F1歴代屈指の名車“ジョーダン191”誕生秘話……ホンダV12を積んでセナが乗ればタイトルを獲れた?
ジョーダンが1991年シーズンに走らせた“ジョーダン191”。そのマシンのテストを担当したジョン・ワトソンが今も語り継がれる名車の秘話を語った。
鮮やかなカラーリングに美しいフォルム……1991年にF1参戦を開始したジョーダンの第1作目『ジョーダン191』は、今でも語り継がれるマシンである。1991年シーズン開幕前、このマシンがまだ『ジョーダン911』(”911シリーズ“を有するポルシェとの法廷闘争に敗れ後に改名)と呼ばれていた頃にテスト走行を担当したのが、1970年代〜1980年代のグランプリシーンで活躍したジョン・ワトソンだった。
ペンスキーとマクラーレンでF1通算5勝の実績を誇るワトソンが、ジョーダンを率いるエディ・ジョーダンとの出会いや、フォードHB V8エンジンを搭載した“ジョーダン911”を初めてドライブした際のことを話してくれた。
私が初めてエディ・ジョーダンと会ったのは、彼がドライバーとしてF3で走っていた頃だ。1980年、彼は(マールボロの親会社の)フィリップモリス・アイルランドを半ば脅すような形で、ブランズハッチで行なわれたマクラーレンF1のテストに参加した。私も参加するよう言われ、マシンを走らせた後、エディに交代して5〜10周走らせた。私は特に関心を示すこともなく、甚だ迷惑な話だと思っていた。
1980年代の終わりには、シルバーストンに定期的に通っていた。ジョン・ワトソン・パフォーマンス・ドライビング・センターというものがそこにあったからだ。ランチタイムに古びた食堂に行くと、そこにはエディやボスコ・クイン(ジョーダンのゼネラルマネジャー)、トレバー・フォスター(チームマネージャー)などがいた。彼らとはそこで親交を深めた。
私は当時、ボグナー・レジスという街でのんびりと暮らしていたが、エディはこう言うんだ。「オックスフォードに来なよ。最高だぞ」と。そこで私は1990年の終わりに(オックスフォードに)家を見つけた。その後エディは活動をF3000からF1へと移すことになったが、秋頃になって私にマシンをドライブするよう頼んできたんだ。
彼らは私をレースドライバーとして起用するつもりはないが、F1での経験があり、その経験を無駄にしないであろう人間を求めていたのだ。現代のF1マシンについての知見を得られるし、現代のエンジンがどれほど進化しているかも知れるということで、私は友達価格……つまり無料で引き受けることにした。アイルランド人同士だから、というのもあったかもしれない。エディの心にも訴えるものがあっただろうね。
マシンデザイナーのゲイリー・アンダーソンとは、1970年代のブラバム時代からの知り合いだったし、マクラーレン時代も共に働いた。そういったこともあって、チームは家族のような雰囲気があった。当時のジョーダンは、アイルランド人が多く所属するアイルランド系F1チームというユニークさがあった。
ワトソンは初めて乗った“ジョーダン911”に好印象を持った
Photo by: Motorsport Images
最初はシルバーストンでマシンを走らせたが、どんなものかは全く想像がつかなかった。F1マシンをドライブするのは1985年にブランズハッチで行なわれたヨーロッパGP以来だったが、1990年までグループCをドライブしていたので、私はまだ現役のドライバーではあった。
私は基本的に、マシンの良し悪しはマシンが教えてくれるものだと思っている。自分の手や足、シートの感触などから、形のないものを感じ取るんだ。そこから得られた感触は、このマシンは良いマシンだということだった。
その後、ペンブリーというウェールズの人里離れた場所で再び走るよう頼まれた。私はその頼みを聞くことにした。凍えるような寒さだったが、マシンは本当に素晴らしかった。癖のないマシンだった。
私がレースを走るということが議題に上がることはなかった。私の身長(の大きさ)も相まって、マシンが非常にタイトだった。これは(ベルトラン)ガショーにとっても問題となった。彼が開幕戦のフェニックスでエンジンを壊したのはそういった要因もあると思っている。アンドレア・デ・チェザリスのような体格の人間に適したマシンだったんだ。
1991年にコンストラクターズランキングで5位になったことは信じられないことだった。あの年、マクラーレンはホンダのV12エンジンを搭載していたが、私は(アイルトン)セナにこう言ったのを覚えている。「アイルトン、このシャシー(ジョーダン191)にそのエンジン(ホンダV12)を載せたら、君はチャンピオンになれる」とね。それくらい良いシャシーだったんだ。(※なおセナはこの年、自身最後となる3度目のタイトルをマクラーレンで獲得している)
ワトソンは「ホンダV12を載せてセナが乗ればチャンピオンを獲れるシャシー」と絶賛した
Photo by: Motorsport Images
ミハエル(シューマッハー)がスパで走った際、彼は事前にシルバーストンで走っていたので、何もない状態から走り始めた訳ではなかった。しかし、それでもF1に慣れていない新人が7番グリッドにマシンを持ってこれたということは、あのマシンがいかに優れていたか、そして当時のミハエルがいかに素晴らしかったかを物語っている。
エディの事を悪く言うのは簡単だ。しかし、彼は自らのチームでF3とF3000を戦い、F1のグリッドにたどり着くための資金を得るために全力を尽くした。そして緑色で7upと富士フイルムのスポンサーが付いた191は、最も印象的なマシンのひとつだ。とても目を引くマシンだったし、多くの人の支持を集めた。それこそがエディの果たした役割だった。
私はエディが成し遂げた事を心から尊敬している。しかし、彼がF1で成功する姿を今想像できるだろうか? 私が最も失望したのは、チームが3位になった1999年の終わり、エディに明らかな”変化”が見られたことだ。彼は自分のことを“素晴らしい”人間だと思うようになった。彼は他のことに気を取られるようになった。
それこそが、彼が個人的な名声や富を求めるようになった転換点だった。ロン・デニスはそんな真似を一切しなかったし、求めもしなかった。それが彼らふたりの違いだろう。
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