【コラム】昨年偉業を成し遂げた佐藤琢磨から、今年我々は何を学ぶ?

2018年が幕を開けた。2017年にインディ500を制するという偉業を成し遂げた佐藤琢磨は、今年何を学ぶのか?

 モータースポーツを楽しむ方法は幾つもあると思う。

 初心者はクルマが猛烈なスピードで走るのを見るだけで興奮するかもしれない。少し知識が増えればドライバーやクルマの名前を覚えて応援する方法を覚える。次に見る目が肥えて運転のテクニックやクルマの挙動を判断出来るようになり、レースの戦略を分析することさえ覚えるかもしれない。そういう段階を踏んで、ファンは自身の成長と共にモータースポーツをより深く理解するようになる。

 理解が深まると視点は広がり、楽しみ方はモータースポーツの世界に留まらなくなる。つまり、社会全体を見る中でモータースポーツのポジションを判断出来るようになる。そうなれば楽しみ方はより一層広範囲かつ厚みを持つようになる。

 2017年5月28日、佐藤琢磨がインディアナポリス500マイル・レースで勝利を挙げた。日本のモータースポーツ史にとって最も価値ある記録であるはずのこの偉業に対し、日本の反応は割と静かだったように思われる。勝利した後の数日間はモータースポーツ関連メディアがそれを採り上げたが、いわゆる一過性の記事と相違なく、その意味を分析し、偉業を讃えた記事は少なかった。というよりほとんどなかったのではないか(全部の記事に目を通したわけではないので、そういう記事があったのかもしれないが)。これは、広範囲でモータースポーツを楽しむという意味の薄さを露呈した事実だと言えないだろうか。

 我々は、佐藤琢磨のインディ500優勝は、アメリカと日本のモータースポーツ史を変えるほどの力を持った出来事であったという事実を直視すべきだった。これまでアメリカの象徴ともいえるインディ500を制したのは欧米のドライバーばかり。そこに東洋人が名乗りを上げたのだから、反響はもっと大きくても良かったはずだ。

 しかし、佐藤琢磨の勝利はひとつの問題を提議した。レースの翌日に、ひとりの新聞記者が「佐藤琢磨のインディ500制覇は不愉快」というネガティブな記事を書いたのだ。その記事によって、世界3大レースといわれるインディ500でさえ、アメリカ人にとれば「アメリカ村のお祭り」以上のものでないことが露呈した。ただし、ヨーロッパに対して大いなる憧れを抱くアメリカ人にとれば、ヨーロッパからの挑戦者はアメリカ村のお祭りの価値を上げてくれる存在として歓迎するに値する存在である。しかし、ヨーロッパ以外の国に対しては歓迎の気持ちなどさらさら無く、「アメリカ・ファースト」なのである。佐藤琢磨はそんな国のレースでトップに立ったのである。

 新聞記者の記事がもうひとつ意図するところは、インディ500が開催された日がメモリアルデー(戦没将兵追悼記念日)という戦後のアメリカにとって最も重要な日であったことも関係しているはずだ。

 記事を書いた記者は、恐らく対戦国日本のドライバーがメモリアルデーにアメリカの象徴ともいえるインディ500を制したことに対し、何か許せない憤りを感じていたのかもしれない。戦争が終わって70年経った今でも過去に引きずられて生きている人がいること、そうした人によってアメリカという国が成り立っていることもまた事実である。佐藤琢磨には勝利者スピーチで、日本人ドライバーとしてアメリカの歴史に名を残すことの意義に触れて欲しかった。

 佐藤琢磨のインディ500勝利は、例えば今ここに書いたような事実を通して、我々に考えるチャンスを与えてくれた。こうしたことを考えることも、モータースポーツを楽しむひとつの方法ではないだろうか? 伝統的なイベントには歴史が重層的に積み重なっている。その歴史を一枚一枚剥がしてみると、これまで気づかなかったモータースポーツの楽しみ方が隠れているかもしれない。笑い、喜ぶばかりが楽しみではない。

 2017年、佐藤琢磨のインディ500制覇という貴重な体験を通して、我々は多くのことを学んだ。2018年、我々はその貴重な体験の上に更なる経験を積むことになる。どんな経験をするのか、これまた楽しみではある。

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この記事について
シリーズ その他 , IndyCar
記事タイプ 速報ニュース