“SUGOの衝撃”から30年。当事者が語るミハエル・シューマッハー全日本F3000参戦のいきさつ

1991年の全日本F3000にスポット参戦し、いきなり2位に入ってみせたミハエル・シューマッハー。その伝説のレースに至るまでのいきさつを、当時のチームルマン監督、本間勝久氏の証言から紐解く。

Michael Schumacher, Benetton

 1991年全日本F3000選手権(現スーパーフォーミュラ)第6戦。ひとりの外国人ドライバーがスポット参戦し、強烈なインパクトを残して去っていった。それこそが後のF1ワールドチャンピオン、ミハエル・シューマッハーである。

 シューマッハーはスポーツランドSUGOで行なわれた第6戦にチームルマンからスポット参戦。初体験のSUGO、初体験のF3000マシン、しかも性能の劣るラルト製シャシーでありながら、予選で4番グリッドを獲得して決勝では2位でフィニッシュを果たし、関係者の度肝を抜いた。

 後に7度のF1タイトルを獲得するシューマッハーにとって、日本のトップフォーミュラでの走りはこれが最初で最後となった。あれから30年。その歴史的なレースに至るまでの経緯について、当時のチームルマンの監督で、現在はTCS NAKAJIMA RACINGのエントラント代表を務める本間勝久氏(以下本間)が語ってくれた。

現在はTCS NAKAJIMA RACINGのエントラント代表を務める本間

現在はTCS NAKAJIMA RACINGのエントラント代表を務める本間

Photo by: Masahide Kamio

 1991年はバブル景気の影響を色濃く残す時代であり、全日本F3000には多くのマシンがエントリーし、毎戦何万人もの大観衆がサーキットに押し寄せた。チームルマンは当時、ロス・チーバーが走らせるプロミスカラーのレイナード91D、そしてジョニー・ハーバートが走らせるサントリーカラーのラルトRT23の2台体制であった。

 ラルトは1970年代から1980年代にかけてF3でのシェアを拡大し、ヨーロッパのF2選手権でも実績を残した。しかしレイナードやローラの台頭に押されたラルトはマーチに吸収合併され、マーチがラルトのブランドでF3000マシンを世に送り出した。それがRT23である。しかしこのマシンは、全日本F3000では戦闘力の劣る存在となっていた。「当時のラルトは他に比べてロングホイールベースのクルマでしたが、日本のタイヤに合わなくて、戦闘力が低かったんですよね」と本間は振り返る。

 戦闘力の劣るラルトで好成績を残すため、チームルマンは積極的なテストを行なっていたが、ハーバートはロータスでのF1活動と掛け持ちしていたこともあって、次第に十分なテストが行なえなくなっていた。そんな中で本間は、ラルトもといマーチと協議し、イギリスのスネッタートン・サーキットでテストを実施することを決断する。

 使用するマシンは、オニクスを率いてF1にも参戦したマイク・アールのチームが同年の国際F3000で走らせていたラルトのマシン。そこに日本からブリヂストンタイヤを持ち込み、国際F3000ドライバーのデビッド・ブラバムがドライブする……そんな計画だった。

「ドライバーはブラバムがメインでしたが、その中で(シューマッハーを)リザーブとしてちょっと乗せてあげようか、という話になりました」

 本間はそう語る。

「彼に関しては、その前の年に日本のF3(インターF3リーグ富士)で勝ったのも見ていたし、知っていましたけど、実質その時(テスト)が彼との初めての出会いでした」

1990年のインターF3リーグ富士を制したシューマッハー

1990年のインターF3リーグ富士を制したシューマッハー

Photo by: Sutton Images

「テストの前日に、打ち合わせのためにホテルに集合しました。その日の夜にご飯を食べながら『将来どうしたいの?』なんて聞いたら『F1ドライバーになりたい』と。心の中で『やっぱり若者の夢はそうだよね』なんて思っていましたね」

 さらに本間は、その翌日のテストについてこう話す。 

「まずはデビッドが色々なメニューを淡々とこなしていきました。そして初日の午後に(シューマッハーを)乗せてあげたんですよ。当時ですから乗せて“あげた”という感じですね」

「そしたら速いんですよ。それもいきなり速いんじゃなくて、的確に毎周毎周タイムを縮めていって、あっと言う間に(ブラバムと)同じくらいのタイムを出したんです」

「『速いよね』という話になったので、翌日マイク・アールなどと話をして、マイケル(シューマッハー)をもっと長い時間乗せてみたいという話をしました。そして(本格的に)テストをやらせてみたら、最終的にデビッドより速いんですよ。それで『日本に来ない?』という話をしました。ちょうどジョニーがF1が被っていてSUGOでのテストに来られなかったので。そしたら『行きたい!』とのことでした」

 かくして日本にやってきたシューマッハーはSUGOでテストを行なったが、やはり図抜けた速さを見せた。そこで本間はスポンサーから追加予算を募り、チームが所有していたもう1台のラルトRT23で、シューマッハーを走らせることにしたのだ。

 迎えたシリーズ第6戦SUGO。シューマッハーは2グループに分かれて行なわれた予選で2番手タイムを記録し、決勝はチーバー、服部尚貴、片山右京に次ぐ4番グリッドからスタートした。彼はスタートで5番手に落ちたものの、その後は片山、服部、トーマス・ダニエルソンを次々とオーバーテイクし、チーバーに次ぐ2位でフィニッシュして見せた。

「僕はあまり“天才”という言葉は使いませんが、才能ありますよね」と本間は言う。

 結局シューマッハーの全日本F3000参戦はこれが最初で最後だったが、実は翌戦の第7戦富士にも参戦する方向で話が進んでおり、富士でテストも実施して口頭での合意に至っていたという。しかしシューマッハーはその後ジョーダンと契約しF1に。その後の活躍は周知の通りだ。

「あの時(シューマッハーと)ちゃんと契約していればね」と本間は笑った。

「あの後、F1にもよく行ってマイケルのところには顔を出していました。自分も色んなドライバーを見てきていますが、彼は真面目で良い子で、集中力と熱心さ、ストイックさがありましたね」

 
 

Read Also:

Be part of Motorsport community

Join the conversation
前の記事 米フォーミュラ・リージョナル王者、奨学金制度での来季スーパーフォーミュラ参戦を断念。米ホンダHPDが明らかに
次の記事 そんなことまで!? 浜島裕英が語るミハエル・シューマッハーの常軌を逸した“ストイックエピソード”

Top Comments

Sign up for free

  • Get quick access to your favorite articles

  • Manage alerts on breaking news and favorite drivers

  • Make your voice heard with article commenting.

エディション

日本 日本