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F1の歴史をガラリと変えた、奇抜なアイデア。ティレル019”ハイノーズ”誕生秘話

2022年から、新レギュレーションが導入され、F1からハイノーズが撤廃される。このハイノーズの祖と言える1台のF1マシン……それがティレル019である。デザインを担当したジャン-クロード・ミジョーが当時を振り返り、秘話を語った。

Satoru Nakajima, Tyrrell 019 Ford

写真:: Ercole Colombo

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 2021年から導入される予定だった新しいテクニカルレギュレーション。しかし、新型コロナウイルスの感染拡大により2020年シーズンの開催・開発スケジュールに大きな影響が及んでおり、チームの財政面を考慮した上で、新レギュレーションの導入を2022年に遅らせることが決まった。

 この新レギュレーションでは、現在では一般的である”ハイノーズ”スタイルが封じられることになり、ウイングがノーズに直接取り付けられる。その結果、1980〜90年代前半頃のF1マシンの姿を彷彿させる部分もある。

 また空力デザインの専門家にとっては、マシンの中心部を”開ける”ことによって、ダウンフォースを確保することができないということを意味する。

 ハイノーズのマシンは、1990年の第3戦サンマリノGPでデビューした。ティレル019である。これを機に、多くのチームがこのアイデアに追従。様々なデザインコンセプトが登場することになった。マシンのアンダートレイ前方に構造物がなくなったことにより、ダウンフォースの発生量を大幅に向上させることができるようになったのだ。

 1989年にフェラーリからティレルへと移籍したハーベイ・ポストレスウェイトとジャン-クロード・ミジョーは、長年にわたって蓄積してきた数々のデザインアイデアを実践した。

 ミジョー曰く、ルノーに在籍していた頃に、すでにハイノーズのコンセプトが含まれていたと語る。

「1985年、私がルノーで行なった最後のテストの時には、このアイデアがすでに存在していた」

 そうミジョーは語る。

「モノコックの下を大きく切り取ると、当時の性能の良くない風洞でもいくらかの利益が得られた。それを私は記憶に留めていた。しかしその後チームが解体されたため、別の仕事を見つける必要があったのだ」

Jean Alesi, Tyrrell 018 Ford, on the grid

Jean Alesi, Tyrrell 018 Ford, on the grid

Photo by: Ercole Colombo

「当時は誰も私のことを知らなかった。でもフェラーリから電話があり、ハーベイ・ポストレスウェイトに会った。それが、様々なチームでの約10年にも及ぶコラボレーションの始まりだったと思う」

 フェラーリ入りしたミジョーだが、まもなくしてポストレスウェイトと共にティレルへと移籍する。そしてふたりは、一見するとシンプルに見えるティレル018を生み出した。このマシンは、ふたりが設計したフェラーリの開発モデルに基づいて作られており、空力特性が合理化されるとともに、斬新なモノショックのフロントサスペンションレイアウトが採用された。

 基本的には、この018はデビュー当初から非常に速かった。デビュー戦でジョナサン・パーマーが6位に入賞すると、メキシコGPではミケーレ・アルボレートが3位表彰台を獲得した。これによりチームは、次のマシンのための良い”ベース”を手にすることになった。

 ティレルはF3000で大活躍していたジャン・アレジと契約。1989年のフランスGPでF1デビューを果たし、いきなり4位入賞をしてみせた。また同じフランスGPからは、キャメルがスポンサーについた。

 メカの視点で言えば、019はその前身である018に、特にリヤがよく似ていた。その開発は、ティレルが作った018の風洞実験用モデルから始まり、サウサンプトン大学の風洞にかけられた。その中でミジョーはハイノーズのアイデアのために、モノコック・バルクヘッドの前端を持ち上げ、フロアへの気流を改善させた。

「ジャンは、018に完全なる信頼を寄せていた」

 そうミジョーは説明する。

「そのことにより、我々は再び正しい方向に進んだと確信したんだ」

「ハイノーズのアイデアを風洞に持ち込むまでには、ほぼ1年がかかった。でも、モデルでは別のアイデアと組み合わせたため、失敗と言えるようなモノだった。そのため、ケンとの会議が開かれた。『聞きなさい。私は、愚かなことをするためにあなたにお金を払っているわけじゃない。私がワークショップで見たこれは一体何だね?』と言われてしまった」

「それで私は言ったのだ。『辛抱してください。次の週末にテストするつもりだったモノですから』とね。マシンのリヤ部分はより良いベースに、翌年のベネトンが採用したようなフロントウイングを採用していた。構造的にはこれが最も簡単だった」

「最終的には、ガルウイングと呼ばれるようなモノを採用した。それは美的な側面からの選択だった。垂直のステーと比較してもアドバンテージはなかったし、中央部分にフラップはない」

Jean Alesi, Tyrrell 019 Ford

Jean Alesi, Tyrrell 019 Ford

Photo by: Ercole Colombo

「しかし、冬に中央部分のフラップを外した際、これまでに見たこともないような効果を発揮した。ダウンフォースが大幅に増加したのだ。だから私は『風洞の何かが壊れたに違いない。全てのことをチェックしてみよう』と言った。でも、悪い部分はなかった。フロアは、本当に大きな改善を示したんだ」

「ハーベイ以外の人だったら、ドライバーの足を上げるというアイデアは、完全に狂っていると言うだろう。重心が上がり、シャシーが高くなる……などね。でもそれを忘れてくれた。ハーベイは、もしそれが風洞で機能しているのなら、コースでも機能するだろうと言ったんだ」

「ポストレスウェイトは、ティレル019の発表会の際に、フロントウイングの上に立ち、このデザインの強さを実証した。シルバーストンでのテストでは、1周しただけで壊れたので、強化されていたんだ」

 FIAのフラットボトムのレギュレーションに対応して、フロアトレイは延長され、後のシーズンでは複数のチームに広く採用されるようになった。

 019は前述の通り第3戦までデビューすることはなかった。アレジはチームに残留し、1990年の開幕戦アメリカGPでは、018を駆ってアイルトン・セナ(マクラーレン・ホンダ)と優勝争いを演じた。

 フェニックスのコースは、多くのスローコーナーで構成されている。ティレルが当時使っていたのは、コスワースDFRエンジン。その出力はワークスエンジンと比較すれば低調であったが、コースの特性がその要素を打ち消していた。

 アレジは35周目にセナに抜かれてしまったが、2位でフィニッシュ。F1で初の表彰台を獲得した。

 その2戦後、アレジは新車019を手にした。その初戦サンマリノGPでは7番グリッドからスタートして6位フィニッシュ、続くモナコでは、019がその強みを発揮することとなった。

 効率的な空力と適切に設計されたモノショック・フロントサスペンションにより、アレジはモンテカルロの市街地を針の穴を通すように正確にドライブ。3位表彰台を手にした。

 フロントサスペンションのジオメトリは、ダイレクトなステアリング特性を生み出し、アレジは切れ味の鋭い回頭性のマシンを好むドライバーとしての評判を築いた。

 しかしミジョー曰く、019のフロントサスペンションには、秘密のアイデアがあったのだという。それは、ウイリアムズがFW14Bで、アクティブサスペンションを完成させる2年前だった。

「これはおそらく、誰も知らないことだと思う」

 そうミジョーは語った。

「アクティブサスペンションが流行する少し前だった。しかしフロントサスペンションには電動アクチュエーターが搭載されており、各ドライバーはコーナーの手前でノーズを1〜2mm上下させることができた。それが、マシンのセットアップの可能性を広げたんだ」

「それよりもさらに、モノショックは洗練され、斬新的または回帰的とも言うべきロール剛性を備えていた。モナコとフェニックスのふたつの低速コーナーが多いサーキットでは、フロントサスペンションは魔法のようなモノだった」

Nigel Mansell, Williams FW14B Renault

Nigel Mansell, Williams FW14B Renault

Photo by: Rainer W. Schlegelmilch

 ピレリが特別仕様の予選タイヤを持ち込んだことにより、ティレルがグリッド前方につけることが多かった。しかし、レース中のデグラデーションは激しく、アレジのパフォーマンスを活かし切ることができなかった。

 チームメイトの中嶋悟は、序盤こそリタイアが続いていたが、イタリアと日本では6位に入るなど、徐々に019をモノにしていった。

 最終戦オーストラリアGPの舞台であるアデレードも市街地コースであり、ティレル019の活躍が予想された。しかし、アレジは予選5位となったもののインフルエンザにかかったこともあり、右足が痙攣して8位にずり落ちてしまった。中嶋はレース後半にブレーキに問題を抱えたため、後退することとなった。

 ティレル019の後継車である020は、ホンダV10エンジンを搭載するためにリヤエンドが変更されたにも関わらず、019の特性を引き継いでいた。

 しかしアレジとミジョーは1990年の年末にチームを去り、フェラーリへと移籍。ポストレスウェイトは1991年中盤にチームを離れて、当時はまだF1を始める前だったザウバーに加わることになった。

 ティレル019は、その後のF1に大きな影響を与える1台となった。ベネトン、ジョーダン、フットワークは、1991年シーズンにハイノーズを採用。1996年までにはほぼ全チームが、それぞれ独自のバージョンではあるものの、ミジョーのコンセプトに倣うこととなった。

 ミジョーは1992年の終わりにフェラーリを離れ、ガブリエル・ルミとフォンドメタル・テクノロジーを設立。その後、ティレルやベネトン、ミナルディなど多くのF1チームでコンサルタントとして働いた。

 ただミジョーは、ミナルディからサラリーを受け取ることができなかった。そのため、2000年末までに苦境に陥ってしまった。そのためミナルディの新オーナーであるポール・ストッダートに対し、019のデザインに関する支払いをするように求めた。ストッダートは、BARに吸収されたティレルの資産のいくつかを購入していたのだ。

「私にとっては、とても大きな意味があるモノだった。私は、給料を受け取っていなかったのだ」

 ミジョーはそう当時を振り返る。

「そして、ストッダートがティレルから、全てのマシンを含む多くの部品を購入/取得したことを知っていた。だから私はストッダートに言った。『お金を払わなければ、戻ってくることはない。それは私から借りているモノであり、契約は修正することができる。あなたは、私が家に置いておきたいと思うクルマを持っている。それは、019と呼ばれている」

「だからここに15年以上も019があり、それを毎朝見ることができた。しかしついに2年前、ジャン・アレジにそれを売ってしまった。(フランスの)アヴィニヨンでジャンに会うと、それを見ることができる。ジャンはフェラーリを離れる時に、(ルカ・ディ)モンテゼモロ(当時のフェラーリ社長)からF92(A。1992年のフェラーリのF1マシン。ミジョーが手がけた、ダブルフロアなどの新機軸を多数搭載した意欲的なマシンだったが、好パフォーマンスを発揮することはできなかった)も受け取っている。だから、ジャンは私にとっての博物館のようなモノだ」

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【ギャラリー:ティレル019】

Satoru Nakajima, Tyrrell 019 Ford
Tyrrell 019 at Legends F1 30th Anniversary Lap Demonstration
Tyrrell 019
Tyrrell019
Tyrrell019
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