ホンダF1第2期の”魁”スピリットF1チーム共同創設者のジョン・ウィッカムが亡くなる。享年73歳
1980年代前半にスピリットF1チームを共同経営し、2003年ル・マン24時間レースではベントレーを勝利に導いたジョン・ウィッカムが、長い闘病生活の末に73歳で亡くなった。
ホンダが後に黄金時代を築き上げたF1活動第2期における”ファーストステップ”となったスピリットF1チームの共同経営者を務め、チームディレクターとしてベントレーを2003年のル・マン24時間レース制覇に導いたジョン・ウィッカムは、2019年に運動ニューロン疾患と診断されて以降闘病生活を送ってきたが、73歳でこの世を去った。
50年に渡りモータースポーツ界でチームマネジメントを行なってきたウィッカムにとって、スピリットとベントレーでの成功は、キャリアにおけるたった2章に過ぎない。
最近では、ベントレーの『コンチネンタルGT3』でブランドのモータースポーツプログラム復帰を指揮。2014年から2015年まではファクトリーM-スポーツのチームマネージャーを務めていた。
長年ベントレーのモータースポーツ部門を率いたブライアン・ガッシュは、ウィッカムについて次のように回想している。
「彼は常に全てを把握する組織作りの達人だった」
「だから我々がGT3プログラムを行なう時に、ジョンを呼び戻したのだ。彼はFIAホモロゲーションの複雑な手続きを完璧にこなす理想の人物だったからね」
Stefan Johansson, Spirit 201C Honda, in the pitlane with team manager John Wickham and designer Gordon Coppuck
ウィッカムのキャリアは、イギリス自動車レーシングクラブ(BARC)で大会マネージャーを務めたところから始まった。サーティースに移り、23歳だった彼は1973年からヨーロッパF2選手権(現FIA F2)の運営を任された。
BARCでさらに経験を積んだ後、ウィッカムは1979年にマーチ・エンジニアリングから再びF2へ戻り、マルク・スレールのタイトル獲得に貢献。マーチ在籍時にホンダと接触し、1980年に導入された2リッターV6エンジンを搭載したF2プログラム開始に向けてチームを興すこととなった。
ウィッカムは共にマーチを離れたデザイナーのゴードン・コパックとスピリットを立ち上げ、ホンダエンジン搭載の『201』を1982年のF2に投入。この年のF2ではタイトルこそ逃したものの、ティエリー・ブーツェンが3勝を挙げた。
スピリットは、ホンダのF1再参戦へ向けた準備として1983年の4月に開催された非選手権の「レース・オブ・チャンピオンズ」にF1レギュレーションに合わせてモディファイした『201』を投入。ホンダとしては、ここがF1活動第2期の出発点であり、1983年のF1では第9戦イギリスGP以降6戦に出走した。
ホンダはその頃からウイリアムズと既に交渉を始めており、シーズン最終戦でホンダ製ターボエンジン搭載の『FW09』がデビュー。
ウイリアムズがエンジンの独占供給をホンダに要求したことで、スピリットは1984年シーズンからハート製エンジン(第8戦デトロイトGPのみフォード・コスワースDFV)を搭載。1985年も参戦を継続したものの、資金不足に悩まされた結果、ピレリタイヤとの契約をトールマンに売却することで負債を返済し、チームは活動を停止している。
ウィッカムはその後、トムスGBへ加入。F3やツーリングカー、スポーツカーレースでの活動強化に貢献した。日本との繋がりは深く、1990年から1994年にかけては、日本の運送会社フットワークによるアロウズ買収の交渉役を務め、再びF1の世界へ。チームの運営ディレクターに就任し、1991年からはチームマネージャーも兼任した。
なお、F1での活躍はそれが最後ではない。ウィッカムは2011年にF1参戦を果たしたばかりのHRTに短期間ながらも在籍し、同年末にはロータス・ルノーGPでこちらも短期的ながらマネジメントを担当していた。
その後、ウィッカムはリチャード・ロイドとアウディ・スポーツUK(現エイペックス・モータースポーツ)を立ち上げ、1996年から1998年にかけてイギリス・ツーリングカー選手権(BTCC)にチームマネージャーとして参戦し、フランク・ビエラのルーキーチャンピオン獲得を含め15勝を記録。1999年にはアウディ『R8C』をル・マン24時間レースで走らせた。
#7 Team Bentley Bentley Speed 8: Tom Kristensen, Rinaldo Capello, Guy Smith takes the checkered flag
Photo by: Richard Sloop
その後、ウィッカムは1930年以来のル・マン24時間レース参戦を目指すチーム・ベントレーに加わり、ロイド率いるエイペックス・モータースポーツの一員となった。プロジェクト最終年の2003年にはベントレーへと雇用主が変わったが、ベントレーがル・マン24時間レースでワンツーフィニッシュを果たした後、ベントレーはモータースポーツを離れた。
ウィッカムはザイテックのLMPプログラム運営に携わることになったが、それがキッカケでA1GPの創設者シェイク・マクトゥームと偶然会い、創設間もないシリーズで技術/運営部門のゼネラルマネージャーとなったのだ。
ウィッカムはザイテックのエンジンを搭載するローラ製ワンメイクマシン「A1グランプリカー」のテストチームを運営し、シルバーストンのウッドコートにある格納庫に各国チーム用の一大拠点を設けるなど、シリーズが2009年に消滅するまで日々の運営を行なっていた。
その後、ウィッカムはベントレーのGTプログラムに関する仕事を2017年まで続け、2018年からはイギリスGT選手権に参戦するチーム・パーカー・レーシング・ベントレーで週末チームマネージャーを務める予定だったが、病に倒れる。そして彼は運動ニューロン疾患と診断され、これまで闘病生活を送ってきた。
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