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どんな環境でも結果を残す。レッドブルが無視できなかったイゴール・フラガの才能〜前編〜

2020年からレッドブルジュニアの一員となったイゴール・フラガ。日本でレースキャリアを始めた彼がここまでたどり着くには、様々な紆余曲折があった。前編では彼のキャリア初期を本人のインタビューと共に紐解いていく。

Igor Fraga, Charouz Racing System

Igor Fraga, Charouz Racing System

Joe Portlock / Motorsport Images

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 2020年のFIA F2には、日本人ドライバーの角田裕毅がレッドブルのバックアップを受けてカーリンから参戦。F1昇格に向けて勝負のシーズンを迎えることになる。そんな中、FIA F3のグリッドにも日本にルーツを持つレッドブルジュニアがいる。イゴール・フラガだ。

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 フラガがeスポーツ界で世界的なスター選手であることは、もはや紹介するまでもないかもしれない。彼がリアルレース界にその名を知らしめたのは、何と言っても2020年初頭にニュージーランドで行なわれたトヨタ・レーシングシリーズ(TRS)だ。角田も参戦していたこの選手権でフラガは、前年王者のリアム・ローソンを下して初参戦ながらチャンピオンに。そしてその直後にレッドブル・ジュニアチームと契約した。TRS王者→レッドブルジュニア入りという流れは、奇しくも前年のローソンと全く同じだ。

 フラガは2020年のFIA F3にチャロウズ・レーシングシステムから参戦するが、彼はこのF1直下のカテゴリーにたどり着くまでに、誰よりも紆余曲折を繰り返してきたと言える。そのレースキャリアは日本で始まり、ブラジル、メキシコ、アメリカ、イタリア、ニュージーランドを経て、ついにF1へと通ずる道にやってきた。

 もし並行世界、いわゆる“パラレルワールド”が存在するならば、21歳のフラガは今頃スーパーフォーミュラやスーパーGTといった日本のトップカテゴリーで活躍しているかもしれないし、インディカー、あるいはブラジルのストックカーに参戦しているかもしれない。そんな彼を今の場所に導いたのには、様々な状況が関係している。ただTRSでのパフォーマンスが彼の評価を上げ、レッドブルジュニアの“ボス”であるヘルムート・マルコから注目されることに繋がったのは間違いない。

 マンフィールドで行なわれたTRS最終戦でチャンピオンを決めたフラガは、ニュージーランドでしばしの間タイトル獲得を祝った後、チャロウズの本拠地があるチェコに飛んだ。そこで突然1本の電話がかかってきたという。

「チェコに着いてレンタカー屋のデスクで待っていたら、彼(マルコ)から電話がかかってきたんだ」とフラガは語った。

「オーストリアからの番号だったので、もしかしてと思ったらやっぱり彼だったんだ! 電話越しだけどとても緊張したよ」

「彼は詳しくは話してくれなかったけど、週明けに会いたいと言ってくれた。そしてその週には契約を交わすことができて、翌週にはレッドブル・ジュニアチームの一員となることが正式に決まったんだ」

 それはフラガの初期のキャリアからは想像もできなかった出来事だった。

■日本で育ち、ブラジルへ。資金難に苦しむも輝きを放つ

Igor Fraga

Igor Fraga

 フラガはブラジル人の父親と日系ブラジル人の母親の間に生まれた。母はブラジルよりも日本で生活した方が良いと考えたため、彼は金沢で生まれ育った。そして5歳になる前に、初めてのカートレースにも参戦した。

「キッズカートという(日本独自の)カテゴリーがあって、シャシーから何から全てが小さい」と彼は言う。

「小さい頃からライセンスが申請できるし、カートを走らせる力があるのか、親や自分が見極めるためのテストになる。僕は日本で7つのタイトルを獲ったし、2008年にはアジア選手権で優勝した」

 その後、2000年代後半の世界的な経済危機により、一家はブラジルに戻った。

「2009年、僕たちは大きな影響を受けた。母は僕にもっとブラジルの文化に触れてもらって、家族との距離を縮めて欲しいと思っていたので、僕が12歳の時に家族でブラジルに戻ることになった」

「日本にいる時でさえも、母はブラジル料理を作ってくれていた。母は家ではいつもポルトガル語で話していて、僕は学校では日本語で話していた。結果的にどちらも話せるようになったから良かったと思う」

 フラガが日本語を話せることは、後に彼がグランツーリスモでトップの座につくにあたって非常に大きな意味を持つことになるが、それはまだまだ先の話である。

 ブラジルに移住したフラガ家がまず直面した問題は、彼らがリオデジャネイロから北に500km以上離れたイパチンガという街に住んでいたこと、そしてブラジル国内のカート参戦費用が高すぎたことだった。

「父が日本から持ってきたゴーカートがあった。ブラジル、特に僕が住んでいたような田舎ではカートを手に入れるのが難しいからね」

「最初はレースをせずに練習だけしていたから、スポンサーを手に入れるチャンスを得られるとすぐにどのカテゴリーでレースができるかを考えた」

「国内のカート選手権は費用がすごくかかると思ったので、正直フォーミュラ1600でレースをする方が安上がりだと思った。だから僕は15歳になるまで少し待って、シングルシーターのライセンスを申請した。そして(2014年には)7レースに出たんだ」

 2014年はフォーミュラ1600とフォーミュラVeeに参戦し好成績を残したフラガは、翌2015年にブラジルF3のBクラスに挑戦することを決める。当時のブラジルF3は、トップクラスのAクラスでさえも型落ちシャシーのダラーラF309(2008〜2011年世代)を使用しており、Bクラスに至っては2001年モデルのダラーラF301を使用しているという、もはやヒストリックレースと言えるものだった。それでもフラガにとっては大きなステップアップと言えた。

 フラガはルーベンス・バリチェロの叔父であるダルシオ・ドス・サントスが運営するチーム、プロップカー・レーシングと3年契約を結んだ。当時を振り返り彼はこう語った。

「テストではかなりのもの(パフォーマンス面でのステップアップ)を感じたけど、すぐに慣れることができた」

「でもパワーだけじゃなくて、資金面での負担も相当大きかった。家族が色んなものを売りに出さないといけなかったし、予算は足りていなかった。その影響でメンテナンスも十分にできていなくて、マシンはしょっちゅう壊れた。だからなかなか完走できず、それが選手権に響いてしまった」

 この年フラガはクラスBでランキング3位となった。クラスBのチャンピオンは今季からFIA F2に参戦するギリェルメ・サマイアで、クラスAのチャンピオンには16戦14勝でペドロ・ピケが輝いた。

 2016年はクラスAに参戦したフラガだったが、この年は予算の問題で開幕戦と最終戦のみのエントリーにとどまった。そして2017年には再びクラスB(当時の名称はアカデミークラス)に戻り、タイトルを獲得した。

■メキシコ、アメリカ、eスポーツ……様々な舞台で奮闘

Igor Fraga

Igor Fraga

Photo by: Art Fleischmann

 この頃には既に、フラガはeスポーツの世界で頭角を現していた。

「フォーミュラVeeやフォーミュラ1600を走っていた2014年頃から(eスポーツ)を始めた」と彼は振り返る。

「その頃はGTアカデミー(シムレーサーから現実のレーサーを育成するグランツーリスモの企画。ヤン・マーデンボローなどを輩出)が世界的に広がっていた。プロのドライバーになるにはスポンサーシップを手に入れないといけない。だからそれに本気で取り組むべきだと思ったんだ」

 当時15歳で国際的なカテゴリーに参戦できなかった彼は、グランツーリスモでチャンスを掴むため、本気で取り組み始めた。それがレースゲームが趣味ではなくなった瞬間だという。

 フラガは2017年の9月から、2017-2018シーズンのNACAM F4(メキシコF4)に参戦。F1 eスポーツのファイナルと日程が重なり欠場するレースもあったが、ランキング2位となった。F1メキシコGPのサポートレースで優勝したこともあり、その走りは元F1ドライバーのブラジリアン、ロベルト・モレノの目に留まった。

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 そんなモレノの助けもあり、フラガは2018年からアメリカのジュニアフォーミュラであるUSF2000に、ほとんど資金を投じることなく参戦することができた。インディカーを目指す若者たちが集まるそのカテゴリーで、フラガは2位を2度獲得するなどランキング4位となった。

「経済的な面で言えば、おそらく最も厳しい年だった」とフラガは言う。

「父は僕のメカニックで、僕はアシスタントとしてマシンの準備を手伝っていた。ルーキーイヤーで4位でフィニッシュできたから、悪くはなかったと思う」

「そしてグランツーリスモ世界選手権で優勝して、次の年からヨーロッパに行くことができたから、その辺りから僕に何かが起こり始めていた」

【後編へ続く】

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