【記録】小椋藍が日本人通算94回目の表彰台を獲得……14年間の”日本人ライダーによる表彰台獲得ゼロ”という空白期間に終止符
小椋藍(トラックハウス)が、MotoGPフランスGPで自身初の表彰台を獲得。日本人ライダーの表彰台空白期間に終止符を打った。
Ai Ogura, Trackhouse Racing
写真:: Gold and Goose / Motorsport Images
小椋藍(トラックハウス)が、2026年のMotoGP第5戦フランスGPで3位表彰台を獲得した。実に2012年バレンシアGPの中須賀克行(ヤマハ)以来14年ぶり……日本人ライダーによる最高峰クラスでの表彰台獲得記録の最も長い空白期間に、遂に終止符が打たれることになった。
現代の1シーズンあたりのレース数を考えれば、日本人ライダーが14年もの間一度も表彰台に上がれなかったというのは、考えられないことであったとも言える。
日本人ライダーがロードレース世界選手権(世界GP/現MotoGP)の最高峰クラスで初めて表彰台を獲得したのは、1973年フランスGPのことであった。金谷秀夫である。
金谷は1973年に世界GPの500ccクラスにヤマハのワークスライダーとして参戦を開始すると、その初戦でいきなり2位表彰台を獲得したのだった。
ホンダやヤマハなど、日本メーカーは1960年代から世界GPの世界で活躍してきた。それを考えれば、日本人ライダーの初表彰台は1973年になってからだというのは、むしろ遅すぎたかもしれない。
しかしその後は、世界GPの世界で活躍する日本人ライダーは着実に増え、最高峰クラスでの表彰台獲得回数も積み増されていった。
とはいえ日本人ライダーがコンスタントに好成績を収め始めたのは、1990年代に入ってからだった。伊藤真一、阿部典史、岡田忠之、青木兄弟といったライダーたちが、500ccクラスのトップライダーとして名を馳せた。
2000年代に入ると、宇川徹や加藤大治郎が大活躍。玉田誠もホンダのライダーとして活躍し、2004年の日本GPで優勝した。その日本GPの表彰台には、カワサキの中野真矢も3位に名を連ねていた(2位はヤマハのバレンティーノ・ロッシ)。
当時は、その後日本人ライダーの成績が落ち込み、その日本GPの後しばらく日本人ライダーが勝てない日々が続くなど、誰も予想していなかっただろう。ただそれでも、2005年に日本GPで玉田が2位、2006年のアッセンで中野が2位になった。そして2012年の雨の最終戦、ワイルドカード参戦の中須賀がヤマハのマシンで2位フィニッシュを果たし、日本人ライダーの表彰台獲得数は93になった。
ただその後、10年以上表彰台の上に日の丸がはためくことはなかった。
その要因のひとつが、近年は日本メーカーであっても、ヨーロッパ人のライダーを優先するようになったことだろう。バレンティーノ・ロッシも、マルク・マルケスも、当初は日本メーカーのバイクに乗っていたライダーたちである。
それを考えれば、今回ようやく表彰台に辿り着いた小椋が乗っていたバイクが欧州製(アプリリア)であるというのは、皮肉な話だ。
日本人ライダーがトップ3に返り咲くためにイタリア製のバイクが必要であったという事実は、大いに注目に値する。しかし小椋は来季、ヤマハに移籍するのがほぼ確実な状況であると言われている。2012年の中須賀以来、長く途絶えている日本人ライダーの日本製バイクによる表彰台は、来季見られるのであろうか?
ところで、アプリリアのバイクで表彰台に上がったライダーは、小椋が初めてというわけではない。1999年には原田哲也が、2度の3位入賞を果たしている。しかしこの2回の表彰台が、日本人ライダーの日本製以外のバイクでの表彰台獲得のすべてであった。
ちなみに原田は、今回小椋が表彰台を獲得したレースの、日本テレビの中継で解説を務めていたというのも、運命を感じさせる。
小椋の表彰台獲得により、日本人の最高峰クラスでの表彰台獲得回数は通算94回目ということになった。これは国別の7位となる記録である。ちなみに1位はイタリアの795回、以下スペイン、アメリカ、イギリス、オーストラリア、フランスと続いている。
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