F1からインディカーに転向……成功を収めた10人のドライバー

昨年までF1を戦っていたロマン・グロージャンが、2021年からインディカー・シリーズに挑戦する。今回は、F1からインディカーへと転向し成功を収めたドライバーたちを紹介していこう。

F1からインディカーに転向……成功を収めた10人のドライバー

 2020年限りでハースF1チームのシートを失ったロマン・グロージャンは、2021年からインディカー・シリーズに転向し、デイル・コイン・レーシングのマシンをドライブすることとなった。グロージャンのように、元F1ドライバーが活躍の場をインディカーに求めるケースは少なくない。

 今回は、F1からアメリカのオープンホイールレースに転向して成功を収めたドライバーをmotorsport.comが10名ピックアップし、紹介する。このリストの対象となるのはあくまで“F1から転向した”ドライバー。つまり、アメリカで成功を収めた後F1にやってきたマリオ・アンドレッティ、マイケル・アンドレッティ親子やジャック・ビルヌーブなどは対象外となる。

 また1983年にティレルから1年だけF1に参戦した後、1985年にインディ500を制覇、1988年に当時のアメリカオープンホイールレース最高峰『CART』でチャンピオンに輝いたダニー・サリバンは、F1デビュー前にCART参戦経験があるためこちらも対象外。同様の理由から、アメリカ→F1→アメリカというキャリアを辿って成功を収めたファン・パブロ・モントーヤやセバスチャン・ブルデーも今回のリストには入っていない。

 なお、この選考にあたって考慮されるのは「インディカーに転向していかに成功を収めたか」であり、F1時代の実績は考慮されない。そのため、インディ500で印象的なデビューを飾ったフェルナンド・アロンソや、1966年のインディ500を制したグラハム・ヒルの名前もここにはない。

 グロージャンはリスクの高さを理由に、インディ500をはじめとするオーバルコースでのレースに出場しないことを明言しているが、今回のリストの中にはインディ500に一度も出走したことがないドライバーもいる。そこには、1996年にCARTのカレンダーからインディ500が外れ、インディアナ・モーター・スピードウェイ側が新たな選手権『IRL』(現在のインディカー・シリーズ)を発足させたという特異な状況が背景にある。

 なお、本項でいう“インディカー”は、IRLの流れを汲むインディカー・シリーズはもちろんのこと、CART、チャンプカー・ワールドシリーズ、USACチャンピオンシップ・カー・シリーズなどのアメリカンオープンホイールのトップカテゴリー全てを含めることとする。

アレッサンドロ・ザナルディ

Alex Zanardi, Chip Ganassi Racing Reynard Honda

Alex Zanardi, Chip Ganassi Racing Reynard Honda

Photo by: Sutton Images

F1出走回数:41
F1ベストリザルト:6位
インディカー(CART)勝利数:15
インディ500ベストリザルト:出走なし
インディカー(CART)年間ランキング最上位:チャンピオン(1997年、1998年)

 1991年の国際F3000でランキング2位となり、将来のF1チャンピオン候補と目されたザナルディのF1キャリアは、不運と不遇の連続であった。1991年の終盤にジョーダンからF1デビューを果たしたザナルディは、翌1992年にベネトンのテストドライバーとなったが、十分なテスト機会が与えられたとは言えず、同年にクリスチャン・フィッティパルディの代役としてミナルディから出走した際は準備不足が否めない状況で、3戦中2度予選落ちを喫した。

 1993年はロータスのレギュラーシートを獲得したが、スパではアクティブサスペンションの故障が原因で大クラッシュ。残るレースを欠場する羽目となった。翌1994年もロータスをドライブしたものの、チームの財政状況は最悪で、満足な成績を残すことはできなかった。

 しかしF3000時代の走りを評価していたレイナードのエージェント、リック・ゴーンがザナルディをチップ・ガナッシに推薦したことで、彼のキャリアは好転する。ブライアン・ハータの後任として加入したザナルディは、その豪快なオーバーテイクや勝利のドーナツターンでたちまち人気者となっていく。

 1996年、ザナルディはチップ・ガナッシ(チーム)、レイナード(シャシー)、ホンダ(エンジン)、ファイアストン(タイヤ)という理想的なパッケージを手にし、このチャンスをものにしていく。シーズン前半はなかなか勝てないレースが続いたが、第9戦ポートランドで初優勝を果たすと以降8レースで6度の表彰台を獲得。終盤4戦全てでポールポジションを獲得し、最終戦ラグナセカの最終ラップでは、コークスクリューをショートカットしながらハータの前に出るという伝説的なオーバーテイクを披露し優勝した。この年は結果的にルーキー最上位のランキング3位となったが、終盤戦に見せた速さが翌年からのシリーズ2連覇に繋がっていく。

 とはいえ1997年も、第10戦クリーブランドを迎えた時点でランキング5番手に留まっていた。しかしペナルティで22番手に後退しながらも大逆転優勝を果たしたこのクリーブランドから毎戦のように表彰台を獲得するようになり、初のタイトルを手中に収めた。1998年に関しては1度もポールポジションを獲得しなかったにも関わらず、彼のレース巧者ぶりは圧巻で、ラップダウンから逆転優勝を飾ったロングビーチを皮切りに7勝をマーク。シーズンを制圧した。

 満を持してウイリアムズからF1復帰を果たした1999年が散々なシーズンとなってしまったザナルディは、2001年から再びCARTにカムバックした。しかしラウジッツリンクでの事故で両足切断の大怪我を負い、シングルシーターでのキャリアには終止符が打たれてしまった。なおザナルディは、インディ500がCARTのカレンダーから外れた1996年からアメリカでのキャリアをスタートさせたため、インディアナポリスのブリックヤードの上を駆け抜けることは一度もなかった。

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テオ・ファビ

 

Photo by: Motorsport Images

F1出走回数:64
F1ベストリザルト:3位
インディカー(CART)勝利数:5
インディ500ベストリザルト:7位(1994年)
インディカー(CART)年間ランキング最上位:2位(1983年)

 F1デビューがインディカーでのレースデビューよりも先のため、本企画に名を連ねているファビだが、彼は基本的にヨーロッパとアメリカを行ったり来たりするような“放浪”のレースキャリアを歩んだ。ただ皮肉なことに、アメリカでのルーキーシーズンが彼のキャリアハイとなってしまった。

 1982年にF1デビューを果たしたファビだったが、所属チームのトールマンは戦闘力が低く、予選落ちとリタイアを繰り返すシーズンに。1981年にアメリカのCan-Amに参戦経験があったファビは再びアメリカに戻り、1983年からCARTへの参戦をスタートした。すると彼は大活躍。フォーサイス・レーシングのマシンを駆り、13戦中インディ500を含む6戦でポールポジションを獲得すると、優勝も4回記録した。しかしアル・アンサーにはあと5ポイント届かずランキング2位。ルーキーチャンピオンとはならなかった。

 ファビにはアメリカでの明るい未来が待ち構えているかに見えたが、彼のパフォーマンスに注目した前年のF1チャンピオンチーム、ブラバムからオファーがあり、1984年シーズンはF1とCARTの掛け持ち参戦に挑戦。ただシーズン後半はF1に専念することとなった。

 1985年からの3シーズン、ファビはトールマンとベネトンで計3度のポールポジションを獲得して速さがあることを証明していたが、それがレースでの勝利に繋がることはなく、1988年からは再びアメリカに拠点を移した。マーチと手を組んだポルシェからの参戦となったファビは、1989年に復帰後初優勝を挙げてランキング4位となり、1990年にはタイトル候補の筆頭に挙げられた。しかしポルシェの革新的なカーボンシャシーの導入がオーナー会議によって阻止されたことも災いし、同年は3位1回のみと低迷。ポルシェもこの年限りでCARTから撤退した。

 ファビは1991年に世界スポーツカー選手権を制した後にまたアメリカへと戻ってきたが、最高位は3位と振るわず、悲願のCART王者にはなれないままキャリアを終えた。

ジャスティン・ウィルソン

 

Photo by: Adriano Manocchia

F1出走回数:16
F1ベストリザルト:8位
インディカー(チャンプカー)勝利数:7
インディ500ベストリザルト:5位(2013年)
インディカー(チャンプカー)年間ランキング最上位:2位(2006年、2007年)

 2015年にポコノでの事故でこの世を去ったジャスティン・ウィルソン。彼もまたアメリカで活躍したドライバーのひとりだ。

 ウィルソンのF1キャリアは短命であった。2003年にミナルディとジャガーから参戦し、入賞は1回のみ。2001年の国際F3000王者としての実力を存分に発揮したとは言えない成績であった。そして2004年からチャンプカーに転向すると、クリーブランド戦では決勝こそアレックス・タグリアーニと接触して0周リタイアとなったものの、2番グリッドを獲得して速さを見せた。

 2005年にRuSPORTに移籍してからは一躍トップコンテンダーに。ポールポジションからスタートしたポートランドではエンジントラブルでリタイアとなったが、その後トロントで初優勝を挙げ、ランキング3位となった。2006年、2007年もランキング2位となるなど活躍したが、当時のチャンプカーはニューマン/ハースのブルデーが席巻しており、いずれの年も彼を打ち負かすことはできなかった。

 F1に転向したブルデーの後任として翌2008年からニューマン/ハース入りを果たしたウィルソンだったが、この年からチャンプカーがIRLに統合されることとなり、チャンプカー組は適応を強いられた。結局ウィルソンは1勝を挙げたものランキングは11位止まり。チームの共同創設者であるポール・ニューマン亡き後スポンサーの問題に直面したウィルソンは、2009年にデイル・コイン・レーシングに移籍し、チームに初の優勝をもたらした。

 同僚への敬意を常に忘れないウィルソンは関係者からの人気も高かった。その後もインディカーでのキャリアは続き、2015年はアンドレッティ・オートスポーツからスポット参戦。翌年のフルタイムシートを獲得したかに思われたが、悲しいことに彼が才能に見合ったマシンでフルシーズン戦う姿を見ることはできなかった。

ダン・ガーニー

 

Photo by: Indianapolis Motor Speedway

F1出走回数:86
F1ベストリザルト:優勝(4回)
インディカー(USAC)勝利数:7
インディ500ベストリザルト:2位(1968年、1969年)
インディカー(USAC)年間ランキング最上位:4位(1969年)

 エンツォ・フェラーリから指名され、1959年にフェラーリからF1デビューを果たしたガーニーは、1962年にインディ500初出場を果たす頃には既にトップドライバーとしての名声を築いていた。彼はジム・クラークのようにインディ500を制覇することはできなかったが、当時のアメリカオープンホイール最高峰USACチャンピオンシップ・カー・シリーズ(USAC)で7勝を挙げたことでその力を示した。

 1958年にUSACのスポーツカー選手権で初代チャンピオンに輝き、1963年〜1968年にかけてNASCARのリバーサイド戦で5勝している“オールラウンダー”のガーニーにとって、オーバルコースという環境は他のF1ドライバーほど異質に感じなかったのかもしれない。マリオ・アンドレッティはガーニーを次のように評している。

「ダンは私が本当に高く評価している男だ。なぜなら彼はF1、スポーツカー、ストックカー、インディカーなどあらゆるレースをしていた。彼の存在には非常に刺激を受けた」

 ガーニーはUSACにフル参戦したことが一度もないものの、多くのレースで好成績を収めている。特筆すべきは1969年。彼は年間24レース開催されたUSACの内、約3分の1となる9レースしか出場しなかったが、出場したほとんどのレースで表彰台を獲得した結果、年間ランキングでは4位となったのだ。F1と掛け持ちで参戦した1967年と1968年にも計4勝を挙げている上、これらの成績を自らが立ち上げたチーム『オール・アメリカン・レーサーズ』のマシン、イーグルで達成したというのだから恐れ入る。

 ガーニーのインディ500ベストリザルトも、そのイーグルによって達成された。前述の通り、ガーニーのインディ500デビューは1962年。1963年にはコーリン・チャップマンを説得し、ロータスからの参戦を実現させた。ロータスで3度インディ500に挑戦したガーニーだったが、完走できたのは7位となった1963年のみで、1964年、1965年はいずれもフィニッシュできなかった。

 1966年から自社製のイーグルで参戦開始。1968年にはボビー・アンサー(こちらもイーグル)に次ぐ2位を獲得し、1969年にもマリオ・アンドレッティに次いで2位だった。さらに1970年にも3位を獲得したが、優勝は達成されずじまい。そういった理由もあってか、ガーニーはF1時代の戦績も含め過小評価される傾向にある。

アレクサンダー・ロッシ

 

Photo by: Phillip Abbott / Motorsport Images

F1出走回数:5
F1ベストリザルト:12位
インディカー勝利数:7
インディ500ベストリザルト:優勝(2016年)
インディカー年間ランキング最上位:2位(2018年)

 2016年にロッシがインディカーにやってきた時、彼はアメリカでレースを戦いながら、F1でどんなチャンスが開かれるか様子を見ると語っていた。しかしルーキーイヤーのインディ500で衝撃的な勝利を収めた後、F1のトップチームから声がかからなかったことで、彼は自らの将来がインディカーにあることを確信したのだ。

 ロッシはF1で自らの才能を証明する機会にあまり恵まれなかったと言える。2015年途中にロベルト・メリに代わってマノーからF1デビューを果たしたが、チームの戦闘力は低かった上、潤沢な資金を持つリオ・ハリアントが翌年のシートを確保したことでロッシは2015年限りでチームを追われる形となった。

 マノーからリザーブドライバーとしてのオファーも受けていたロッシだったが、2016年はアンドレッティ・オートスポーツに加入し、インディカーへの挑戦をスタート。そこから時間をかけて成長していくことになる。確かに彼は1年目でいきなりインディ500を制したが、そこには大胆な燃費走行をするギャンブルが当たったという側面があるのも事実。その他のレースではソノマの5位が最高位で、ランキング11位に終わった。

 しかし翌2017年、ロッシは第2戦ロングビーチでマシントラブルに見舞われるまで優勝争いを展開すると、後半戦にはトロントで2位、ワトキンスグレンで優勝を記録するなど、しばしば好成績を残しランキング7位となった。そして翌年以降はアンドレッティの実質的なエースへと成長する。

 2018年は3勝を挙げてランキング2位、2019年は2勝を挙げてランキング3位と、タイトルまであと一歩のところに迫った。2020年はアンドレッティが得意とするストリートコースでのレースがコロナ禍で大幅減したこともあり、ランキング9位に留まったが、終盤5戦で4度表彰台に上ってみせた。またインディ500でも2勝目こそ達成できていないがしばしば見せ場を作っており、2019年はシモン・パジェノー、佐藤琢磨らと激しい争いを繰り広げ2位。2020年はペナルティを受け、クラッシュでリタイアするまでは優勝争いを展開した。

 昨年はロッシの同僚コルトン・ハータが躍進したため、今後チーム内バトルはより一層激しくなるものと思われる。しかしロッシはチャンピオンになるためのあらゆる素質を持っていると言えるだろう。

ジム・クラーク

 

Photo by: Dave Friedman / Motorsport Images

F1出走回数:72
F1ベストリザルト:優勝(25回)
インディカー(USAC)勝利数:2
インディ500ベストリザルト:優勝(1965年)
インディカー(USAC)年間ランキング最上位:6位(1963年)

 ジム・クラークが1968年のF2レース中に事故死しなければどうなっていただろうか? この疑問に関してはこれまでにも幾度となく議論されてきた。コーリン・チャップマン率いるロータスから独立したがっていたクラークが3度目のF1タイトルを獲得していたとは断言できないが、インディ500では勝利を積み重ねていた可能性が高い。

 クラークは1963年〜1967年にかけて5度インディ500に出走しているが、優勝2回、2位1回を記録している。ラップリードを記録できなかったのも1度だけだ。

 1963年の初挑戦時はロータス29を駆り、パーネリ・ジョーンズに次ぐ2位。チャップマンはオイル漏れの症状が出ていたジョーンズに黒旗を出して失格にするよう抗議したが、それは認められなかった。翌1964年はポールポジションを獲得したが、タイヤ摩耗から来るバイブレーションでサスペンションを壊していまいリタイアとなった。

 F1モナコGPを欠場して臨んだ1965年は圧倒的な速さで優勝。クラークにとってインディ500初制覇となり、200周中190周をリードしてみせた。なお、このクラークのラップリード率(95%)は歴代4位の記録だ。

 1966年のインディ500でも66周にわたってレースをリードしたが、2度のスピンが響き、グラハム・ヒルに敗れて2位となった。クラークは2度スピンしたにも関わらずウォールにヒットすることなくレースに復帰したが、これが記録上の混乱を生むこととなった。当時は手動で計測をしていた時代。実はスコアラーが周回数を間違えており、実際の優勝はクラークだったのではないか、という説は今でも議論の対象となることがある。

 翌1967年は見せ場を作れず、エンジントラブルにより35周でリタイア。これが結果的にクラークにとって最後のインディ500となった。

 クラークは決してインディアナポリスのスペシャリストだったわけではない。彼は何度かその他のレースにも出走したが、その戦績を見る限り、USACにレギュラー参戦していればタイトルを争った可能性もあると言える。1963年はインディ500以外にもミルウォーキーとトレントンでのレースにエントリーし、その両方でポールポジションを獲得。前者では優勝し、後者でもトラブルが発生するまで首位を走った。

 クラークの活躍は、多くのヨーロッパ出身ドライバーにインディ500挑戦への道を開いた。

佐藤琢磨

Takuma Sato, Rahal Letterman Lanigan Racing Honda Winner Portraits

Takuma Sato, Rahal Letterman Lanigan Racing Honda Winner Portraits

Photo by: Barry Cantrell / Motorsport Images

F1出走回数:90
F1ベストリザルト:3位
インディカー勝利数:6
インディ500ベストリザルト:優勝(2017年、2020年)
インディカー年間ランキング最上位:7位(2020年)

 佐藤の10シーズン以上に渡るインディカーでのキャリアは非常に浮き沈みが激しかったが、昨年のインディ500でスコット・ディクソンとの一騎討ちを制して優勝したことにより、彼はシリーズ最高のドライバーを倒す力を持っているということが改めて証明された。

 スーパーアグリの撤退により2008年のシーズン途中でF1シートを失った佐藤は、ホンダとのコネクションを活かして2010年からインディカーに転向。参戦チームはKVレーシング・テクノロジーで、2年目となる2011年には雨のサンパウロで一時トップを快走して見せた(戦略ミスもあり最終的に8位でフィニッシュ)。

 2012年にはレイホール・レターマン・ラニガン・レーシング(RLLR)に移籍すると、インディ500で優勝争いを展開。ファイナルラップで首位のダリオ・フランキッティに果敢に仕掛けたがスピンし、クラッシュに終わった。この敗北は人々の印象に残ったが、佐藤は後にRLLRに復帰した際、リベンジを果たすこととなる。

 A.J.フォイト・エンタープライズへと移った2013年は、ロングビーチでインディカー初優勝を挙げた。これは日本人ドライバーとして初の快挙だった。ただその後のシーズンでは低迷。佐藤がA.J.フォイトでの4年間で獲得した表彰台は、このロングビーチでの優勝以外には2回のみであった。

 しかし、2017年にアンドレッティ・オートスポーツに移籍したことが佐藤にとっての転機となる。この年のインディ500ではエリオ・カストロネベスを抑え優勝。その他のレースでも2度ポールポジションを獲得するなど速さを見せ、初めて年間ランキングでトップ10に入った。

 2018年のRLLR復帰以降は4勝を挙げており、2020年には史上20人目となるインディ500複数回制覇、自己最高のランキング7位を獲得した。彼はタイトルを獲得してはいないものの、インディ500優勝2回という実績は彼をインディカーでのエリートドライバーと呼ぶのに十分すぎるものだろう。

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ボビー・レイホール

 

Photo by: Dan R. Boyd

F1出走回数:2
F1ベストリザルト:12位
インディカー(CART)勝利数:24
インディ500ベストリザルト:優勝(1986年)
インディカー(CART)年間ランキング最上位:チャンピオン(1986年、1987年、1992年)

 CARTで3度の王者に輝き、インディ500も制覇しただけでなく、引退後はチームオーナーとしても成功を収めるなど、アメリカのレース界では伝説的存在となっているレイホール。そんな彼がかつてF1に2レースだけ出走したことはあまり知られていない。

 1977年のフォーミュラ・アトランティックでジル・ビルヌーブに次いで2位となったレイホールは、翌1978年にヨーロッパF3で活躍した後、同年に北米で行なわれたF1の終盤2レースにウルフから出走した。しかし、1979年に加入したジェームス・ハントが1台体制を希望したため、レイホールのフル参戦は叶わなかった。

 その後、モチベーションを失って引退したハントの後任にも選ばれず、レイホールは母国アメリカに帰ることに。しばらくはスポーツカーレースに参戦していたが、モーテル経営者のジム・トゥルーマンがインディカーチーム設立にあたりレイホールにアプローチしたことで、1982年からのCART参戦が実現した。

 オーバルでの経験が乏しかったにも関わらず、レイホールとトゥルースポーツのルーキーチームはいきなりランキング2位に入る活躍を見せる。そこからレイホールは45歳となる1998年まで現役を続け、毎年最低1回は表彰台を獲得するなど、常に第一線で活躍してきた。

 レイホールは途中、ペンスキーなどから高額のオファーを受けることもあったが、長期に渡ってトゥルースポーツに忠誠を誓った。1986年にはエイドリアン・ニューウェイが手がけたマーチでチャンピオンを獲得。インディ500でも優勝した。翌1987年はマシンをマーチからローラにスイッチしながらも2年連続で年間王者となったが、1988年にエンジンをコスワースからジャッドに変更したことが仇となり、選手権3連覇とはならなかった。

 1989年から3年間所属したクラコでは戴冠できなかったが、レイホールの戦績で何より特筆すべきなのは、1992年に自らのチーム『レイホール/ホーガンレーシング』でチャンピオンに輝いたという点だ。レイホールとパートナーのカール・ホーガンはパトリック・レーシングの資産を購入し、チームを創設。ニューマン/ハースのマイケル・アンドレッティを抑えて3度目のタイトルを手にした。

 しかしその後のレイホールのキャリアは順風満帆とはいかなかった。ノスタルジアに駆られ、1993年に古巣トゥルースポーツの資産(シャシー含む)を引き継いだことが災いのもととなった。引き継いだシャシーは1991年マシンの焼き直しに過ぎず、インディ500では予選落ち。プロジェクトは即時終了となった。

 1994年にはホンダをエンジンサプライヤーとして迎えたがこれも失敗に終わり、インディ500ではイルモアエンジンをレンタルするという有様に。結局ホンダとの関係も1年で終了した。その後1995年にランキング3位となったが、その後タイトル戦線に絡むことはなく、1998年に引退した。ただ、レイホールのチームは今も『レイホール・レターマン・ラニガン・レーシング』として、インディカーの第一線で戦っている。

 今回のランキングには、長年F1で戦った後にアメリカでいきなり速さを見せるといった驚くべき適応力を持ったドライバーが多くいるのも確か。レイホールはその点ではインパクトに欠けるが、F1でも成功する才能があったのもまた確かだろう。

エマーソン・フィッティパルディ

 

Photo by: IndyCar Series

F1出走回数:144
F1ベストリザルト:優勝(14回)
インディカー(CART)勝利数:22
インディ500ベストリザルト:優勝(1989年、1993年)
インディカー(CART)年間ランキング最上位:チャンピオン(1989年)

 F1で2度のチャンピオンに輝いた後、1980年に33歳の若さでF1を引退したフィッティパルディにとって、レーサーとしての晩年を過ごしたアメリカでのキャリアは実り多き“小春日和”とでも言えようか。彼はヨーロッパとアメリカの最高峰カテゴリーで共にタイトルを手にした数少ないドライバーでもある。

 1984年にCARTへの参戦をスタートさせたフィッティパルディは、負傷欠場となったチップ・ガナッシの代役としてパトリック・レーシングに加入すると、そこから同チームで長期に渡って活躍していく。1989年のインディ500ではアル・アンサーJr.と最終盤まで白熱したバトルを展開。残り2周で両者は接触し、フィッティパルディが初優勝を飾った。同年はシーズン5勝を挙げ、年間王者にも輝いた。

 フィッティパルディは1990年にチーム・ペンスキーに移籍。1992年は4勝を挙げるなど、再びタイトルコンテンダーに返り咲いた。翌1993年も2度目のインディ500制覇を含む3勝を挙げたが、F1から転向してきたばかりのルーキー、ナイジェル・マンセルに敗れてランキング2位に終わった。マンセルが出走できなかったフェニックスで、パンクにより優勝を取りこぼしたことがタイトル争いに響く形となった。

 1994年のインディ500でも終盤までトップを快走していたが、チームメイトのアンサーJr.を周回遅れにしようとした際にウォールにクラッシュ。3度目のインディ500制覇は幻となった。結果的に年間タイトルもアンサーJr.に奪われる形となり、2年連続でランキング2位となった。

 翌1995年はナザレスで優勝し、フル参戦開始から11シーズン連続で勝利を記録するという快挙を成し遂げたが、全体としては苦戦したシーズンとなった。そしてペンスキーのサテライトチームから参戦した1996年、ミシガンでのレース中の事故で負傷し、キャリアを終えることとなった。

ナイジェル・マンセル

 

Photo by: Indianapolis Motor Speedway

F1出走回数:187
F1ベストリザルト:優勝(31回)
インディカー(CART)勝利数:5
インディ500ベストリザルト:3位(1993年)
インディカー(CART)年間ランキング最上位:チャンピオン(1993年)

 ナイジェル・マンセルが称賛されるべきなのは、アメリカのレースに転向して1年目でいきなりタイトルを獲得してみせたその順応力である。マンセルの活躍は、アメリカのオープンホイールレースが世界的な注目を集める契機にもなった。

 1992年にウイリアムズで悲願のF1タイトルを獲得したマンセルは、チームとの新たな契約に合意することができず、1993年はニューマン/ハースからのオファーを受け入れてCARTに参戦することとなった。オーバルコースの経験がない上に、カレンダーの中で唯一走ったことがあるロングビーチも、10年以上前に走ったきり……そんなマンセルは開幕戦サーファーズ・パラダイスから関係者を驚かせることになる。予選でポールポジションを獲得した彼は、そのままデビューウィンを飾ってしまったのだ。

 しかし初のオーバルとなった第2戦フェニックスではプラクティス中に大クラッシュし、レースを欠場。やはりオーバルへの適応は難しかったのか……当初はそういった見方もあったが、そんな心配は杞憂に終わった。マンセルは第4戦のインディ500で3位に入った後、それから行なわれたオーバルレース全て(ミルウォーキー、ミシガン、ニューハンプシャー、ナザレス)で優勝してみせたのだ。この年マンセルはオーバル、ストリート、ロードコースどれを取っても速く、それが年間タイトル獲得に繋がった。

 翌1994年のマンセルは、この年のペンスキー勢が圧倒的強さを誇っていたことを差し引いても、残念なシーズンとなった。結局マンセルはこの年1勝も挙げることができず、2位2回がベストリザルトとなった。

 ただマンセルはこの年もポールポジションを3度記録しており、速さは見せていた。ただエンジントラブルによりいずれも勝利を失うなど、運が味方しないことも多々あった。インディ500ではコーション中に他車に後方から乗り上げられたり、ニューハンプシャーではチームメイトのマリオ・アンドレッティを周回遅れにする際に絡んだり、といった場面もあった。マンセルは後半8レースで16ポイントしか獲得できず(前半は72ポイントを獲得)、尻すぼみな形でアメリカでのキャリアを終えてF1へと戻っていった。

 それでもマンセルが1年目の大活躍で批評家たちを黙らせたのも事実。彼は才能と勇気と知性のあるドライバーであれば、アメリカンレースに転向してもいきなり成功を収められることを証明したのだ。

 

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