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儚くも散った天才、ジル・ビルヌーブの生涯(1):「ティフォシのニューヒーロー」

フェラーリF1のスター、ジル・ビルヌーブがゾルダーで命を落としてから38年が経つ。この特集ではビルヌーブの最後の週末とそれに至るまでの出来事を振り返っていく。

Gilles Villeneuve, Ferrari

 1982年5月8日。F1ベルギーGPの予選セッションは佳境を迎えていた。フェラーリのジル・ビルヌーブは、チームメイトのディディエ・ピローニが記録したタイムを塗り替えようと必死の形相でピットを後にした。しかし、彼がピットに戻ってくることはなかった。

 スロー走行中のヨッヘン・マスのマシンに乗り上げたビルヌーブは、その衝撃でマシンから投げ出され息を引き取った。なぜビルヌーブはそこまで必死になってタイムを更新する必要があったのか? そこには2週間前のレースで起きたある事件が関係していた。その一件を紐解く前に、まずは歴史上で最も速く、最も高い人気を誇ったドライバーのひとりであるビルヌーブのキャリアを振り返ってみよう。

■その強烈な輝きが、大物たちの目に留まる

Gilles Villeneuve, McLaren M23

Gilles Villeneuve, McLaren M23

Photo by: Motorsport Images

 1950年に生まれたビルヌーブは、カナダのケベック州で育った。彼はエンジンで動くものに魅了され、まずはスノーモービルに熱中した。彼はその世界においてトップクラスの実力を身に付けていたが、カーレースの世界を知ると、やがてそちらにのめり込むようになった。

 彼は1976年にカナダのトロワリヴィエールで行なわれたフォーミュラ・アトランティックのレースの中で、招待選手のF1ドライバー達を打ち負かすほどの活躍を見せた。その内のひとりが同年のF1ワールドチャンピオンに輝いたジェームス・ハントだった。ビルヌーブの類いまれなるスピードとその人間性に惹かれたハントは、当時所属していたマクラーレンのチーム代表であるテディ・メイヤーに、当時無名だったビルヌーブを推薦した。

 その結果ビルヌーブは1977年のイギリスGPでマクラーレンの3台目のマシンを駆ってF1デビューを果たした。フリー走行ではほとんどのコーナーでスピンをするビルヌーブの走りには、ある意味で注目が集まった。しかし彼はマシンの限界を探っているだけであり、マシンはどこにもぶつけていないと主張した。実際に決勝でもトラブルにより不要なピットストップを強いられるまで、ビルヌーブは素晴らしいパフォーマンスを見せていた。

 しかしマクラーレンは翌1978年のドライバーとしてハントとパトリック・タンベイを起用することを決めた。レギュラー参戦の道を断たれたかに見えたビルヌーブだったが、彼は今度はエンツォ・フェラーリの目に留まり、1977年シーズンの終盤戦にフェラーリのマシンをドライブするチャンスを得た。フェラーリは1977年のチャンピオンであるニキ・ラウダがシーズン終了を待たずしてチームを離脱したため、その後任を探していたのだ。

 F2やF3での実績もなく、ヨーロッパではまだ名の知られていなかったカナダ人の若者は、ここから瞬く間にスターダムを駆け上がっていくことになる。2度のチャンピオンであるラウダの後任とあって、フェラーリの熱狂的なファン、通称“ティフォシ”からの期待も相当高かった。しかしビルヌーブの走りはそんなティフォシたちを夢中にさせていくことになる。

■“計算されたクレイジーさ”が、ティフォシを虜にした

Gilles Villeneuve, Ferrari 312T3

Gilles Villeneuve, Ferrari 312T3

Photo by: Motorsport Images

 1978年からフェラーリの正ドライバーとなったビルヌーブは、同年の最終戦であり、地元ケベック州のモントリオールに完成した新サーキットで行なわれたカナダGPでF1初優勝を遂げた。翌1979年は新車312T4の戦闘力が高かったこともあり3勝を挙げ、チームメイトのジョディ・シェクターと共にシーズンの主役となった。

 しかしビルヌーブは、先輩シェクターのタイトル獲得をアシストする役割に就くことを厭わなかった。いずれ自分の時代が来ると確信していたからだ。結果的に1979年のチャンピオンはシェクターのものとなり、ビルヌーブはランキング2位。コンストラクターズタイトルは文句なしでフェラーリだった。

「私はジルと非常にうまくやっていた」

 シェクターは後年、そう語っている。

「私たちは非常に誠実でオープンな関係で、お互いくだらないことはしなかった。これが(1979年の)成功の要因のひとつだと思う」

「ウイングなどを調節してうまくいった場合、彼は私にそれを教えてくれた。私もそうしたし、それが時には痛手になることもあった。でもそれが私たちを良好な関係に保ち、チャンピオンシップを勝ち取らせる要因になったのだ」

 ビルヌーブはその信じられないほどのスピードと勇猛果敢なドライビングスタイル、そして1979年オランダGPの三輪走行に代表されるネバー・ギブアップの精神で、ティフォシの心を射止めた。しかしシェクターは、ビルヌーブがただの無鉄砲な人間だった訳ではないと補足する。

Jody Scheckter with teammate Gilles Villeneuve, Ferrari

Jody Scheckter with teammate Gilles Villeneuve, Ferrari

Photo by: Motorsport Images

「私は彼が自分を計算外の危険に晒すような人間ではなかったと思っている。彼はしっかりとした判断に基づいて戦う男だったと思う。彼は常にクレイジーな男であるというイメージを持たれていたが、実際はそうではなかった。彼がクレイジーになるのは、何か具体的なイメージが描けている時だけだった」

「私はこういう話をする時にいつも、彼の運転でモナコからモデナまで移動した時のことを話す。私は助手席にいるのが嫌いなので、嫌だったんだがね。ただ彼はずっと完璧な運転をしていた。すぐにホイールスピンをして、あらゆるところでスライドしていたのにだ」

 翌1980年、フェラーリは前年の好調が嘘のように低迷した。312T5は絶望的に戦闘力が低く、ビルヌーブは5位に2回入るのが精一杯という惨状だった。これをきっかけに、フェラーリはこの時代のトレンドとなりつつあったターボエンジン車に移行することとなる。

 1981年、シェクターは引退し、代わってフランス人ドライバーのディディエ・ピローニが新たにチームに加入した。ターボエンジンを搭載した126CKはシャシー性能こそウイリアムズ、ブラバム、ルノーらのトップチームと比べて劣っていたが、それでもビルヌーブは2勝を挙げた。伝統のモナコGPでは暴れるマシンをねじ伏せて勝利し、スペインGPでは自分よりもペースの速い4台のマシンを最後まで抑え込んでトップチェッカーを受けた。何よりもこのふたつの勝利はビルヌーブが名声を手にする大きな要因となったことは確かだ。

 そしてついに、彼にとって運命のシーズンである1982年シーズンが始まっていくのであった……。【第2回に続く】

 

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