【アプリリア|勝利への道】RSW 500&RS Cube……アプリリア、最高峰500cc/MotoGP初期の苦闘の歴史とは
MotoGP2022年シーズンに初優勝を成し遂げたアプリリア。最高峰クラスでは長く苦戦が続いていたアプリリアの、最高峰クラス初期からの”旅”を振り返り、現在の好調なシーンまでの繋がりを今一度見てみよう。
2022年MotoGP第3戦アルゼンチンGPでアレイシ・エスパルガロが挙げた優勝は、アプリリアの企業史に残る歴史的な出来事だった。テルマス・デ・リオ・オンドで繰り広げられたドラマチックなレースと勝利は、エスパルガロのキャラクターとも相まって日本のファンたちの気持ちも大きく揺り動かしたようだ。
そこで、アプリリアが最高峰クラスの初勝利を達成するまでの長い道のりを、数回に分けて振り返ってみたい。
アプリリアは、2ストローク時代に中小排気量クラスで何度もタイトル争いを繰り広げ、チャンピオンを獲得してきた。1990年代にそのマシン開発を牽引してきたのは、オランダ人の技術者ヤン・ウィットベンだ。だが、最高峰クラスではとにかく勝てないシーズンが続いた。
彼らが500ccクラスへの挑戦を開始したのは1994年。ロリス・レッジアーニが駆るRSW500は、その名称と裏腹に実際の排気量は410ccだったという。96年には430cc、96年に460ccと排気量を上げたものの、苦戦が続いた。なにしろ当時は、ミック・ドゥーハンが圧倒的な強さで連戦連勝を続けていた時代である。アプリリアはめぼしい結果をほとんど残せないレースが続いた。それでも1997年には、ドリアノ・ロンボニがダッチTTことオランダGPで、陣営初の最高峰クラス表彰台となる3位を獲得した。
98年は参戦を見合わせ、翌99年には、ファクトリーライダーの原田哲也が最高峰クラスへステップアップしたことに伴い、再度参戦。非力なマシンながら、原田はフランスGP(ポールリカール)とイギリスGP(ドニントンパーク)で3位を獲得した。これらのレースは、彼の天才性をよく示すリザルトとして当時を知るファンなら強く印象に残っているのではないだろうか。また、原田は陣営のホームGPであるイタリアGP(ムジェロ)で、アプリリアにとって最高峰クラス初のポールポジションを獲得している(レース結果は4位)。
原田哲也 1999
Photo by: Gold and Goose / Motorsport Images
2000年は原田とジェレミー・マクウィリアムスを擁し、2台体制で臨んだ。この年はマクウィリアムスがイタリアGPとイギリスGPで3位に入る健闘を見せたが、総じて前年以上に苦戦が目立つシーズンだった。ちなみに、この年の最終戦オーストラリアGP(フィリップアイランド)ではマクウィリアムスがポールポジションを獲得したが、これ以後、2022年のテルマス・デ・リオ・オンドでアレイシ・エスパルガロがポールポジションを獲得するまで、アプリリアは20年以上もトップグリッドの位置から遠ざかることになる。
この2000年限りでアプリリアはRSW500プロジェクトを終え、2ストローク500ccクラスから退いた。2001年は次世代4ストロークマシンの開発期間に充て、レギュレーションが一新された2002年に直列3気筒エンジンのRS Cube(RS3)で新時代のMotoGPクラスへ参戦した。
アプリリアのRS Cubeは、よく知られているようにコスワースがエンジンを供給し、ニューマチックバルブやライドバイワイヤーなど、先進的な機能を搭載した意欲的なモデルだった。しかし、その先進性とは裏腹にトラブルに悩まされることが多く、レースは苦戦が続いた。
このRS Cubeは、当時のチームが発行していたプレスリリースなどでは、公式表記として「RS3」と表記されていたように記憶している。3気筒にひっかけて、3乗を意味する英語のCubeを乗数で表記するスマートなセンスが新鮮な印象を与えた。
プレスリリースといえば、この時代の各チームは日々のレースレポートを紙にプリントアウトし、それをプレスオフィサーたちがメディアセンターで机の間を縫うように歩きながら、各国のジャーナリストに英語、イタリア語、スペイン語など言語別のリリースを配布していた。MotoGP初年度のアプリリアファクトリーライダーはレジス・ラコーニで、チームの担当者が「ラコーニ、オレ・オレ!」といつも陽気に歌いながらリリースを配っていた姿をいまもよく憶えている。
4ストローク2年目の2003年は、芳賀紀行とコーリン・エドワーズをライダーに迎えた。スーパーバイク世界選手権(SBK)のトップライダーふたりを擁した陣容は注目を集めたが、マシンのポテンシャルは前年度から大きな進歩がなく、レースはあいかわらず苦戦が続いた。シーズン半ばのドイツGPでは、セッション中にエドワーズのマシンからオイルが漏れてバイクとライダーが炎上するアクシデントもあった。エドワーズのレザースーツに引火して大きな炎が上がった瞬間はヒヤリとさせたが、幸いライダーにケガや火傷などはなかった。大事に至らなかったこともあって、当時この一件はエドワーズの出身地に引っかけてジョーク混じりで「テキサスバーベキュー」とも呼ばれた。
芳賀紀行 2003
Photo by: Gold and Goose / Motorsport Images
前年度SBKチャンピオンのエドワーズが年間ランキング13位、スーパースターの芳賀が14位、という結果を見れば、この時代のアプリリアの戦闘力は推して知るべしだろう。翌2004年は、ジェレミー・マクウィリアムスとBSBチャンピオンのシェーン・バーンという2台体制で臨んだが、前年以上に苦戦が続いた。めぼしい結果をほとんど残せず、ポジティブな話題もほとんどないシーズンだった。結果として、アプリリアはこの年限りで最高峰クラスからの撤退を余儀なくされる。長年、マシン開発を率いてきたヤン・ウィットベンも、この年の末で陣営を去った。
以後のアプリリアは、リソースを中小排気量クラスの125ccと250ccに集中し、ウィットベンのもとでエンジニアとして働いていたジジ・ダッリーニャが後継者としてテクニカルディレクターに就任、開発の陣頭指揮を執るようになった。(続く)
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