【MotoGPコラム特別編】スズキからホンダへ!? ジャーナリストも想定外、日本人・日本企業同士での“頭脳”移籍は何を意味するのか?

MotoGPの2023年シーズンに向けた各チームの発表会が近づいているタイミングで、ホンダ(HRC)が2022年限りで撤退したスズキから、河内健をテクニカルマネージャーと招聘したことが分かった。日本企業から日本企業へのスタッフの移籍はかなり珍しいことだが、“電撃移籍”が意味することについて、ジャーナリストの西村章が考察した。

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 スズキで長年にわたり技術監督を勤めてきた河内健氏は、同社のMotoGP撤退に伴い、2023年シーズンからHRC(ホンダ・レーシング)のテクニカルマネージャーとして活動する。この〈電撃移籍〉が意味することについて以下で少し考察をしてみたい。

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■想定外のスズキ→ホンダの移籍

 河内氏がどうやらHRCに加入するようだ、という話を最初に聞いたのは、たしか1月10日頃だったように思う。欧州のジャーナリスト仲間と話をしているときに、その話題になった。なるほど、と納得できたのは、昨年12月のシーズンレビュー取材の際に河内氏と交わした何気ないやりとりを思い出したからだ。

 録音機器を前にしたインタビューを終え、部屋から出て荷物をまとめているときに冗談交じりで

「スズキはもうMotoGPを撤退するんだから、たとえばKTMあたりに移籍すればどうですか?  河内さんくらいの実績があれば、高いギャラですぐに雇ってもらえるでしょ」

 そう言うと、河内氏は

「お、いいですね」と笑った。

 そして、「でも、ヨーロッパ企業はすぐに雇ってくれるかもしれないけど、すぐにクビになっちゃうじゃないですか」そう言ったあと、

「いい話があれば、また教えてください」

 と会話を締めた。

 別れ際に「来年もよろしく」と言われたときには、「ん? 来年??」と一瞬思ったものの、とくにその言葉を深読みすることもなく挨拶を返し、その場を後にした。

 とはいえ、このときの会話はあくまでもただの雑談にすぎない。

 年が変わると、河内氏移籍の「噂」は少しずつ欧州メディアの俎上にあがりはじめ、やがてレプソル・ホンダ・チームのチームマネージャー、アルベルト・プーチがこれを事実として認めたことがニュースとして報じられるに至った。

HRCへ移籍する河内健

HRCへ移籍する河内健

 考えてみれば、ジョアン・ミルとアレックス・リンスの元スズキライダーが2023年シーズンからはホンダライダーになるのだから、彼らを技術面からずっと支えてきた河内氏もまたホンダへ移って技術面のサポートを行うことは、たしかに理にかなった結論ではある。

 だが、スズキ株式会社の正社員である河内氏がライバルだった企業のレース活動に「転職」しようとは、正直なところ、この12月末段階では予測できなかった。というのも、日本の企業人が同業他社へ移籍することは、MotoGPの世界ではおよそあり得ない、という先入観が自分の中にあったからだ。


■“会社員”のレーススタッフ

 MotoGPの会場でホンダ、ヤマハ等のメーカーユニフォームを着ている日本人の多くは各企業の従業員で、彼らはレース現場へいわば「出張」する格好で業務に就いている。つまり、彼らはレースのプロフェッショナルであると同時に会社員でもある、というわけだ。そして、ざっくりとした一般論を言えば、彼らの大半にとって、所属する会社の従業員であるという事実は、レースのプロフェッショナルであることに優先する。つまり、彼らはレースを仕事にしていても、そのアイデンティティの軸足は「レースの専門家」よりも、「企業社員」のほうにある。だから、彼らがたとえどれほどレースを愛していようとも、人事異動でレース現場を離れなければならないときには、それを当然のこととして受け入れるのが一般的だ。これは、日本の企業がレースに参加する理由を述べるときに必ず「人材育成」を挙げることとも、平仄があっている。

 また、日本の労働市場は欧米より流動性が低いことにも留意をしておきたい。近年では伝統的な終身雇用モデルが必ずしも支配的ではなくなり、労働移動(転職)は以前より活発になっているのも事実だが、それはあくまでも国内労働市場の推移にすぎない。本田技研工業やヤマハ発動機、スズキ株式会社という大企業に所属する従業員たちが、今の会社を辞めて他社へ移ることは、現在彼らが享受している安定した雇用条件や待遇を手放すこととほぼ同義である以上、転職のインセンティブが低くなるのは当然だろう。新たな雇用主が現勤務先と同様の大企業ではなく、たとえばレーシングチームという小さな組織であった場合には、なおさら転職動機は低くなる。

 あるいは、たとえ同業他社からヘッドハンティングのような形で好条件の待遇を提示されたとしても、日本人の場合には「愛社精神」という独特の企業文化、従業員エンゲージメントの風土がある。かつてアプリリアで上級副社長まで務めたジジ・ダッリーニャ氏は2013年秋にドゥカティ・コルセへ移っているが、日本人の場合にはこのようなライバルメーカーへの大型移籍はおよそありえない。

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ジジ・ダッリーニャ

ジジ・ダッリーニャ

Photo by: Marc Fleury

 たとえば、かつてヤマハでMotoGPマシン設計の陣頭指揮を執ってバレンティーノ・ロッシ全盛時代を築き上げた古沢政生氏は、ロッシがドゥカティ移籍後に不振に苦しんでいたとき、マシン開発を率いていたフィリポ・プレツィオージ氏とロッシ自身からプロジェクト参画を勧誘されたことがあった。このとき、古沢氏はすでにヤマハ発動機を定年退職しており、ドゥカティのプロジェクト参画に何も障壁はなかったが、古沢氏は「かつて勤めた会社への仁義」という理由から三顧の礼で乞われたこの招聘を断っている。

 MotoGPに参戦する日本企業の開発プロジェクトリーダーや技術監督を勤めた人物がライバル陣営へ移籍した過去の例で思い浮かぶのは、初代『YZR-M1』プロジェクトリーダーを務めた依田一郎氏が、2005年シーズンにカワサキへ移ってチーム全体を率いる地位に就任した例がおそらく唯一のケースだろうか。

 ことほど左様に、MotoGPの世界で日本人のマネージャークラスの人物が他陣営へ移ることは、ほぼあり得ない事案だった。プロ野球やサッカーの監督がプロフェッショナルの優勝請負人としてチームを渡り歩くようなケースとは、その意味でまったく事情が異なる。

 ホンダから河内氏にアプローチしたのか、それとも河内氏がホンダの扉を叩いたのか。また、HRCのテクニカルマネージャーという新しい職掌は正社員としての処遇なのか、あるいは契約社員や個人事業主としての業務請負という形態なのか。というようなことがらも多少は気になるところだが、ひとまずそこは今のところ大きな問題ではない。

 上述したような日本企業とモータースポーツの独特な関係性を踏まえたうえで、河内氏の移籍を改めて考えてみると、今回の移籍は、氏が自身のアイデンティティを「企業人」ではなく、「レースのプロフェッショナル」として認識しているのだろう、ということが見て取れる。だからこそ、レース活動から撤退して復帰の見込みもない会社で、定年退職までレースと繋がりのない仕事を無難に勤め続けるよりも、安定した現在の処遇と引き換えにしてでも現場でレースに参加し続けることを選択したのだろう。つまり、河内氏は日本人グランプリ関係者らしからぬ、むしろ非常にヨーロッパ的な〈レース屋さん〉として移籍を決意した、と言ってもいい。レースを長年取材してきた立場として、河内氏のこの大きな決断には心からのエールを贈りたいと思う。

 スズキ社内の元レース関係者も、おそらく同様の心境なのではないか。スズキは社内のレースグループが解散し、MotoGPに復帰する見込みがない。つまり、ホンダとスズキはことレースに関する限り、もはやライバル関係にはない。だからこそ、河内氏とともに戦ってきた元スズキ二輪レースグループの関係者たちはこの移籍を自社への背信行為とは見なさないだろうし、それどころかむしろ、自分たちのレースに賭ける思いを継承して未来へ繋いでくれる壮挙として、万雷の拍手で送り出したのではないか、とも想像できる。

■内製純血主義のホンダに変化が起きている?

スズキレーシングカンパニーのスタッフ達

スズキレーシングカンパニーのスタッフ達

Photo by: Suzuki

 また、HRCの側から今回の河内氏移籍劇を眺めてみると、こちらもまた面白い事実が浮き彫りになってくるように思う。

 過去を振り返ると、レース現場で指揮を執ってきたホンダの日本人担当者は、当然のことだが、同社生え抜きの人々ばかりだった。朝霞研究所NRブロックを経てHRCが設立された1982年当時のことは伝聞でしか知らないが、初代HRC監督を務めた尾熊洋一氏の時代から現在の桒田哲宏氏に至るまで、ホンダのグランプリ活動を現場で統括してきた人々はずっと日本人のホンダ生え抜き従業員で、それは現在に至るまで連綿と変わらない。MotoGPマシンを技術面から現場で束ねていたのも、たとえば昨年までならばテクニカルマネージャーの横山健男氏で、その上にはHRC開発室室長の国分信一氏がいる。彼らももちろん、生え抜き社員だ。

 ホンダMotoGPマシンの中核を握る要職に社外から来た人材、しかも昨年まで真っ向勝負をしていたライバル企業の技術リーダーを据えるのは、人事としては極めて異例のことだ。おそらく、ホンダの世界グランプリ活動史上でも初めてのことだろう。

 そういえば、かつてホンダのファクトリーチーム監督を勤めたある人物が、監督在任中に冗談めかしてこんなことを言ったことがある。

「できれば、我々はすべて自分たちでやってしまいたいんですよ。タイヤだって、作っていいっていうのなら、ミシュランとかブリヂストンの製品を使うんじゃなくてウチのマシン特性にぴったり合ったホンダ製のタイヤをむしろ作りたいくらいなんだけど、現実にはそういうわけにもいかないから、タイヤ性能を引き出せるように一所懸命バイクを開発してセットアップしていくわけなんですけどね」

HRCは2023年からエキゾーストシステムに関しアクラポビッチと協力を結んだ

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 冗談めかして語る中にも、いかにもホンダらしい自社技術にこだわる姿勢が非常によく現れている言葉だ。そんな彼らが、2022年シーズン後半戦にはカレックス製スイングアームを採用した。従来のように自社製品に拘泥せず、勝つためならアウトソースも辞さない姿勢を鮮明にしたという点で、このカレックスの一件は非常に象徴的だともいえる。

 そして、そのアウトソースはオートバイの部品だけではなくHRCの人材登用面にも及んだことが、今回の河内氏のテクニカルマネージャー就任劇だ、と見ることもできる。かつてのリヴィオ・スッポ氏や現在のアルベルト・プーチ氏が現場を束ねるプロとしてチームマネージャーの役割に就くことと、ホンダの技術面を束ねるトップの人材を外部から招くことの意味が大きく異なっていることは、上記の説明でご理解をいただけると思う。

 要するに、ホンダのレース技術の考え方が、従来のような内製純血主義ではなく、「勝つためならば最短の道を選択する」というヨーロッパ型(プロフェッショナルビジネス型といってもいいかもしれない)の方針へ大きく舵を切ったことの表れ、ともいえるだろう。

 あとは、河内氏がスズキ時代に蓄積してきたノウハウを新天地のHRCでどれくらい存分に活かすことができるかどうか、が成否のカギを握る大きな要素になる。これは言葉を換えれば、HRCがどれほど河内氏の〈スズキスタイル〉を受容できるかどうか、ということでもある。

 ピットレーン側からチームの作業を見ていると、メーカーやチームごとに作業の進め方が大きく異なっている様子は容易に見て取れる。ピットレーン側から見えないパーティションの奥やトレーラーオフィス内部で行うワークフローは、両社間でさらに大きく異なっているであろうことはさらに想像に難くない。

 そういった事情を考えあわせると、これからの2023年シーズンにホンダ陣営が高い戦闘力を再び発揮すれば、それは前例のない人材登用を行ったHRCの大胆で柔軟な姿勢の成功、つまり、「何が何でも勝ちに行く」ホンダが時代の変化にうまく適応して新たなスタートを切ったことを意味するだろう。同時に、スズキとホンダがそれぞれのレース活動で連綿と積みあげてきた蓄積の最良の部分が最良の形で噛み合ったことの証明、つまり、HRCのDNAに新たに〈スズ菌〉の塩基が受容され組み込まれたことも意味するだろう。

 とはいえ、シーズンが終わったときにはたしてそのようなハッピーエンドを迎えるのかどうかは、今の段階ではまだわからない。この彼らの新たな試みがどんなふうに噛み合って走り出すのか、というところを、2月10日から始まるセパンのプレシーズンテストでまずはじっくりと見届けたいと思う。

 

 

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