MotoGPコラム:イタリアGPを訪れた、ホンダ苦闘の歴史知る生き証人
イタリアGP開催中、HRCのホスピタリティにグランプリでの勝利を目指して本田技研が苦闘を続けた歴史を知る、ある人物が訪れていた。
第6戦イタリアGP開催期間中の土曜に、ある高齢の人物がムジェロサーキットを訪問した。カルロ・ムレッリ氏、85歳。HRCのホスピタリティ内で椅子に腰掛け、穏やかな表情を泛かべてちょこんと佇むこの老人の傍らを、大勢の人々が通り過ぎてゆく。
昼間のホスピタリティは、今をときめくトップライダーたちの姿を近くでひと目見ようと、ゲストパスを入手してやってきたファンや若い親子連れでひしめきあっている。彼ら彼女たちは、この人物が、ホンダが4ストロークマシンNR500を開発していた1970年代後半に、唯一のヨーロッパ人メカニックとして日本で起居しながらプロジェクトに関わった生き証人であることを気づくふうもない。
おそらく今の若い日本のMotoGPファンでも、本田技研がグランプリ復帰を目指して挫折と挑戦を続けたこの当時のことは伝聞ですら知らない、という人々は多いかもしれない。ごく簡単にいえば、現在のHRCの前身であった組織の『NRブロック』部門に若いエンジニアたちが招集され、世界GPの勝利を目指して苦闘を続けていた頃だ。
やがてこのNRブロックから、入交昭一郎、福井威夫、金澤賢、尾熊洋一、堀池達等々、後年の本田技研やHRCのレース活動を支えた人々が輩出されていった。この時代の詳細については、富樫ヨーコ氏の著作『ホンダ二輪戦士たちの戦い』(電子書籍で入手可能)に詳しいので、当時のグランプリシーンに興味のある方には是非一読をお勧めしたい。
1934年生まれのムレッリ氏は14歳から働き始め、モンディアルやビアンキを経て二輪量産車レースに参加するようになった。やがて、4ストロークエンジンの職人として優れた手腕を買われてホンダのレース活動に参加、1979年から1983年までの5年間を日本で過ごしたという。1986年に第一線を退き、今回、数十年ぶりでレース現場を訪れた氏を、この時代をよく知る経験豊富な欧州のベテラン記者やトップクラスのジャーナリストごく数名が囲む場が設けられた。そして、その貴重な場の末席に連ねさせていただくという身の丈に余る機会をたまさか、得ることができた。
日本で過ごしていた当時の氏は、おもに英語でホンダの技術者たちとコミュニケーションを交わし、多少の日本語も使っていたそうだが、現在は高齢で補聴器も使用しており、話すのはもっぱらイタリア語のみ。三十数年ぶりに訪れたグランプリパドックのピットボックスを覗いた今回、当時との違いには大きな驚きを覚えたという。
「あの頃は、ライダーとメカニックは会話だけを頼りにバイクの状態を理解し、信頼関係を築きあっていた。ところが、今はボックスの中にコンピュータが置いてある。メカニックの仕事も、むかしはひとりでタイヤからピストンまで交換していたけれども、今では細かく担当者の役割が分かれているそうだね。4ストロークのグランプリマシンということは同じでも、やっている仕事は私たちの頃とは全然違う」
ムレッリ氏がNR500のメカニックとして担当していたライダーは、フレディ・スペンサーや片山敬済、マルコ・ルッキネリといった錚々たる顔ぶれだ。
「NS500(NR500の後継として開発された2ストローク3気筒マシン)の振動が消えずに悩まされていたときには、スギ(杉原眞一:片山敬済の担当メカニックで、後年にARAIヘルメットのサービス業務に転身。現在は引退)と一緒に仕事をして、クランクシャフトのベアリングに原因があることを突き止めたんだ。それ以降は、たしかボールベアリングからニードルベアリングに変更するようになったのではなかったかな」
また、今まで自分が担当したなかでもっとも印象に残っている選手を訊ねられた際には「カタヤマ」だと即答した。理由は「2ストロークでも4ストロークでも、評価能力が優れている」からだという。
多少耳は遠くなっていても、問われれば打てば響くように、当時の思い出話が次から次へと滑舌の良いイタリア語で返ってくる。瞬く間に時間は過ぎていった。今回の貴重な取材の最後に謝意を込めて、ムレッリ氏の頑健な分厚い掌を両手で包んで御礼を申し述べた。
「日本についてあなたも何かわからないことがあれば、いつでも訊きに来なさいよ」
穏やかなジョークを言って、グランプリの歴史を知る老爺は温厚に微笑んだ。
取材・執筆/西村章
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