”苦労人”モレノの、忘れられないグランプリ:1992年モナコGP
1990年の日本GPで自身唯一のF1表彰台を獲得したロベルト・モレノ。その彼には、もうひとつ忘れられないグランプリがあるという。

1990年の日本GPでアレッサンドロ・ナニーニの代役としてベネトンB190を駆り、2位表彰台を獲得したロベルト・モレノ。彼はそのレースの活躍が認められ、そのレース以降も引き続きベネトンのドライバーを務めた。
しかし翌1991年、シーズン途中でチームがミハエル・シューマッハーと契約したことで、モレノは突然ベネトンを去ることを余儀なくされた。
ベネトンを追われたモレノは、同年残りのレースでジョーダンやミナルディをドライブ。ポルトガルGPでは10位に入っている。
そして翌1992年、今でも多くのファンに“超弱小チーム”として語り継がれているアンドレア・モーダに加入することになる。
「1992年にはアンドレア・モーダというチームに入ることになった。もともとイタリアで靴を作っている人がオーナーになったチームで、レーシングカーに関する知識はほとんどなかった」
「彼はレースに出るために、とても少ない予算でマシンを購入し参戦しようと試みた。最初届いたマシンはパーツごとにバラバラな状態だった。これを見たアレックス・カフィはこのチームから参戦するのを早々にやめる決断をしたよ」
アンドレア・モーダの最初の印象についてそう語ったモレノ。彼に参戦の打診が来たのはシーズン開幕前のこと。当時モナコでF1ドライバーのためにアパートなどの手配をしている代理人から、休暇中のモレノに連絡が行ったのだ。
「僕は冬の休暇で年末年始から約2カ月ほどブラジルにいた。その時に彼から連絡が入った。カフィが乗りたくないと言っているから、代わりとなるドライバーを探していたんだ。チームの状況について説明を受けた結果、先に現金でギャランティを支払ってくれるなら乗るということを条件にチーム加入を決めたよ」
こうして1992年のシートを得たモレノだったが、ここから想像を絶するほど過酷なシーズンが始まっていく。早速、加入初戦となる第3戦ブラジルGPが行われるインテルラゴスに向かったのだが、アンドレア・モーダのマシンは何ひとつ完成していなかったのだ。
「ガレージに行ったら驚いた。マシンはまだバラバラの状態で、大きな箱にパーツが詰め込まれている状態だった。ガレージ内のどこを見渡しても、マシンと呼べるものはなかった」
これを見た代理人も驚いてギャラの支払いを拒否しかけたそうだが、なんとかギャラを受け取り、マシンの組み立て完了を待つ。しかし、予想に反してマシンは一向に完成しなかった。
「金曜日に走行が始まるというのに、まだチームはマシンを組み立てている真っ最中だった。結果はどうであれ、今後参戦を続けていく条件のひとつとしてレースウィーク中に最低3ラップを走行しなければならなかった」
「とにかく何としてもマシンを走らせないといけない、と僕も心配になりだした。僕も組み立てを手伝って、結局、金曜日はみんな徹夜で組み立てた。だけど土曜日の朝4時になっても、シートがマシンに収まっていない状態で、あたりには大きな箱がまだたくさんある状態だった。さすがに僕は疲れ切って、空っぽに大箱のひとつに入って居眠りしてしまった」
「朝8時になってようやくシート合わせをして、1時間後に何とか3ラップをこなした。いやぁ、ひどい週末だった」
こうしてアンドレア・モーダは次戦以降の参戦権をなんとか確保するが、次のスペインGPでは、これまた信じられない事態が発生した。
「エンジニアがドライバー2人を呼んで、いきなり説明を始めた。『マシンはまだ完璧な状態ではないから、ピットアウトしたら1周目のバックストレートでマシンを止めるんだ』と。僕はその理由を聞いた。そうしたら『リヤウイングのところにクラックが入っていて、ペースを上げたら脱落してしまう。だからだ』と話した……。でも走る前にしっかりギャラは支払ってもらえたから、言う通りにしたけどね(笑)」
当時のことを笑いながら語るモレノ。しかし、チームはすでに参戦を継続していけるのかも危ういくらいマシンの状態はひどかった。ここから予選通過に向けて、大きなチャレンジが始まっていったという。
「本当にマシンがひどい状況だったんだけど、僕はこれをチャレンジだと思って、チームのため、自分のためにどうにかしようと決めたんだ」
「まずはバルセロナ(スペインGP)が終わってから、オーストラリアにいる旧友にも声をかけたり、以前一緒に仕事していたメカニックにも声をかけて、3人が新たにチームに加わった。目先の目標は予選で素晴らしいタイムアタックをすることだった」
スペインGPから次のサンマリノGPまではわずか2週間しかなかったが、モレノが集めたメカニックたちの頑張りもあり、マシンの戦闘力は一気に向上。これで予備予選を突破できるかと思われたが、サンマリノGPでは思いも寄らないトラブルに見舞われてしまう。
「イモラ(サンマリノGP)の段階では、マシンも素晴らしい状態になっていたんだけど、ホイールベアリングが壊れてしまって満足な走りができず、予備予選を通過できなかった」
「この時は本当に悔しかった。前年まではベネトンというトップチームにいたのに、今はこうして下位チームにいる。このままの状態でF1のキャリアを終わらせたくないと思った。”次こそは!”という気持ちで満ち溢れていた」
レースに出られない悔しさがさらに増すモレノ。続くモナコGPの前にテストを敢行したが、この時に使用したサーキットが後のモナコGPに役立つことになった。
「モナコのレース前にテストを行うことにした。その時に使用したサーキットはとても小さく、3速までしか使わないような場所だった。でもモナコも低速ギヤが主体になるから、結果的にモナコ向きの良いマシンに仕上がった」
「僕は絶対に諦めないと強く決めてモナコGPに臨んだ。その気持ちが本当に強く出た1戦だったかもしれない。例えば、トップチームは専用のすごく良い燃料を持っているけど、僕たちは下位チームだからそういうことはなかった。その時エルフの関係者に仲の良い担当者がいて、その人に何とかして燃料を譲ってくれないかと打診した。それでもいいから、このチームで予選を通過したかったんだ」
そして、いよいよ始まったレースウィーク。モレノは初日から果敢に攻めていき、チーム初の予備予選通過を果たすと、予選でも渾身のアタックを披露。26番手で見事決勝進出を決めたのだ。なお、この時予選落ちラインとなる27番手だったエリック・ヴァン・デ・ポール(ブラバム)とは、わずか0.036秒差だった。
「とにかくプッシュした。予備予選を通過したこと自体、奇跡だった。予選では6周しかもたないタイヤだったから最初に2周アタックして、一度ピットに戻って次は4周アタックした。最後タイムを出してピットに戻ってきた時に、全てのチーム関係者から歓声を受けたのを今でも覚えている」
「僕のF1キャリアの中でも忘れられない瞬間は、やっぱり1990年の鈴鹿での2位。しかし、それと同じくらい思い出に残ってるのが、このモナコでの予選だった」
そうモレノは笑顔で語っていた。
彼のF1キャリアを見て“苦労人”と表現されることが多いが、今回のインタビューなどを通してモレノは一切「苦労した」とか「大変だった」という言葉を口にしなかった。
ベネトン加入の時も、アンドレア・モーダで奮闘した時も、彼は常に目標を掲げており、それを達成するためには様々な手段を使って、目標を達成するまで努力し続けていく姿勢が共通していた。そして、それが彼の強さの秘密であり、今でも多くのファンから愛され続ける魅力のひとつでもあるのだ。
モレノはインタビューなどを通して、次のようなメッセージを残した。
「夢に対してチャレンジをする、諦めずに頑張ることの大切さを忘れないでほしい。そして、皆さんのお子さんが夢に対してチャレンジしていくことを、ぜひ見守って応援してあげてほしい」
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