F1の歴史から抹消されたグランプリ……1980年スペインGPは確かに開催された。政治闘争の中、“ノーカウント”とされるまでの顛末
2026年のF1ではバーレーンGPとサウジアラビアGPがカレンダーから削除されたが、過去にはレースを開催された後にそれが無効とされたケースがある。それが1980年のスペインGPだ。
F1の公式サイトによると、1980年のワールドチャンピオンであるアラン・ジョーンズは同年5勝を挙げたとされている。ただ、その話題をジョーンズ本人に振るなら失礼になりかねないので気を付ける必要がある。彼はこの年6勝をしたと言うからだ。これはとあるレースが公式記録に含まれていないことが関係している。
それがハラマで行なわれたスペインGP。このレースは22台のマシンが出走して規定周回を走り切ったにもかかわらず、選手権レースとしてカウントされなかったのだ。
このレースでは4人のドライバーがレースをリードするドラマチックな展開だったが、それはこの週末パドック内で繰り広げられた政治的闘争の脇役にすぎなかった。
問題の火種は、1978年にジャン-マリー・バレストルが国際スポーツ委員会(CSI)の会長に選出された時点からくすぶっていた。後にこのFIAのモータースポーツ部門はFISA(国際自動車スポーツ連盟)へと形を変えることになるが、フランス人指導者バレストルの意図は一貫していた。
バレストルの考え方は、F1チームが管理している資金は本来FIAに入るべきものというものだった。もっとも、その急速に膨れ上がる収益は、とある元中古車ディーラーの手腕によるものだったが。
その男こそがバーニー・エクレストン。彼は1972年にブラバムを買収してチームオーナーになった時点で、F1が持つ可能性にいち早く気づいていた。そして各チームが横柄なプロモーターと個別契約を結び、一貫性も組織性も欠いたグランプリに参加している現状に愕然とした。エクレストンはそれを立て直し、テレビ放送に相応しい洗練されたプロフェッショナルなショーへと作り変えたのだった。特にニキ・ラウダが瀕死の事故から奇跡的に復帰し、ジェームス・ハントとタイトルを争った劇的な1976年シーズンをきっかけに、F1は放送局から関心を集めるようになった。
エクレストンは各チームをF1コンストラクターズ協会(FOCA)の下に統合し、テレビ局に対して主導権を握る立場となっていた。これに対しバレストル側は、実権を失いつつあると感じ、利権の一部を取り戻そうとした。そのバレストルに対抗したのはエクレストンだけではない。マーチの創設メンバーであった元弁護士のマックス・モズレーが政治顧問としてFOCAに加わり、強力なパートナーとなった。
バレストル(左)とエクレストンによる闘争は長く続いた
写真: David Phipps
1980年当時、F1は大まかに言えばフェラーリ、ルノー、アルファロメオのメーカー系チームと、フォード・コスワースDFVエンジンで戦う大多数のプライベーターに分かれていた。そんな中でバレストルが打ち出した改革案のひとつが、翌シーズンからのスライディングスカート禁止。サイドポッド外側のスカートを廃止することは、グラウンドエフェクトの効率低下に繋がり、自然吸気V8のDFVを使うプライベーターは、ターボエンジンのルノーやV12エンジンのフェラーリ・アルファロメオに対して不利になるはずだった。これはバレストルの「分断統治」戦略に都合が良かったのは偶然ではない。
モズレーは、バレストルが正式な手続きを踏んでいないと主張した。スペインGP前のレースでも、彼の提案の法的効力は問題視されていた。バレストルはドライバーブリーフィングの義務化を提案しており、これは一見合理的な案だったが、FOCA側はこれをテストケースとして利用することにした。
ベルギーGPとモナコGPでは、一部のドライバーがレース前ブリーフィングへの欠席を指示された。仮に罰金が科されてもFOCAが肩代わりする約束だった。しかし実際には支払いが行なわれず、バレストルは罰金が支払われるまでライセンス停止とする方針を示した。ただ、これはFOCAとしても、「罰金が撤回されない限り、ハラマでのレースをボイコットする」意思を示すことで、力関係を測る駆け引きに過ぎなかった。
不運だったのはスペインGPの主催者だ。FISAとFOCAの対立の板挟みにされたスペイン自動車クラブ(RACE)は、未払いの罰金を肩代わりすると申し出たものの、バレストルはこれを拒否。するとRACEは、このレースをFISAではなくFIAの規則で運営すると表明した。当然ながらFOCAはこの動きを全面的に支持し、バレストルを激昂させた。
メディアが現地に到着すると、パドックはあらゆる方向から噂が飛び交い、混乱状態だった。フェラーリ寄りのイタリア人記者と、ブラバムやウイリアムズ、マクラーレンに近いイギリス人の記者では、言っていることが違っていた。そうしているうちに、エクレストンがブラバムのトラックから出てきて、プレスリリースを配り始める。その場はまるで動物園の餌やりのような光景だった。
その声明には、RACEがFISA規則からFIA規則へ切り替えたことが記され、さらに「ハラマにおいてFISA関係者の立ち会いは不要である」と続き、「このレースはFISA規則のもとで行なわれないため、FISAの(ドライバー)ライセンスは必要ない」と締めくくられていた。
当のFISA会長バレストルは、出入り禁止の屈辱を予期していたのか、その姿を見せていなかった。彼は近くのホテルの一室に設置された複数の電話を使い、遠隔で事態を指揮していた。そして最初に起こしたアクションが、ドライバーのライセンスが無効であることを理由に、このレースを違法と宣言することだった。
金曜の走行開始時刻になっても、コース上では何も起こらず。唯一のアクティビティと言えば、各チームのメカニック同士による即席のサッカー対決だった。
コース上でサッカーに興じるメカニックたち
写真: Getty Images
この時点で、フェラーリ、アルファロメオ、ルノーはFISA側に付く意思を示していた。特にルノーは、今後のモータースポーツ活動において統括団体との関係悪化を避けたいという思惑が強かった。
イタリアのプライベーター、オゼッラとしても、F1以外のカテゴリーにも参戦していることからFISAとの関係を損ねたくはなかったが、一方で主要スポンサーのDenimの手前、レースに出ないことで彼らを失望させたくなかった。そこで代表のエンツォ・オゼッラは金曜朝早く、「チーム名を“Denim F1”としてエントリーすれば問題を回避できるか」と確認するため、パジャマ姿のバレストルの元を訪ねた。
しかし会話は思わぬ形で中断される。浴室のドアの下から水が漏れていることにオゼッラが気づいたのだ。取り乱していたバレストルが風呂の水をためたまま蛇口を止め忘れていたのである。
最終的にオゼッラは、遅れて始まったフリー走行に参加し、グリッドに並ぶことになった。このレースは、フォード・コスワースDFVエンジン勢だけによる初のグランプリとなった。
レースは結果的に非常に見応えのあるものとなった。序盤はウイリアムズのカルロス・ロイテマンがリード。しかし35周目、周回遅れ車両との接触でコントロールを失ったリジェのジャック・ラフィットに突っ込まれリタイアに終わった。次はブラバムのネルソン・ピケが首位に立つも、ギヤトラブルで脱落、代わって首位に立ったリジェのディディエ・ピローニもフロントホイールの脱落で戦列を離れた。
残り15周で首位に立ったアラン・ジョーンズは、幸運にも勝利を手にすることができたが、このスペインGPを無効とする決定は覆らなかった。
ジョーンズはこう語っている。
「今でも、なぜスペインGPが選手権として認められなかったのか理解できない」
優勝したジョーンズ
写真: Getty Images
「ドライバーの立場からすれば、他のレースと同じだけの努力とリスクを払っている。勝ったのに必要な9ポイントが得られなかったのは本当に悔しかった。結果的に、そのポイントがなくてもタイトルは獲得できたが、もしそれが必要な状況になっていたらどうなっていたのだろうか?」
なお、このレースではパトリック・ガイヤールにも思いを馳せたい。彼はF1でポイントを獲得したことはないが、エンサインからエントリーしたスペインGPでは5周遅れながら6位完走。もし選手権として有効であれば、1ポイントを手にしていたはずだった。
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