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アイルトン・セナが”1戦1億円”のギャラでF1を戦った伝説的シーズン:1993年

ルイス・ハミルトンとメルセデスの今季のドライバー契約が、ようやく締結された。ただ彼らの関係は、最悪の場合には1993年のアイルトン・セナとマクラーレンのような関係に陥っていた可能性もある。

アイルトン・セナ(マクラーレン・フォード)【36407391】
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アイルトン・セナ(マクラーレン・フォード)【36407391】 <<この写真が使われている記事に戻る

LAT Images

 2月8日、メルセデスはルイス・ハミルトンと2021年のドライバー契約を結んだことをようやく発表した。ただこの契約は1年限り。来季に向けても、再び交渉が行なわれることになると思われる。

 1993年はアイルトン・セナがマクラーレンMP4/8を駆り、ウイリアムズ・ルノー+アラン・プロストを苦しめた、輝かしいシーズンだったとして知られている。しかし、マクラーレンとセナの契約は非常に難航したシーズンでもあった。

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 セナはマクラーレンとシーズン全体の契約を結ぶことなくシーズンイン。契約が締結されたのは、シーズンの約3分の1が消化した後のことだった。それまでは、1戦ごとの契約でレースに出走していたのだった。

「1レースあたり100万ドル(約1億円)だったことを覚えているよ!」

 当時マクラーレンのオペレーションディレクターを務めていたマーティン・ウイットマーシュはそう思い出す。

「私がマクラーレンにいた24年半の間、F1やその他の事業で毎年利益を上げていた。ただ1992年から93年にかけて150万ポンド(約2億円)を失った。そしてアイルトンに、レースごとに100万ドルを支払っていたんだ……」

 契約締結が遅れた最大の要因は、1992年限りでホンダがF1から撤退したことにあったと言える。

 この1992年は、マクラーレンとセナにとっては非常に厳しいシーズンだった。ハイテクデバイスで武装したウイリアムズ・ルノーが圧倒的な強さを見せ、FW14Bを駆ったナイジェル・マンセルがシーズンを席巻したのだ。

 その上マクラーレンは、ホンダを失った後に使うエンジンの決定が難航。最終的にはフォードHB V8エンジンを使うことになったものの、当初は”妥協のパッケージ”とみなされていたのだ。セナはそんな体制でシーズンを戦うのを躊躇し、休養する可能性も匂わせた。

「ホンダが撤退を決めたすぐ後、彼はF1を続けたくないと言っていた」

 ウイットマーシュはそう回顧する。

「メーカーのワークス待遇を欲する他のドライバーと同じようにね。彼は正しかったと思うよ」

Ayrton Senna, McLaren MP4-8

Ayrton Senna, McLaren MP4-8

Photo by: Ercole Colombo

 当時のマクラーレンには、チームの株式を持つマンスール・オジェの力を借りてリジェを買収し、同チームが持つルノーエンジンをマクラーレンに積むという選択肢もあった。それがうまくいけば、ウイリアムズと対等に戦える可能性もあったが、その計画は失敗。前述の通りフォードHBを搭載することになった。

 ただフォードのワークスチームは、当時はベネトンだった。そのためマクラーレンはカスタマーチーム扱いとなり、エンジンの使用料を支払う必要があった。チームの支出は、ワークス待遇で無料でホンダエンジンを使っていた時とは異なり、大幅に増えることになった。言い換えれば、セナに支払うことができる余裕は少なかったのだ。

 1992年シーズンのF1が終了した後、セナは休暇を過ごした。そしてクリスマス前にはアメリカに渡り、ペンスキーのインディカーをテストドライブした。

「次に何をすべきか、自分のキャリアにとって何が最善かを真剣に検討している。まだどのチームとも約束していない」

 インディカーのテストを終えた後、セナはそう語っていた。

「これには、1993年は1年間休暇することや、インディカーに参戦することについて考えることも含まれる。家に帰って静かに考え、近い将来にどんな可能性があるのかを見るつもりだ」

「将来ドライブすることについて、誰からも約束を取り付けていない。そのことは明確にしなきゃいけない」

Ayrton Senna, Penske Chevrolet PC22

Ayrton Senna, Penske Chevrolet PC22

Photo by: Sutton Images

 セナは1993年のことを考えつつも、より長期的なプランも視野に入れていた。その中には、1994年にウイリアムズ入りすることを目指すということも含まれていた。そしてチーム代表のロン・デニスとの関係は、それまで数多くの成功を築き上げてきたものの、大いに緊張していた。

「どちらも、非常に合理的な人物だった」

 セナのマネージャーを務めていたジュリアン・ジャコビはそう振り返る。

「彼らはどちらも、成し遂げたいことに対してかなり冷酷だった。彼らは時々衝突した。しかし基本的には、成功するためにお互いに必要とし合ってもいた」

「非常に良いパートナーシップだったと思うし、うまくやっていた。彼らは苦しい立場で戦っていたが、離れるよりも一緒に仕事を続けていく方がいいことを理解していたんだ」

 セナとの契約がまとまらなかったことで、デニスは1992年までチーム・ロータスで活躍していたミカ・ハッキネンを獲得。セナがドライブしないとなった時に備えた。

 結果的にセナがドライブしたことで、ハッキネンはレースに出走することができず、テストドライバーを務めることになった。デニスは3台目のマシンを走らせる可能性について探るなど、ハッキネンをレースに参加させる方法を模索したが、これが実現せず。結局マイケル・アンドレッティがシーズン途中でチームを離脱した後、終盤3戦のみレースに出場することができた。

 ただデニスが本当に目指していたことは、セナとの関係を整理することだった。

「マクラーレンにはカスタマー仕様のフォードエンジンしかなかったから、アイルトンは93年について少し心配していた」

 そうジャコビは振り返る。

「最初の話し合いは、1月下旬だったか2月の上旬だったか……いずれにしてもローザンヌにあるフィリップモリス(当時マールボロブランドでマクラーレンのタイトルスポンサーを務めていた企業)のオフィスで行なわれた」

「私は定期便に乗り、ロンドンからジュネーブに飛んだ。アイルトンはプライベートジェットでやってきた。たしかブラジルから来たと思う。フィリップモリスは、我々を迎えるために車を用意してくれた。それに乗って彼らのオフィスに行ったんだ」

Ayrton Senna, McLaren MP4/8

Ayrton Senna, McLaren MP4/8

Photo by: Sutton Images

 この会議にはセナとジャコビ、そしてデニスの他、マールボロのマーケティング責任者であるジョン・ホーガンとグラハム・ボーグルも参加した。

 セナは自分の価値について、明確な考え方を持っていた。しかも1992年までチームメイトだったゲルハルト・ベルガーが、非常に有利な契約をフェラーリと交わしたことを知っていたため、妥協する気はなかった。

「アイルトンの契約は、まだ合意されていなかった」

 ジャコビはそう語る。

「ロンは、カスタマーエンジンの使用料を支払わなければいけなかった。その結果、使える金額は500万ドル(約5億円)しか残っていなかったため、それまでのような金額をアイルトンに払うことができなかったんだ」

「それを聞いたアイルトンはこう言った。『それでいい。僕は最初の5レースだけ走るよ。それでおしまいだ』とね。それが、1レースあたり100万ドルになった理由だ。でもアイルトンは『レースごとに100万ドル欲しい』とは言わず、『最初の5レースだけ走るよ』と言っただけなんだ」

「部屋はある種の沈黙に包まれた。ジョン・ホーガンは笑いはじめ、私のことを見た。グラハム・ボーグルは笑わなかった。彼は最も真面目な男だったからね。そしてロンも言葉を発しなかった」

「するとアイルトンが口を開いた。そして『その後でお金があることが分かったらいいよね。それなら大丈夫だ。最初の5レースの後、その後のレースについて話し合う』と言ったんだ。それが、その日起きたことだ。最初の契約は5レースについて、そして1レースあたり100万ドルでの契約となった」

「その上我々は、契約にある条項を入れた。アイルトンは『レースの前の水曜日までに口座に入金されなければ、僕はレースに出ない』と言ったんだ」

Ayrton Senna, McLaren MP4/8 Ford

Ayrton Senna, McLaren MP4/8 Ford

Photo by: Motorsport Images

 ただ驚くべきことに、南アフリカで行なわれた開幕戦で、”妥協のパッケージ”だと思われたMP4/8には、かなりの競争力があることが明らかになった。それでも、彼のライバルであるアラン・プロストが駆るウイリアムズFW15Cの前には影が薄かった。

 とはいえ、悪天候とセナの天才的なドライビングにより、第2戦ブラジルGPと第3戦ヨーロッパGPを連勝。一方で”新人”のチームメイト、アンドレッティはF1に慣れるのに苦戦したため、マクラーレンがセナの才能を必要としているのは明らかだった。

 ただ第4戦サンマリノGPの前、ある事件が起きた。マクラーレンからの入金の確認が遅れたため、セナが姿をくらましたのだ。

「最初の問題はイモラだった」

 ジャコビはそう明かす。

「私はいつも、ファックスか電話で、入金があったことを確認しなければならなかった。しかしその時は水曜日に入金が確認できず、アイルトンはサンパウロにいた」

「彼は『オーケー、いいよ。今週末はレースをするつもりはない』と言った。入金がなかったため、彼はサーキットに来ないことをチームに伝えねばならなかった。しかしチーム側は送ったと言うんだ。当時の銀行業務は、今のように効率的ではなかったからね!」

「でも驚いたこと、入金は水曜日ではなく木曜日の朝に確認された」

「それで私は、サンパウロにあるアイルトンのオフィスに電話をかけた。しかし、彼を見つけることができなかった。彼は女の子と一緒に、どこかに出かけてしまったんだ。アパートにもオフィスにもいなくて。彼を見つけることができなかった」

「そして木曜日の昼に、ようやく彼を捕まえることができた。彼は飛行機に飛び乗り、マクラーレンはジョー・ラミレスを迎えのためにローマの空港に差し向けた。しかし彼は、別の空港に向かってしまったんだ(ローマには国際線が発着する空港がふたつある)」

「アイルトンは金曜日の朝にコースに到着し、最初のフリー走行の途中でマシンに乗り込んだ。そして、アクシデントに遭った」

 セナは最初の3レースを2位、優勝、優勝という好成績で終えた。にもかかわらず、マクラーレンはフォード陣営の中で、ベネトンに次ぐ2番手という立ち位置だったため、セナは苛立った。その不満は、ある意味PRという面では役立った。そしてマクラーレンは、6戦目以降最終16戦目まで、同じ額を支払い続けることを約束したのだ。

「それが1レース100万ドル、年間で1600万ドル(約16億円)だった理由だ」

 そうジャコビは語る。

「契約条項のひとつとして、水曜日までに支払いが行なわれなかった場合は、いつでもキャンセルすることができたんだ」

「アイルトンは、木曜日に入金するというチャンスも与えることができたが、入金されなかった場合には契約をキャンセルできるという選択肢もあった。だから事実上、レースごとの契約のようなものだった」

「ただ後半の契約は最初に交わしたモノよりもはるかに困難だった。ロンは1100万ドルを捻出しなければいけなかったからね。彼にはもう、余分な資金はなかったんだ」

「彼はフィリップモリスから、その支払いの保証と契約を得なければいけなかったんだ。そしてロンは、それを手にするまでアイルトンと契約を結ばなかった」

Ayrton Senna, McLaren MP4/8

Ayrton Senna, McLaren MP4/8

Photo by: Sutton Images

 セナは第6戦モナコでシーズン3勝目。存在価値をますます高めることになった。そしてウイリアムズとプロストが勢いに乗るまで、シーズン前半はランキング首位をひた走った。

 それでもセナは、原則に固執した。そして7月にも入金が遅れ、セナがサーキットに向かうのが遅れた事例があったという。

「最初の5レースを超えていたので、後半の契約に入っていた。それでも、同じ条項は存在していた。お金が届かなかったので、アイルトンは家を出なかったんだ」

「フランスGPだったと思う。アイルトンはサンパウロからフランクフルトに飛ぶ予定だった。しかしそれが間に合わず、彼の飛行機とパイロットが迎えに行き、マニ・クールに直接飛ばそうとしていた」

「入金がなく、アイルトンは”行かない”と言ったので、大きな問題になった。私は真夜中だったにも関わらずロンドンの弁護士の事務所にいて、ロンも電話していた」

「水曜日までに入金されなかったので、アイルトンは来ないと言った。契約を解除するために、様々な案を準備していたんだ」

「そしてロンは、『しかし、私は契約を解除するつもりはない。アイルトンが飛行機に乗っているのは分かっている。彼が飛行機に乗ったと連絡があったんだ。そしてその飛行機は、既にサンパウロを飛び立った』と言っていた」

「その30分ほど後に電話が鳴った。その主はアイルトンだった。通話をスピーカーにして、ロンもそれを聞いていた。そしてアイルトンはこう言ったんだ。『ロン、僕はまだブラジルにいるよ』とね。するとロンもそれに反論し『そんなわけはない。飛行機は飛び立った。ブラジルにいるわけがない!』と言ったんだ」

「アイルトンはこう返した。『でも僕はここにいる。リオにいるんだ。空港の警察署長の事務所にいるよ。そして入金されたことが確認されるまで、飛行機には戻らない」

「アイルトンがしたことは、ヴァリグ航空の飛行機を、リオに一旦着陸させることだった。その飛行機には他の乗客も乗っていたが、彼は降りたんだ」

「それでロンは、個人的に保証することになったんだと思う。正確にはどんなモノだったのか、それを正確に思い出すのは難しい。でも、それを解決した」

 その後、問題は解決され、関係はスムーズに進むようになった。ただセナはこの年限りでマクラーレンを離れ、翌年からは念願のウイリアムズに移籍することが決まった。それでもセナは、鈴鹿とアデレードでも、プロストを下して優勝。年間5勝を挙げ、ランキング2位で1993年シーズンを終えた。

「93年には、彼のライバルたちは60馬力も多いパワーを手にしていた」

 ウイットマーシュはそう語った。

「マシンに乗っていて、10,500rpmでレブリミットに当たってしまう時、ルノーが13,000rpmまで回っているのが聞こえると、意気消沈するに違いない」

 一方でジャコビも、次のように語った。

「彼は常に、限界が何であるかを知っていたと思う」

「1993年は、マシンの性能差によってチャンピオンを獲れなかったにもかかわらず、そのドライビングによって、彼にとっての史上最高のシーズンだったと思う」

「マクラーレンはまだ優れたチームだったが、エンジンの面ではパワーが劣っていた。93年のウイリアムズとルノーの組み合わせほど、良くはなかったんだ」

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