソルとPIAAのロゴをマシンに掲示した。ただそれらと同等に目立っていたのが、リヤウイングやサイドポッドに掲示されていた『t-minus』という謎の文字だった。
『t-minus』はこの年チームに参画したナイジェリアのマリク・アド・イブラヒム王子が掲げたブランドだった。彼はこのブランドを通してチームに100億円規模の富をもたらすことを約束していた。彼はエナジードリンクや衣服など多くの製品のライセンスを購入し、t-minusブランドとして売り出すことを計画していたのだ。
しかし最終的に、マリク王子は資金をもたらすことなくチームを去った。それを受けて契約の保証人となっていた投資銀行、モルガン・グレンフェルが出資金を取り戻すためにアロウズを訴えるなど、マリク王子とt-minusはチームにとんでもない災難をもたらすこととなった。
なお、この年アロウズは大苦戦。特に信頼性に問題があり、リタイアはふたり合わせて22回を数えた。開幕戦でデ・ラ・ロサが6位に入ったのがチーム唯一の入賞となり、コンストラクターズランキングは9位だった。アロウズは2000年こそチーム成績を持ち直したが、2002年途中をもってF1から姿を消すこととなった。
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