日本で花開いた早世のナイスガイ、ジェフ・クロスノフ。親友マウロ・マルティニが語るふたりの思い出と突然の別れ
25年前、インディカーでの事故でこの世を去ったジェフ・クロスノフ。全日本F3000時代からの親友であったマウロ・マルティニが、彼との思い出を振り返った。
1996年7月14日。カナダ・トロントで行なわれたPPG インディカー・ワールドシリーズ(CART)第11戦の決勝レース終盤、ルーキーのジェフ・クロスノフはステファン・ヨハンソンのマシンと接触して宙を舞い、デブリフェンスに激しく衝突。帰らぬ人となった。
クロスノフの死はCARTの関係者に大きな衝撃を与えたが、彼が長年活躍した日本を始め、その悲劇は世界中へと伝わった。海の向こうのヨーロッパでは、彼と日本で共に戦ったエディ・アーバイン、ハインツ-ハラルド・フレンツェン、ミカ・サロ、ジョニー・ハーバートらが悲しみに暮れた。彼らはその2年前、同じく日本での戦友であるローランド・ラッツェンバーガーをイモラで亡くしたばかりだった。
中でも、大親友のマウロ・マルティニほどクロスノフの死にショックを受けている者はいなかった。マルティニは全日本F3000(現スーパーフォーミュラ)やスポーツカーレースでクロスノフとチームメイトになった間柄。ふたりは欧米で“ブロマンス”(兄弟=brotherとロマンス=romanceを掛け合わせた造語。男性同士の深い友情を指す)という言葉が生まれるはるか昔から、並外れた友情を育んできた。
そんなマルティニは、クロスノフを喪った1996年7月14日を「人生最悪の日」と表現している。
「あのような1日は、25年経った今でも乗り越えることができない」
そう彼は言う。
「僕にとっては文字通りの悲劇だった。僕は彼のことを自分にはいない兄弟のように愛していたからだ」
1992年WSPC鈴鹿戦にて。左からクロスノフ、マルティニ、金石勝智
Photo by: Adam Cooper
1980年代後半、日本のレースシーンはバブル景気の影響もあって盛り上がりを見せていた。ヨーロッパで才能を持て余していたドライバーが次々と日本にやってきて、多額の給料を受け取る……まさにゴールドラッシュとも言える時代に突入していった。クロスノフがフル参戦を開始した1989年は、エマニュエル・ピロやジェフ・リース、ロス・チーバー、パオロ・バリッラなど、多くの外国人ドライバーが日本のサーキットで活躍していた。
アメリカ出身のクロスノフは当時無名の存在であった。しかしスピードスターホイールレーシングチームがアメリカ人ドライバーを探しており、クロスノフに白羽の矢が立った。本人はF3のテストだと思い日本にやってきたが、実際に現場で目にしたのはF3000のマシン。フォーミュラ・アトランティックやトラックレースなどで走っていたクロスノフにとっては大きなステップアップだった。
しかし、UCLA卒のクロスノフはそのユーモアと熱意、そして知性でたちまち人気者となった。マルティニは当時をこう振り返る。
「金髪の男がやってきたことを覚えている。彼は全く有名ではなかったので、誰も彼のことは知らなかった。(全日本F3000の)他のドライバーはF3チャンピオンだったり、(国際)F3000やF1で走った経験のあるドライバーだが、彼はそういう実績がなかった」
「ただ、彼と初めて話をした時に、気が合うと思った自分がいた。優秀なレーシングドライバーであるためには、少しは性格の悪さも必要だったりするが、彼はそういう意味ではそこに当てはまっていなかった。彼は本当に良い人で、親切だった」
「Eメールを日本に持ち込んだのも彼が初めてじゃないかな。誰もそんなもの知らなかったからね! 彼は小さなパソコンを持ち歩き、Eメールでメッセージを送っていた。それを見て『一体何なんだこれは?』と思った。彼は時代の最先端を行っていたんだ」
UCLA卒の秀才ドライバーだったクロスノフ
Photo by: Adam Cooper
クロスノフはフル参戦初年度となった1989年シーズンで3位表彰台を獲得するなど、学習能力の高さを見せていた。そして1990年はマルティニの所属するサンテック・レーシングチームに移籍。ふたりはチームメイトとなった。
「あの年(1989年)の終わり、僕のチームは2台体制を目指してスポンサーを探していた」とマルティニは言う。
「彼らは『ジェフ・クロスノフにコンタクトを取るのはどうか?』と言ってきた。彼は考え得る最高のチームメイトだったから、もちろんイエスと答えた」
その後マルティニとクロスノフは大都会の東京ではなく、山梨の甲府で平凡な日常生活を送っていた。インターネットが発達していない時代にあって、彼らはお互いに会話を楽しむことで友情を深めた。クロスノフのユーモア溢れる人格は真面目なイタリア人であるマルティニと調和した。
「僕たちは同じホテルで共に食事をした。僕は英語が上手くなかったので彼が良い先生になってくれた」
「テレビもインターネットもなく、近くに小さなファミリーレストランがあるくらいで、とても退屈だった。もちろんトレーニングもするけど、それも1時間だけ。1日が本当に長かった……」
ふたりは全日本F3000だけでなく、グループA(全日本ツーリングカー選手権)にも参戦。1991年にはサンテックがトム・ウォーキンショー・レーシング(TWR)に多額の投資をしたことから、ジャガーXJR11を持ち込んでJSPC(全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権)にも参戦した。
マルティニとクロスノフは1991年のル・マン24時間に出場した
Photo by: Motorsport Images
「すごい投資をしたものだ。僕たちにとってはスポーツカーでの経験が積めて良かった。マシンには大きなポテンシャルがあったけど、レギュレーションの関係で燃費を稼ぐ必要があったから、トヨタや日産を相手に戦うことは大変だった」
またサンテックはTWRとジョイントして1991年のル・マン24時間レースに出場する契約も取り付けており、クロスノフ、マルティニ、デビッド・レスリーの3人でジャガーXJR12をドライブした。しかしトラブル続きで結果は伴わなかった。
「僕たちはかなり速かったけど、レースではトラブルが多く上手くいかなかった」とマルティニは語る。
「序盤に1時間ロスしたのでレースは台無しになった。でもその後は全開で走れたので基本的には楽しめた」
この年から彼らふたりは東京に移り住み、多くのドライバーが滞在する有名ホテルでの生活をスタートさせた。ただふたりはアーバインのようなパーティ好きではなく、特にクロスノフは酒を好まず、暇さえあればタミヤのプラモデルを作っていた。「CNNも見られたし、それまでよりはるかに楽しかったよ!」とマルティニは振り返る。
サンテックの資金が尽きたことで、1992年からふたりは別々のチームで戦うことになる。クロスノフはスピードスターに復帰してF3000を戦う傍ら、ジャガーでの活躍が評価されたことでJSPCでの日産のワークス契約を勝ち取り、陣営でただひとりの外国人ドライバーとしてグループCカーを走らせた。
また同年のデイトナ24時間には、ノバ・エンジニアリングからマルティニ、クロスノフ、フォルカー・バイドラーのトリオで参戦。日産R91CKを走らせた。マルティニ曰く、クロスノフは何の実績もない状態から日本に渡り、ワークスドライバーとなって母国に凱旋できたことをとても喜んでいたという。
1992年の全日本F3000では、TEAM NOVAのマルティニがチャンピオンを獲得。一方でクロスノフは競争力のあるチームに所属できなかったこともあり、フォーミュラでは結果を残せないシーズンが続いていくことになる。
1992年、メイテック DL スピードスター号を走らせるクロスノフ
Photo by: Motorsport Images
「彼のマシンには競争力がなかった」とマルティニは言う。
「でも依然として評価は高く、チームは彼を求めていた。つまり(不振は)彼のせいでないことが理解されていたんだ」
1994年、F1サンマリノGPでラッツェンバーガーが事故死。彼と共にトヨタ94C-Vを駆りル・マン24時間を戦うはずだったクロスノフとマルティニは悲しみに暮れた。代役にはアーバインが起用されたが、マシンにはラッツェンバーガーの名前が残され、チーム・サードのガレージには彼のヘルメットが置かれた。
彼ら3人がドライブする1号車は順調にレースをリードしていたが、残り1時間というところでギヤリンケージにトラブルが発生。クロスノフは何とか3速ギヤでピットに飛び込んだが、修理に時間を要したため、総合2位に終わってしまった。
「もう27年も前のことだ」とマルティニは言う。
「でもあの時のことを思い出すと今でも頭にくる。勝てたレースだったから、本当に悔しかった」
1994年のル・マンでは終盤でギヤトラブル発生。亡きラッツェンバーガーに勝利を届けることはできなかった
Photo by: Motorsport Images
「あの時ジェフが乗っていなかったら僕たちはリタイアしていただろう。僕が乗っていても、エディが乗っていても、リタイアだったはずだ。僕とエディは修復の仕方を知らなかったからだ。あの時不幸中の幸いだったのは、ジェフが乗っていたことだ」
「彼はメカニカルな分野に強かった。彼は(ホームストレート上でストップした)マシンから出てきて、後ろの方でしゃがんで何かをしていた。彼は賢くて、クラッチを使って再スタートできるよう3速に入れておいてくれた」
「僕たちはローランドの名前をマシンに刻んでいた。あの時優勝できれば完璧だったけど、そうはいかなかった」
アーバイン、フレンツェン、サロらが続々とF1行きを果たして活躍する中、クロスノフとマルティニは共に日本に留まっていた。1995年、クロスノフはサロが抜けたことで空いたTEAM 5ZIGENのシートに収まりF3000を戦ったが、結果は振るわず。ル・マン24時間にもサードからクロスノフ、マルティニ、マルコ・アピチェラ組で臨んだが、スープラで優勝戦線に絡むことはできなかった。
1995年のル・マンでは苦戦。翌年からクロスノフは戦いの舞台をアメリカに
Photo by: Motorsport Images
この頃から、クロスノフは環境を変えることを考え始めていたという。マルティニは次のように語る。
「彼はF1よりインディカーの方がチャンスがあると分かっていた。もちろん彼はF1に行きたがっていたけど、それは誰もが思っていることだし、簡単じゃない」
クロスノフは当時のアメリカオープンホイール最高峰、CARTへの参戦に向け、ネットワークづくりに励んだ。最終的にはホームステッドでチップ・ガナッシのテストに参加。そのテストにはアレッサンドロ・ザナルディも参加しており、最終的には彼がレギュラーシートを射止めることになるが、マルティニ曰くチップ・ガナッシはクロスノフも高く評価していたという。
「チップ・ガナッシはジェフのことを褒めていた。そして1996年にジェフがアルシエロ・ウェルズのシートを得るための手助けもしてくれた」
「ジェフはとても喜んでいた。小さなチームだったが、とにかくどこかに入らないと意味がない」
「正直、羨ましいと思った時もある。僕だって『自分が一番速い、トップドライバーだ』と常に思っていたからだ。もちろん彼がシートを獲得できて良かったけど、契約できなかった僕は悲しかった」
「1995年の終わりには、今後の人生をどうするか決めないといけなかった。僕も日本で一生暮らしたいとは思っていなかったので、ヨーロッパかアメリカのどちらかに行きたいと思っていた」
クロスノフは日本に別れを告げ、1996年はアルシエロ・ウェルズからCARTに参戦することとなった。同年から供給を始めたばかりのトヨタエンジンはライバルに後れを取っており、厳しい戦いが続いたが、クロスノフは持ち前の学習能力で着実に進歩を続け、友人も多く作った。
クロスノフはチップ・ガナッシのシートこそ獲得できなかったが、アルシエロ・ウェルズでアメリカでのキャリアをスタート
Photo by: Motorsport Images
そんな中でもクロスノフとマルティニは数日おきに連絡を取っており、1997年にはマルティニがアルシエロ・ウェルズの2台目に乗るという計画もあったようだ。またジェフと一緒に走れるかもしれない。近々アメリカに飛んで、ジェフのチームを見学しよう……マルティニはそう考えながら、いつものように自宅のテレビから友人の活躍を見届けていた。シリーズ第11戦、舞台はトロントだった。
事故が起きたのは、間もなくレースがチェッカーを迎えようという頃だった。
「完全に大破したマシンが見えたことを覚えている」
「そのドライバーが誰なのかは確認できなかった。破片やほこりが舞っていたからだ。僕もそれが誰なのは分からなかったが、マシンを見ると、ドライバーが死んでいることが分かった。誰もあのアクシデントでドライバーが生きているとは思わなかっただろう」
「その後リプレイが流れた。それがジェフだと分かった瞬間、僕はリモコンをテレビに投げつけた。テレビは壊れ、僕は叫んだ」
「その時友人と庭にいた妻は、僕の叫び声を聞いて何が起こったか分からなかったと思う。僕は自分の部屋にこもってドアの鍵を閉めた。誰とも話をしたくなかった。2、3日は泣いていた。耐えられなかったんだ」
この事故ではクロスノフに加え、巻き込まれたマーシャルも1名命を落とした。そして数日後、マルティニはクロスノフの妻トレーシーと連絡を取った。
「トレーシーに電話をしたら彼女の母親が出て『トレーシーはあなたに葬儀に出て欲しいと言っている。彼女はあなたを待っている』と言われた。そして僕はロサンゼルスで行なわれた葬儀に出席した。何とも形容し難い雰囲気だった」
その後マルティニは1997年にフォーミュラ・ニッポン(現スーパーフォーミュラ)にスポット参戦したり、GTレースにも数戦出場したが、心ここにあらずの状態だった。
「あの日、全てが終わってしまったんだ」
マルティニはクロスノフを「僕が出会った中で最も素晴らしい人間だった」と語る
Photo by: Adam Cooper
「僕のレースキャリアは1996年7月14日に終わった。僕の中で何かが壊れたんだ。あの後レースは少し走ったけど、前のようにはいかなかった。続けたくなかったし、もう止めたいと思った」
「彼は僕が出会った中で最も素晴らしい人間だったと思う。良い人間が死んでそうでない人間が生き残るという現実を受け入れるのは難しい。でもそれが人生だ。受け入れていくしかない」
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