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パシフィックGP……僅か2年、短命に終わった日本国内F1”2レース”開催

1994年、日本国内ではふたつのF1レースが開催されることになった。ひとつは鈴鹿サーキットでの日本GP。もうひとつは、TI英田サーキット(現岡山国際サーキット)でのパシフィックGPである。翌年も同地でF1が開催されたが、わずか2年で終了を迎えた。

Race action

写真:: Sutton Images

 1994年の4月17日、岡山県のTI英田サーキットで、F1パシフィックGPが開催された。一国1GPの開催が原則であるF1において、これは例外とも言える事例。当時はイタリア(サンマリノGPとイタリアGP)とスペイン(スペインGPとヨーロッパGP)でも2戦開催されていたが、アジア圏では唯一。しかもパフィシックGPは、日本GPに次ぐアジアでふたつ目のGPとなった。

 この1994年のパシフィックGPでは、ウイリアムズのアイルトン・セナがポールポジションを獲得。しかしスタート直後の1コーナーでクラッシュし、早々にリタイア。ベネトンのミハエル・シューマッハーが、開幕戦ブラジルGPに続き連勝を果たした。

 パシフィックGPは、5年契約でF1開催権を手にし、1994年がその最初のレースだった。しかし1995年を最後に、F1の開催スケジュールから外れることになった。

 TI英田サーキットは、かつてF1を牛耳っていたバーニー・エクレストンが契約を交わしたサーキットの中でも、特異なコースのひとつと言える。しかしそれは、いくつかの理由で非常に重要なグランプリだったと言えよう。

 1995年限りで開催されなくなった理由のひとつは、日本における自動車レースの関心が急激に下がったということだ。また、1999年のマレーシアGPを皮切りに、中国やシンガポール、そして直近の例ではベトナムなど、F1がアジア圏に注目を始めた最初の1例ということでもある。

 TIサーキット英田は、1980年代後半から始まった日本の”バブル期”の最中に建設が始まったサーキット。しかもホンダと、そのエンジンを搭載するマシンを走らせるアイルトン・セナが、F1で大活躍していた時代。日本国民の注目がF1に注がれ、企業や資産家が、惜しみなくモータースポーツに資金を投入していった。事実、複数台のF1マシンには日本企業のロゴが踊り、レイトンハウスやフットワークなど、チーム自体を買収した企業もあった。

 F3000、グループC 、グループA、F3など国内選手権も盛況で、多くのファンがサーキットに詰めかけた。そして高額の報酬を期待した多くのヨーロッパ人ドライバーたちが来日し、そのレベルを向上させるのに一役買った。

 1960年代以降、日本のレースは鈴鹿サーキットと富士スピードウェイを中心に開催されてきた。そして1976年と77年には富士で、1987年からは鈴鹿でF1が開催されることになったが、その後菅生や美祢、筑波など、いくつかのサーキットが作られていった。

 そして日本がバブル期に入ると、新たなサーキット建設プロジェクトが立ち上がった。当時の日本の状況を考えれば、当然のこととも言えた。

 そんな時代を背景にして登場したのが、オートポリスとTI英田サーキットだった。いずれも当時としては最先端のサーキットであり、F1誘致を目指していた。ただ不利な点は、鈴鹿や富士などと比較して、市街地から離れた場所に作られたということ。アクセスが便利とは言えなかったのだ。

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Photo by: Sutton Images

 F1の開催権を最初に手にしたのは、オートポリスだった。オートポリスはベネトンF1チームをスポンサードするなどし、その名称を広く知らしめていった。

 オーナー企業の社長である鶴巻智徳氏は、サーキットの敷地内に多くのアート作品を配置。1989年にはパブロ・ピカソの絵画を5160万ドルで購入するなど、世界的にも有名になった。

 1991年には、サーキットのこけら落としとして、FIA世界スポーツカー選手権(SWC)を開催。ミハエル・シューマッハーとカール・ヴェンドリンガーのコンビが、メルセデスC291を駆って勝利している。

 そうしてオートポリスは、1993年に”アジアGP”としてF1を開催する権利を手にした。しかしながら、この頃には日本のバブル経済が崩壊。オートポリスもその煽りを受け、1992年に倒産してしまうことになった。このアジアGPの代替レースとして開催されたのが、アイルトン・セナが伝説的な走りを見せた1993年のヨーロッパGPである。

 オートポリスがF1を開催できなかった結果、TI英田にそのチャンスが回ってきた。このTI英田サーキットは、当初は個人会員や法人会員に1500万円の会員権を割り当てる形で設立された。会員になると、サーキットの走行はもちろん、F1マシンをドライブすることもできた。まるでゴルフ場の会員権のような形である。

 オートポリスでのF1開催がなくなった後、TI英田サーキットはエクレストンとの交渉を開始。4月と5月に会議を行なった後、6月には1994年から5年間のF1プロモーター契約を締結した。

 ただ、1994年には10月に鈴鹿での日本GPが組まれていたため、そこから6ヵ月離した4月の開催とされることとなった。またグランプリの名称もアジアGPではなく、パシフィックGPとした。

 エクレストンは当時、アジアでのF1開催を広めることを目指し始めていた。中国GP開催を目指し、珠海ではサーキットの建設が既に始められており、シンガポールをはじめとした他のアジア諸国とも、F1開催に向けた話し合いが進められていた。

 ただパシフィックGPで最大の懸念ともなったのが、そのアクセスだった。パドックから歩いてすぐ、コースの周りにはログハウスなど200部屋ほどが確保されていたため、ドライバーやチームのVIPにとってはそれほど大きな問題にはならなかった。しかしながら鈴鹿サーキットのホテルのようには設備が整っておらず、他のチームメンバーやメディアは、曲がりくねった道を通って毎日サーキットに通わねばならなかった。

 ファンにとっても移動は大きな問題であった。何の制限もせず、サーキットにマイカーで乗り付けることを許可してしまえば、道路が大渋滞するのは火を見るよりも明らかだった。そのため、JTB(日本交通公社)は、バスでのアクセス経路を確保。JTBはレースのスポンサーでもあった。

 レースのチケットは、岡山空港や岡山駅、その他の場所からのバス乗車代を含めたパッケージとして販売。10万枚を発売することが目指された。そして観客を輸送するために2000台のバスが手配された。

 この方式は成功し、1994年のレースでは大きな問題は発生せず、多くの人々がピットとパドックの設備に感銘を受けた。しかし全長3.7kmのコースは短く、F1マシンが走るにはあまりにも低速だった。

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Photo by: Motorsport Images

 1995年にも、4月開催でF1カレンダー入りを果たしたパシフィックGP。しかし同年1月には、阪神・淡路大震災が起き、多くの被害を出した。サーキットには直接的な影響はなかったものの、岡山県は4月に大規模な国際スポーツイベントを開催するのは不適切だと判断することになった。

 その結果、パシフィックGPの開催時期は10月に移動。鈴鹿での日本GPの前の週に開催されることになった。ただ、日本国内のファンにとっては、2週続けて高価なチケットを購入してF1を観戦するのは、簡単なことではなかった。

 レースはシューマッハーが前年に続き勝利。同年のタイトル獲得を決め、サーキット内のレストランで祝賀会を開いた。

 ただ、TI英田でのパシフィックGPの歴史は、それで幕を下ろすことになった。5年間の契約を結んでいたにも関わらず、1996年のF1開催カレンダーには名を連ねなかったのだ。1994年のサンマリノGPでセナが死去、しかもホンダも1992年限りでF1から撤退していた。その上バブルが崩壊したこともありモータースポーツへの関心が薄れる傾向にあった日本で、ふたつのレースを開催する意味はそれほど大きくはなかったと言える。

 ただTI英田サーキットは、オーナー企業が変わり、名称も”岡山国際サーキット”と変わったものの、今もスーパーGTやスーパーフォーミュラを開催するサーキットとして、その存在感をしっかりと維持している。2008年から2010年までは、WTCCを開催したこともあった。

 パシフィックGPを失った後、エクレストンはアジアでのレース開催プロジェクトをさらに進めていった。珠海でのレースは実現しなかったものの、マレーシアをはじめに上海、シンガポール、インド、韓国などでレースを開催。2020年にはベトナムでのレースも始まる予定だった。

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Photo by: Shigenobu Yoshida

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