【伝説のモナコGP】アイルトン・セナが”ライオン”を飼い慣らした日:1992年
1992年の5月31日、モナコのモンテカルロ市街地コースでは、アイルトン・セナとナイジェル・マンセルの激戦が繰り広げられた。今もF1の歴史上、最も記憶に残る1戦としても知られている、あのレースだ……。

今週末はF1第7戦モナコGPが開催される。舞台はモンテカルロ市街地コース。曲がりくねった公道コースであり、道幅は狭い……今の基準なら、とてもFIAの認可は下りなかっただろう。しかし1950年からF1を開催してきた伝統……カレンダーになくてはならない存在である。
このコースでは、幾度となく素晴らしいレースが展開されてきた。そのうちのひとつ……伝説のモナコGPと言えば、多くの人が1992年のレースを挙げるだろう。日本でも素晴らしい実況も相まって、今も語り継がれている。
モナコは、誰もオーバーテイクすることができない。それを如実に表したのがこの1992年のレースである。
オーバーテイクが難しいことは、近年ではF1を退屈にさせるひとつの要因だと言われてきた。しかし1992年のモナコGPは、”オーバーテイクが難しい”ことにより、F1の歴史上最もエキサイティングなレースのひとつに位置付けられる激戦が繰り広げられ、マクラーレンMP4/7A・ホンダを駆るアイルトン・セナが勝利を収めた。
このレース前の段階では、セナが勝つ可能性はほぼ皆無と見られていた。同年、ウイリアムズFW14B・ルノーという超高性能の武器を手にしたナイジェル・マンセルは開幕から圧倒的な強さを見せ、開幕5連勝。無敗の状態でモナコに乗り込んだのだ。
セナにとっての唯一のチャンスは、マンセルが何らかの形でトラブルに見舞われることだった。セナはその千載一遇の機会を逃さないよう、終始正しいポジションに位置している必要があった……そしてセナは、十二分にそれを理解していた。
しかし予選では、ウイリアムズがやはり速さを見せる。マンセルがポールポジションを手にし、そのチームメイトであるリカルド・パトレーゼが2番手。セナは1.1秒遅れの3番手だった。

Nigel Mansell, Williams FW14B Renault
Photo by: Rainer W. Schlegelmilch
セナはウイリアムズのふたりを分断するため、まずはパトレーゼ攻略を狙った。スタート直後のターン1”サン・デボーテ”でブレーキングを遅らせ、パトレーゼの前に出ることに成功したのだ。対するウイリアムズふたりのブレーキングは慎重そのもので、セナはマンセルに追突しかけた。
「僕は最後の瞬間まで、ブレーキングを遅らせた。リカルドに手がかりを与えないようにね。そうしなければ、彼はドアを閉めていただろう」
セナはレース後にそう回顧した。
「僕はそうやって2番手になった。しかし問題は、マンセルがターンインする前に、マシンを減速させることだった。僕はすごく速いスピードだったから、彼に見えていないんじゃないかと思ったんだ。でもそれは大丈夫だった。そしてそれは、僕が必要とするポジションを手にするための唯一のチャンスで、良い動きだったと思う」

Ayrton Senna, McLaren MP4/7A, Riccardo Patrese, Williams FW14B
Photo by: Sutton Images
ただ先頭のマンセルは速かった。1周につき1秒ずつセナとの差を開いていき、独走状態に入っていったのだ。2番手のセナは、長い戦いになると考え始めていた。そしてマンセルに問題が発生した際にすぐに攻撃に転じることができるよう、バランスを取り、タイヤを労っていた。
「彼を倒す方法がないことは分かっていた」
そうセナは語る。
「彼のマシンの優位性を考えれば、それは不可能だった。しかし、モナコでは何が起きるのか分からない。だから僕がその時にやろうとしていたのは、マンセルに何かが起きた場合、恩恵を得られるように十分な努力をした。僕は早い段階で、レース後半の計画を立てていた」
前述のとおり、セナは自分のマシンとタイヤを労ったが、集中力を維持するのは難しかったという。
「僕は自分自身に対して叫んだんだ。『細心の注意をして、集中力を途切れさせないようにしろ! この馬鹿者!』とね」
しかしマンセルがトラブルに見舞われた時、セナの努力が報われることになった。71周目のことだった(レースは78周)。トンネルを出た直後、マンセルはリヤに違和感を感じたのだ。彼はリヤタイヤがパンクしたと信じ、タイヤ交換を行なうべくピットに無線を飛ばした。
マンセルのピットストップを予期していなかったチームは、マンセルのタイヤ交換に手間取った。しかもマンセルは3つのホイールのみがしっかりと機能する状況の中でピットストップを行なったため、停止位置がずれてしまった。さらには右リヤタイヤの交換にも手間取った。
残り7周、ついにセナが先頭に立った。マンセルは5秒遅れでコースに復帰し、追い上げを開始した。その差は次の周に4.3秒、次に1.9秒……そして残り3周という段階でテール・トゥ・ノーズの状態になった。ふたりの速さの差は圧倒的。まさに”どこからでも抜ける”状況であるように見えた。

Ayrton Senna, McLaren MP4/7A, Nigel Mansell, Williams FW14B
Photo by: Motorsport Images
しかしマンセルは最高のマシンと新しいタイヤを手にしているにもかかわらず、セナは巧みにブロックした。マンセルはほぼ全てのコーナーで攻撃を仕掛けようと試みたが、セナはそれを封じるために必要な、正確な場所にマシンを置いた。
マンセルは最後までオーバーテイクを完了することができず、セナが1992年シーズン最初の勝利を手にした。
レース後、マンセルは次のように語っている。
「私は、アイルトンを褒め称えなければならない。彼は私がしようとした動きを、本当によく推測したからだ。彼はとてもフェアだったし、ああする資格があったと思う」
一方でセナにとっては、”ライオンハート”とも呼ばれたマンセルの攻撃的な走りを抑え切ることができたのは、驚きだったようだ。
「僕が先頭に立った時、タイヤはもうかなり限界に近かった。だから、新しいタイヤを履いたナイジェルがすぐに追いついてくると考えていたんだ」
セナはそう語っていたという。
「そうすれば、そのリードを保つことができるのか、それは分からなかった。モナコについての全ての知識を活用しなければいけなかったので、とてもエキサイティングだった。ナイジェルが、僕を抜くために全てのことをしようとしているのは分かっていた。そして彼は、サーキットのどこでも速かった」
「だから僕は、コーナーのイン側をキープしようとしていた。ストレートでは、マシンはドラッグレースのマシンの様だった。2速でも3速でも4速でも、ホイールスピンしてしまうんだ。でも僕は勝った。ライオンを飼い慣らすのは気持ちよかったね」
なおこのレースは、ミハエル・シューマッハー(ベネトンB192)vsジャン・アレジ(フェラーリF92A)という当時新進気鋭だったドライバー同士の激闘、そして苦労人ロベルト・モレノが、アンドレアモーダのマシンを唯一決勝まで進めた奮闘など、様々なサイドストーリーがあったレースでもある。
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