
ポルシェやアウディ、そしてフォルクスワーゲンでその手腕を振るったフェルディナント・カール・ピエヒ氏が8月25日に亡くなった。82歳だった。
フェルディナント・ポルシェ博士を祖父に持ち、ポルシェでは主に往年の名車とも言える数々のレーシングカー開発の技術者として腕を振るい、後にアウディに移籍し技術開発部門のトップから会長職を歴任、さらにフォルクスワーゲン(VW)でも頂点にまで上り詰めたフェルディナント・カール・ピエヒ氏が亨年82歳でこの世を去った。ここに簡単ではあるが氏の生前の業績を記し、改めてピエヒ氏のご冥福をお祈りしたい。
フェルディナント・ポルシェ博士の長女ルイーゼとアントン・ピエヒの次男として、1937年オーストリアのウィーンで生を受けたフェルディナント・ピエヒは、チューリッヒ工科大学で機械工学を専攻し修士課程を習得後、1963年にポルシェに入社。ポルシェに入社したピエヒ氏がすぐに関わったのが、レーシングカーである906の開発だった。その後、ポルシェの悲願だったル・マン24時間レース制覇を1970年に成し遂げたポルシェ917の設計・開発にも携わった。
1970年〜71年とル・マン24時間レースをポルシェ917で連覇したのを見届けたピエヒ氏は、1972年にはアウディの技術開発部門に移籍。すぐに同部門のトップとなるや、今度は現在のアウディの基本技術ともなっているAWD(四輪駆動)やアルミボディ採用による軽量化技術、さらに空気抵抗低減ボディデザイン技術などを牽引し、一気にアウディのブランドイメージを技術の側面から高めることに成功した。
モータースポーツ分野では80年にアウディ・クワトロ、83年にアウディ・スポーツ-クワトロを世に送り出し、WRC(世界ラリー選手権)にクワトロ技術を導入してタイトルを席巻。このアウディのクアトロ技術を他メーカーも次々に追随(4輪駆動旋風)し、4輪駆動制御はその後のWRCグループBラリーカー、そして現在にいたるまでの技術の本流とまでなった。このようなアウディでの功績が認められ、ピエヒ氏は1988年にアウディの取締役会会長に就任。さらに親会社であるVWに移籍し1993年には取締役会長にまで上り詰めた。
その後は2005年から10年間に渡り監査役会長を務め、2015年に辞任。2019年8月25日、レストランで倒れ急逝した。
ピエヒ氏の逝去に際し、フォルクスワーゲンの関係者もコメント。フォルクスワーゲンAGの監査役会会長であるハンス-ディーター・ペッチは、次のように追悼の意を表した。
「フェルディナンド・ピエヒは、情熱的なマネージャーとして、独創的なエンジニアとして、そしてビジョンを持った経営者として自動車史を作ってきました。1960年代以降、彼は自動車の発展を決定的に形作り、業界全体、とりわけフォルクスワーゲンを躍進させ、グローバルモビリティグループに変革しました。当社およびその従業員は、Prof.ピエヒに深く謝意を感じており、同氏の業績に最大限の敬意を表するものです。ご家族とご親戚の皆様にお悔やみを申し上げ、Prof.ピエヒと彼の人生をかけた仕事を偉大な記憶として留めます」
またフォルクスワーゲンAGのヘルベルト・ディース博士も、次のようにコメントを寄せた。
「フェルディナンド・ピエヒは大胆で、経営者として常に一貫しており、そして天才的な技術者でした。若いエンジニアとしてポルシェを、”917”などの伝説的な車両やル・マンでの勝利を通し、レースブランドとして定着させました。 1972年以来、アウディをクワトロドライブやTDIエンジンなどの革新により技術的に発展させ、 CEOとしてプレミアムブランドに育ててきました。フォルクスワーゲン・グループを率いるフェルディナンド・ピエヒは、国際化を進め、ベントレー、ランボルギーニ、ブガッティをグループに統合し、グループ内の複数のボリュームブランドにおいて一貫したプラットフォーム戦略を展開し、国際競争力を強化しました。またスカニアとMANをグループに統合し、世界的に競争力のある商用車サプライヤーの基盤も築きました。技術的には、Dr.ピエヒとその開発チームは、実現可能な限界を何度も超えています。世界初の1リットルカー(1Lの燃料で100km走行可能)から1001馬力を発生するブガッティ”ヴェイロン”まで。フェルディナンド・ピエヒはなによりも自動車業界において細部にわたる品質と完璧さをもたらし、それをフォルクスワーゲンのDNAとして深く定着させました。私は、Dr.ピエヒの業績に感謝するとともに、尊敬を感じています」
ピエヒ氏のこれまでの偉大な功績を称えるとともに、ここに哀悼の意を表します。

Porsche917
Photo by: Motorsport.com / Japan
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