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V12で王者になったのは実はひとりだけ……セナ&MP4/6の物語

多くのF1ファンは、V12エンジンに今も幻想を抱いている。しかし実は、V12エンジンを駆るドライバーがチャンピオンを獲得したのは、過去ひとりだけ。1991年にマクラーレンMP4/6・ホンダを走らせたアイルトン・セナだけだ。

Ayrton Senna, McLaren MP4-6 Honda

写真:: Rainer W. Schlegelmilch

 F1世界選手権の歴史を紐解いていくと、各年代を支配したチームが存在する。今はメルセデスの時代、その前はレッドブルが連続でタイトルを獲得した。

 1984年から1991年にかけては、マクラーレンが圧倒的な強さを見せた時代だった。途中ウイリアムズが強いシーズンもあったが、ドライバーズタイトルはこの8年中7回、コンストラクターズタイトルも6回マクラーレンが獲得している。

 この期間中、確かにマクラーレンには当時最高のドライバーが在籍していた。ニキ・ラウダ、アラン・プロスト、そしてアイルトン・セナ……その誰もが、複数回のチャンピオンを獲得した、F1の歴史の中でも優れたドライバーたちだ。

 このマクラーレン最強時代は、ドライバーたちの力によるものだということもできる。しかしライバルたちも手をこまねいていたわけではなく、マクラーレンに追いつこうと、様々な開発を繰り広げた。またセナを始めとするマクラーレンのドライバーたちは、グリッド上で最高のマシンを手にすることを求めた……チームはその要求を満足させるため、どれだけの作業が必要なのかを痛感したはずだ。

アイルトン・セナとロン・デニス

アイルトン・セナとロン・デニス

Photo by: Motorsport Images

 セナを満足させることは、マクラーレンのデザイナーたち、そして当時のパートナーだったホンダにとっては最も難しいことのひとつだった。1988年、当時はV6ターボエンジンを使うことができる最後の年だったが、ホンダはまったく新しいV6ターボを投入。これにより、セナとプロストという最強ラインアップを備えたマクラーレンは、16戦15勝という完璧なまでのシーズンを実現し、セナが自身初のタイトルに輝いた。

 翌1989年からは、自然吸気エンジンの使用が義務付けられた。ホンダはこの年にV10エンジンを投入し、16戦中10勝を挙げるに至った。しかしプロストとセナは、激しいチームメイト同士の戦いを展開。最終的にプロストがチャンピオンに輝いたが、彼はこの年限りでチームを離れ、”カーナンバー1”と共にフェラーリに移籍することになった。

 ホンダは1986年以降、グリッド上で最強のエンジンを作り続けていた。しかし1989年の時点で、マシン全体として見た時のマージンは、もうそれほど大きくはなかった。

アイルトン・セナとアラン・プロストが走らせたMP4/5

アイルトン・セナとアラン・プロストが走らせたMP4/5

Photo by: Ercole Colombo

 1989年、フェラーリは革新的なマシン640を投入し、3勝を挙げた。信頼性がもっと高ければ、より多くの勝利を手にしていたはずだ。またウイリアムズは、ホンダエンジンを失った後、1988年はジャッドV8を使って未勝利に終わったが、1989年にルノーV10を手にするといきなり2勝を挙げ、復活の兆しを見せていた。

 マクラーレンの1988年のマシンMP4/4は、重心が低く非常に洗練されたマシンだった。しかし翌年のMP4/5は前衛的なマシンとは言えず、ダウンフォースを得るために巨大なリヤウイングに頼ることになった。

マクラーレンMP4/5Bのサイドビュー

マクラーレンMP4/5Bのサイドビュー

Photo by: Giorgio Piola

 これらのことは、全く新しいデザインの根拠だったのかもしれない。しかしエンジニアのスティーブ・ニコルズは、プロストに続いてフェラーリに移籍。またテクニカルディレクターのゴードン・マレーは、F1の技術規制が厳しくなっていくのにうんざりしていると語っていた。マレーはチームを離れる可能性もあったものの、他のチームに移籍するのを恐れたマクラーレンの代表であるロン・デニスは、自社の市販車プロジェクトをマレーに担当させ、”マクラーレンF1”が誕生するに至った。

 この間にホンダは、V12エンジンを開発。1989年の10月に、この新開発のV12エンジンをテストベンチで始動させた。そして、さらなるパワーを発揮できることが確認された。

 このV12エンジンのコース上でのパフォーマンスを確認するため、マクラーレンのチーフデザイナーであるニール・オートレイは、MP4/5のテスト専用マシン”Cスペック”を、1991用マシンMP4/6の開発と平行して準備しなければならなかった。

アイルトン・セナとゲルハルト・ベルガー:マクラーレンMP4/5B

アイルトン・セナとゲルハルト・ベルガー:マクラーレンMP4/5B

Photo by: Sutton Images

 マクラーレンは1990年シーズンを、前年マシンの改良版MP4/5Bで戦った。そのマシンはレースに勝つための十分な速さがあったものの、シーズン中にかなりの開発が必要だった。そのひとつが、バットマン・ディフューザーと呼ばれた大型のディフューザーだ。 

 当時マクラーレンのエアロダイナミキストだったマイク・ガスコインは、1989年フランスGPの決勝スタート直後にクラッシュを喫し、転倒したマウリシオ・グージェルミンのレイトンハウスを観察。そこからこの新しいディフューザーの着想を得たという。そして実際にMP4/5Bに装着した。

 これらの開発と並行して、MP4/5CにはホンダのV12エンジンが搭載された。しかしそのパフォーマンスには、疑問符がつけられた。

 ただマクラーレンとホンダは、V12のプロジェクトを継続。そしてアンリ・デュランが空力部門の責任者としてフェラーリから加わった。そしてセナはプロストがいた時と同じくらい理性を欠いたようにも感じられ、日本GPでは”フェラーリの”プロストとスタート直後に相打ちし、この年のタイトル獲得を決めた。

1990年の日本GP。スタート直後の1コーナーで接触し、コースオフするアイルトン・セナ(マクラーレン)とアラン・プロスト(フェラーリ)

1990年の日本GP。スタート直後の1コーナーで接触し、コースオフするアイルトン・セナ(マクラーレン)とアラン・プロスト(フェラーリ)

Photo by: Sutton Images

 そして続く冬の間に、マクラーレンはV12エンジンを搭載するニューマシンMP4/6を完成させた。ただエンジンをV12としたことで完全に新しいモノコックと、容量の大きな燃料タンクが必要となった。

 またマクラーレンはモノコックの素材に、高弾性のカーボンファイバーを採用。これにより、マシンの全長が4cm伸びたものの、必要な剛性を確保することができた。マシンの全体像はMP4/5Bによく似ていたものの、冷却性能はV12エンジンに合わせて変更され、それに伴いサイドポッドの形状とダクトも進化した。

マクラーレンMP4/6(上/1991年)とMP4/5B(下/1990年)の比較

マクラーレンMP4/6(上/1991年)とMP4/5B(下/1990年)の比較

Photo by: Giorgio Piola

 フロントサスペンションは、MP4/5Bまではプルロッドだったが、このMP4/6からは当時すでにライバルのほとんどが採用していたプッシュロッド式に変更。フェラーリなどと同様に、ノーズとほぼ水平になった。これにより、コクピットの容積を確保しながら、低いノーズを実現することもできた。プロストの後任としてセナのチームメイトになったゲルハルト・ベルガーは、MP4/5Bのコクピットの狭さに悩まされていたため、この変更は彼には大いに役立ったはずだ。

マクラーレンMP4/6のサスペンション・ディテール

マクラーレンMP4/6のサスペンション・ディテール

Photo by: Ercole Colombo

 ただセナのMP4/6の第一印象は良いモノではなかった。1991年の初め、エストリルで初めてMP4/6をドライブしたセナは、コクピットを降りるやいなや、記者団に次のように語った。

「彼ら(ホンダ)が何をしたのかわからない。十分な進歩も、十分なパワーもないよ」

 ホンダの新開発V12はRA121Eと名付けられた。排気量はV10と同じだったが、バンク角は72度から60度に狭められ、重量は5.5kg軽量化、さらに理論上の回転数も引き上げられた。しかし大きさは増し、熱対策のためより大きく重いラジエターを搭載せねばならなかった。

マクラーレンMP4/6に搭載されたホンダV12エンジン”RA121E”

マクラーレンMP4/6に搭載されたホンダV12エンジン”RA121E”

Photo by: Ercole Colombo

 エンジンが大型になったのに軽量化されたのは、V10よりもV12の方が共振特性に優れており、バランスシャフトを排除することができたからだ。ライバルたちはテストで、RA121Eの音響を分析し、そのパフォーマンスを探ろうとした。そこで各社は、ある異常なことに気付いた。1990年のホンダV10は13800rpmでピークにパワーを発生していたのに、このRA121Eはより低い回転数(13000rpm)でピークに達しているように見られたのだ。

MP4/6のコクピットをチェックするアイルトン・セナ

MP4/6のコクピットをチェックするアイルトン・セナ

Photo by: Ercole Colombo

 ホンダは、保守的なチューニングを施して走ることにより、トラブル発生を避けようとしているように見えたのだ。セナが怒り狂ったのも無理はない。V10時代の最後には690bhpを発揮していたが、このV12は発表された720bhpを達成しているようには見られなかった。

 ただホンダは舞台裏で、さらなる開発を続けていた。そして1991年に”バージョン3”と呼ばれた、86.5mm/49.6mmのボア/ストローク比を達成するエンジンが生まれたのだ。

RA121Eに作業を加えるホンダのエンジニア

RA121Eに作業を加えるホンダのエンジニア

Photo by: Ercole Colombo

 フェラーリは、テストでは不気味な速さを示していた。しかしいざシーズンが開幕すると、新車642のパフォーマンスは期待されたほどのものではなく、シーズン後半にはさらなるニューマシン643を投入するに至った。

 マクラーレンにとって最大の敵はウイリアムズだった。彼らはエイドリアン・ニューウェイが設計したFW14に、ルノーの新しいV10エンジンRS3を搭載。優れたエアロダイナミクスとバランスに優れたエンジン、そしてセミオートマチックギヤボックスなどのハイテクデバイスを組み合わせ、速さを見せた。ただ初期トラブルが頻発し、シーズン序盤はナイジェル・マンセルとリカルド・パトレーゼの足を引っ張った。

 結果としてセナは、開幕4連勝。これには、ブラジルでの自身初の母国優勝も含まれていた。最後マシンはギヤボックスのトラブルに見舞われ、6速にスタックしてしまっていた。そんな状況でレースを走り切ったセナは体力を使い果たし、表彰台でトロフィーを掲げるのも身体中の力を振り絞らねばならなかった。

1991年のブラジルGPに勝利し、歓声に応えるアイルトン・セナ

1991年のブラジルGPに勝利し、歓声に応えるアイルトン・セナ

Photo by: Motorsport Images

 ただ、シーズンが進むに連れてウイリアムズ+マンセルの勢いは増しつつあった。第5戦カナダGPでは、そのマンセルが終始レースをリード。ただ、最終ラップで観客の声援に応え手を振った際にマシンのキルスイッチを誤って押してしまったことでリタイア……貴重な10ポイント(当時は優勝ドライバーには10ポイントが加算されるシステムだった)を失った。ただ、セナに力関係が変わっていることを知らしめるには十分だった。

「ウイリアムズは、今では確かにとても速い」

 セナは当時、記者団にそう語った。

「リズムを維持するのはとても難しい。ホンダはエンジンの改良に一生懸命取り組んでいるが、ウイリアムズのシャシーは僕らのシャシーよりもはるかに優れている。新しいアイテムを手にできなければ、問題が生じるだろう」

ホンダRA121Eエンジン

ホンダRA121Eエンジン

Photo by: Rainer W. Schlegelmilch

 続くメキシコGPでは、セナの不安はますます顕著になった。予選ではウイリアムズ勢の速さについていけず、ダウンフォースを減らしたMP4/6はバランスを崩してしまう。そしてコースオフした際に転倒。真っ逆さまになってグラベルにストップしてしまった。

 それでも3番グリッドからスタートしたセナだったが、決勝ではウイリアムズにまったく歯が立たず、パトレーゼ&マンセルに57秒もの差をつけられて敗れてしまう。セナは当時、ホンダの安岡章雅プロジェクトリーダーに対し「君たちは僕のチャンピオンシップを奪っている」と語ったと言われている。

 しかしシェルが特殊燃料を開発、シルバーストンで前述のバージョン3エンジンが投入されたことで、RA121Eは14100rpmを超え、本来のパワー”720bhp”を発揮できるようになった。ただこの新しい燃料は、コクピットで燃料の残量を正確に把握するのが難しく、セナはシルバーストンやホッケンハイムで燃料を使い果たしてしまった。そしてその間、ウイリアムズは着実に進歩を遂げていた。

ナイジェル・マンセルがドライブするウイリアムズFW14にまたがり、ピットを目指すアイルトン・セナ

ナイジェル・マンセルがドライブするウイリアムズFW14にまたがり、ピットを目指すアイルトン・セナ

Photo by: Motorsport Images

 マクラーレンも、シャシーの欠点を削り落とすべく、可変車高システムや改良されたサスペンションリンケージを投入。セナにとってはこれでも十分ではなく、ハンガリーには軽量化されたシリンダーヘッドが持ち込まれるも、エンジニアたちに対して説教した。ただセナはそのハンガリーで勝利したため、エンジニアたちに謝罪することとなった。

 セナはマンセルがリタイアしたベルギーで優勝。マンセルはイタリアで勝利をもぎ取ったが、セナが2位に入った。この時、セナのランキング上でのリードはわずか11ポイントだったが、マンセルがポルトガルGPでタイヤ交換のミスにより失格……これによりふたりのポイント差は拡大した。

マクラーレンMP4/6のコクピットに収まるアイルトン・セナ

マクラーレンMP4/6のコクピットに収まるアイルトン・セナ

Photo by: Sutton Images

 マンセルは続くスペインGPで勝利を収めたが、セナとの差は大きく、第15戦日本GPでスピンしたことでチャンピオン獲得の目は潰えた。タイトル獲得を確実にしたセナは、最終ラップでチームメイトのベルガーに勝利を譲り、自らは2位でフィニッシュ。3度目のタイトル獲得を決めた。

 ホンダの懸命な努力もあって、ホームレースたる鈴鹿で、この年のタイトル獲得を決めた。そしてこれが、V12エンジンによる最初のチャンピオンということになった。おそらくこの先も、これが唯一の”V12チャンピオン”であり続けるだろう。

1991年のF1ワールドチャンピオンに輝いたアイルトン・セナ

1991年のF1ワールドチャンピオンに輝いたアイルトン・セナ

Photo by: Ercole Colombo

 マクラーレンは翌1992年に、MP4/6のBスペックマシンで臨んだ。ウイリアムズも前年マシンのBスペックだったが、リ・アクティブサスペンションを搭載するなど急激に進歩。そのFW14Bの強さは圧倒的であり、開幕から連戦連勝を続けた。マクラーレンは第3戦ブラジルGPでニューマシンMP4/7Aを投入するも、焼け石に水。ウイリアムズとマンセルは圧倒的なまでの強さで、第11戦ハンガリーGPで早くもタイトル獲得を決めてしまった。

 ホンダはこの年限りでF1撤退。その後、フェラーリとランボルギーニがV12エンジンを継続したが、フェラーリが優勝争いをするのがやっと。1995年限りでF1でV12サウンドが聴かれることはなくなってしまった。

ブラジルGPでのアイルトン・セナ

ブラジルGPでのアイルトン・セナ

Photo by: Sutton Images

マクラーレンMP4/6・ホンダの記録(Bスペック含む)

レース数: 36

優勝回数: 8

ポールポジション獲得数: 10

ファステストラップ獲得数: 5

表彰台獲得数: 11

コンストラクターズポイント: 148

ピットレーンで出番を待つセナとベルガー

ピットレーンで出番を待つセナとベルガー

Photo by: Ercole Colombo

マクラーレンMP4/6 テクニカルスペック

シャシー:カーボンモノコック

サスペンション:ダブルウィッシュボーン、プッシュロッド

エンジン:ホンダRA121E(V12)

排気量:3497cc 

パワー(回転数):720-760bhp(13500-14500rpm)

ギヤボックス:マクラーレン6速マニュアル

タイヤ:グッドイヤー

車重:575kg

レースドライバー:アイルトン・セナ/ゲルハルト・ベルガー

ガレージでボディ・カウルが外されたマクラーレンMP4/6

ガレージでボディ・カウルが外されたマクラーレンMP4/6

Photo by: Ercole Colombo

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