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F1史上最高の逆転劇は、どのようにして起こったのか:1983年アメリカ西GP〜前編〜

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F1史上最高の逆転劇は、どのようにして起こったのか:1983年アメリカ西GP〜前編〜
執筆:
2020/04/04 9:50

1983年アメリカ西GPでマクラーレンのジョン・ワトソンが成し遂げた、22番グリッドからの大逆転勝利。これは様々な要因が重なって起こったものであるが、前編では決勝レース直前までの出来事を振り返る。

 1983年、ロングビーチで行なわれたF1アメリカ西GP。このレースでマクラーレンのジョン・ワトソンは、22番グリッドからスタートして優勝するという離れ業をやってのけた。これは史上最も後方グリッドから優勝したレースとして、今もF1の歴史に残っている。

 レースが開催された3月27日のカリフォルニアは晴天。1983年はピットイン作戦もまだ十分に発達していない時代で、セーフティカーが導入されるのは10年も後の話だ。レース序盤に大規模な多重クラッシュが起きたわけでもない。

 そんな状況の中で、ワトソンはなぜ22番グリッドから大逆転勝利を収めることができたのか? 前編では、レースを迎えるまでの出来事をワトソンの回想と共に振り返っていく。

■名トレーナー、ウィリー・ダングルとの出会い

Ron Dennis, McLaren-Ford Cosworth, with his drivers Niki Lauda (left) and John Watson

Ron Dennis, McLaren-Ford Cosworth, with his drivers Niki Lauda (left) and John Watson

Photo by: Motorsport Images

 1983年のマクラーレンは、ワトソンとニキ・ラウダというベテランコンビを前年から継続した。ブラバム時代にもコンビを組んだことがあるふたりの関係は良好で、1982年には共にチャンピオン争いにも名乗りを上げた。

 とは言え、この時代のF1ではターボエンジン搭載車が幅を利かせ始めていた。1982年はフェラーリ、ルノー、ブラバム、アルファロメオらのターボ勢がグリッド上位を占め、フォード・コスワースの自然吸気エンジンを搭載するマクラーレンは予選においては苦戦していた。

 ターボ勢のレースペース、信頼性に難があったこともあり、レースでは強さを発揮していたマクラーレンだが、1983年はターボ勢と自然吸気勢の格差がさらに広がるだろうと予想されていた。そのため、当時のチーム代表であるロン・デニスは、TAGポルシェとのターボエンジンプロジェクトを粛々と進めていた。

 ワトソンは当時を回想し、次のように語った。

「その年の初め、ロン・デニスが私とニキに言ったんだ。『速いマシンを作るのに何億もかけるのはもううんざりだ。お前たちふたりにも同じくらいの努力をしてもらうぞ』とね」

「そして、ニキの専属トレーナーだったウィリー・ダングルがチームに加わることとなり、ニキ、私、そしてチームがその費用を折半することになった」

「(開幕戦の)ブラジルで初めてダングルに色々と教わったが、感動した。彼は科学的なアプローチでレーシングドライバーを身体面、精神面、食事面から立て直していくんだ。ニキは以前からその恩恵を受けていて実際に私もそれを見ていたが、それはほんの一部に過ぎなかったんだ」

 ダングルの加入もあり、これまでにない程良い状態でシーズンを迎えたワトソン。開幕戦ブラジルGPを終えた後、彼は思いがけない形でダングルを“利用”するチャンスを手にする。

「開幕戦ブラジルGPの後、私とニキとケケ・ロズベルグは、マルボロのプロモーションツアーで南米を回ることになった」

「するとその情報を聞きつけたイギリスの新聞記者たちが駆け込んできて、こう言った。『ジョン、君は本気でアルゼンチンに行こうとしているのか? フォークランド紛争で僕たちの国の人間が殺されてから1年も経っていないんだぞ。そんなことをしたらどうなるか分からないぞ……』と」

「それはある種の脅しのようなものだった。そして『これは私には必要のないことだ。私は行かない』と決めた。これはマルボロ側も理解してくれた。彼らは代役にアンドレア・デ・チェザリスを立てた」

「そういうわけで、私は南米ツアーに行くことなく、カリフォルニアのロングビーチに直行した。そしてニキたちが北米にやってくるまでの1週間、ダングルにみっちり面倒を見てもらうことができたんだ」

「日が進むにつれて、私のコンディションはどんどん良くなっていった。僕は元々走るのが苦手だったが、しっかりと走り始めたことで心拍数や回復力など基礎的な体力が向上していったんだ」

「ニキも遅れてそれに参加したが、南米での長旅はかなりキツかったみたいだ。彼は肝炎を拾ってきているようだったし、いずれにせよ100%の状態ではなかったように見えた」

「2週目には精神力も強くなったと思う。精神力はドライバーのパフォーマンスを引き出す上で重要なものだ。私はブラジルとロングビーチの間の2週間でかなり成長したんだ」

■ミシュランタイヤが機能せず、予選は散々な結果に

 John Watson, McLaren MP4-1C Ford

John Watson, McLaren MP4-1C Ford

Photo by: Motorsport Images

 そんな中で迎えた第2戦アメリカ西GP。ロングビーチの市街地コースを使用するこのレースでは、フォード・コスワース勢もターボ勢と互角に戦えると予想されていた。実際、ウイリアムズのロズベルグとジャック・ラフィットは予選で3番手、4番手を獲得し、同じく自然吸気のティレルもトップ10に食い込んだ。

 ただし、これはいずれもグッドイヤータイヤを履いたチーム。ミシュランタイヤを履くマクラーレンは予選で大苦戦し、ワトソンが22番手、ラウダが23番手に沈んでしまった。

「彼ら(ミシュラン)はルノーのターボマシンが後輪にかけるエネルギーに合わせてタイヤを作っていたんだ」とワトソンは語る。

「特に路面の一部がコンクリートのロングビーチでは、フォードDFVエンジン搭載マシンのパワーではタイヤへの負荷が小さすぎて、特に予選でタイヤをうまく機能させることができなかった」

「予選22番手と23番手という結果は避けられなかっただろう。この結果にイライラしていたロンはドライバーのせいにしていたがね!」

 いずれにせよ、スポンサーの注目度が高いアメリカラウンドでの予選結果は、マクラーレンにとって最悪なものだったと言える。しかし、決勝ではその潮目が変わることとなる。

【後編へ続く】

 

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シリーズ F1
執筆者 Adam Cooper