同僚の死を乗り越え、勇敢にも決勝のグリッドに立った男:1994年F1サンマリノGP
1994年のサンマリノGPで起きた一連の出来事については、これまでに多くのことが語られてきたが、その週末で最も勇敢だったある男のエピソードについてはあまり知られていない。
1994年のF1サンマリノGPは、深刻な事故が相次いだ悪夢のような週末であったことで知られる。金曜日にはジョーダンのルーベンス・バリチェロが負傷し、土曜日にはシムテックのローランド・ラッツェンバーガーが事故死。日曜日には、3度のワールドチャンピオンであるアイルトン・セナ(ウイリアムズ)がこの世を去った。
予選2日目、ラッツェンバーガーはフロントウイングが突然脱落したことでコントロールを失い大クラッシュ。その直後、彼のチームメイトであるデビッド・ブラバムは事故現場を通り過ぎた。
「最初のコーナーを抜けた時、ボディワークの一部が落ちているのが見えたんだ」
そうブラバムは振り返る。
「その後すぐに(クラッシュした)マシンが見えて、僕はすぐにそれがローランドだと分かった。既に救急車が到着していた」
「その時彼の頭がどこを向いていたか、ヘルメットのバイザーがどうなっていたかを覚えている。僕は彼が亡くなってしまったのではないかと思った。そこには生気を感じられなかった」
ラッツェンバーガーの死はその後すぐに確認され、シムテックの面々は皆大きなショックを受けた。
こういった事故が起こった場合、チームは翌日以降のイベントから撤退することが多い。それはチーム、そしてチームメイトの心情を考慮する、または喪に服するという意味合いもあるが、潜在的なトラブルへの懸念が排除できないことも撤退の理由のひとつとなる。
古く例を挙げると、1970年イタリアGPのロータス(予選中にヨッヘン・リントが事故死)、1973年アメリカGPでのティレル(予選でフランソワ・セベールが事故死)、1982年ベルギーGPのフェラーリ(予選中にジル・ビルヌーブが事故死)などだ。
しかしながら、ブラバムは翌日の決勝レースに出走するという大胆な決断をした。マシンの不具合がさらなる悲しい結末を生む可能性があったにも関わらずだ。
確かにセナの事故の直後に、チームメイトのデイモン・ヒルが再開後のレースに出走したことも事実だ。ただその時、ウイリアムズは事故がどのように起こったのかを正確に把握しておらず、ヒルのマシンに何かトラブルが起こる可能性についても考えていなかった。
Roland Ratzenberger, Simtek S941, David Brabham
Photo by: Sutton Images
実際にヒル自身も、シムテックのためにレースをすることを決断したブラバムの精神力の強さを認めた。
「アイルトンのことがあったから、デビッドのしたことは見過ごされてきた」とヒルは語った。
「彼がチームメイトが亡くなる事故があった後、日曜日のウォームアップ走行にやってきた。そして人々をいつもの仕事に戻したんだ」
「彼はチームをポジティブな状態にすることに大きな役割を果たした。(ラッツェンバーガーの事故の後)シムテックで起こったこと、彼らが経験したことは簡単に忘れられてしまうだろう。完全に影に隠れてしまっている」
シムテックは土曜夜の時点で、ブラバムがレースに出走すべきかという問題について決定をしていなかった。
「チームの誰も、どうするべきか分からなかったと思う」とブラバムは語った。
「コントロールすることのできない感情が、いくつも飛び交った。その夜チームは僕に『君がドライブしたいと思うか次第だ』と言った。もちろん、僕の最大の懸念はマシンの安全性だった」
この当時、事故の原因ははっきりと明らかになっていなかったが、フロントウイングがラッツェンバーガーのマシンから脱落したことは明白だった。
そしてウイングを固定していたボルトが縁石に乗ったことによって緩んだのではないか、という疑いがあったため、チームがブラバムのマシンに付いたウイングの補強を行なった。
David Brabham, Simtek S941 Ford
Photo by: Ercole Colombo
それまではフロントノーズの底に4本のボルトを打ち込み、下からフロントウイングを固定していたが、代わりに大きく長いボルトが使用された。そのボルトはカーボンパーツを貫通する形で差し込まれ、反対側(ノーズ内部)には大量のナットとワッシャーが取り付けられて固定された。これにより、何があってもウイングが脱落しないようにしたのだ。
「我々はやましいことが一切ないようにしなければいけなかった」
そう語るのは、当時ブラバムのレースエンジニアを務めていたロッド・ネルソンだ。彼は次のように続けた。
「私はチャーリー・ホワイティング(当時のF1技術責任者)のところへ行って、どういった取り組みをする予定か、そして明日のレースに出たいということなどを伝えた。このマシンが限りなく安全なものとなるように最大限の努力をするつもりだった」
またブラバムは、そういった作業が続けられる中でチームの空気感が少しづつ変わっていったことを感じたという。
「(チーム代表の)ニック・ワースは、フロントウイングが補強されて何の問題もないことを保証してくれた。あとは僕がウォームアップに出て、自分の気持ちを確かめなければいけなかった。もし走るべきではないと感じたら、レースには出なかっただろう」
「ウォームアップで僕たちは比較的速かった。あの時マシンが空タンク(燃料が軽い状態)だったかどうかは分からないけど、これまでよりはペースが良かった」
「ピットに入ると、暗い雲が少し灰色に変わっているような印象を受けた。チームの士気が少し上がったように見えたんだ。僕は彼らのためにレースをしなければいけないと感じた。彼らがこの状況を乗り越えるための手助けをしなければいけないと思ったし、そのためにはレースに出るべきだと思ったんだ」
ブラバムは24番グリッドからレースに出走。28周目に最終コーナー手前でコースオフし、マシンを止めた。
実はこの時、彼のマシンには深刻なステアリングトラブルが起きており、そのトラブルの症状が高速コーナーで起きていた場合、悲惨な事態となっていてもおかしくはない状況だった。
Max Mosley, FIA President and former part-owner of Simtek Research watches David Brabham, Simtek S941
Photo by: Sutton Images
当時のことをネルソンはこう語る。
「デビッドは金曜日にルーベンスがクラッシュした場所で(ステアリングを)右に切ったが、そのまま真っ直ぐコースを飛び出した」
「彼はハンドルを切っても何も起こらなかったので、フロントウイングが脱落したと思っていた。だから彼はピットに戻ってきた時かなり気が立っていた。実際にはステアリングのジョイントが壊れていたんだ」
そんなブラバムは次のように回想した。
「何らかの理由で、シケインとシケインの間でそうなった」
「それはストレート上で壊れた。そういうことが突然起こっても、頭が回らないので何が起こっているのか分からない」
「僕はチームを批判したわけではない。僕たちは新しいチームだったし、そういうことは起こりうる」
「でも先ほども言ったように、僕はチームを鼓舞するためだけに走った。ウォームアップでは少し良くなっているように感じたし、少なくとも正しい方向には進んでいると思った。だからレースに出たんだ。でもその週末が終わった時、僕は生きていて良かったと思ったよ……」
事故から20年経った2014年の春、ブラバムはヒルと共にイモラを訪れた。その時彼はこう言った。
「それは重苦しい1日だった。色んな感情が蘇ってくる。でも人生は急速に進んでいくから、それは遠い過去のことになってしまった」
「ただ、こうやってここに戻ってくると、その感じ方も変わってくる。特にローランドが亡くなった場所に立つとね。それは間違いない」
David Brabham, Simtek S941 talks with team mate Roland Ratzenberger and Nick Wirth, Simtek Team Principal
Photo by: Sutton Images
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