【特集】その悔しさが彼らを強くした……F1スターが初優勝を逃したレース10選
F1ロシアGPでのランド・ノリスのように、F1ドライバーが初優勝のチャンスをあと少しのところで逃したレースをピックアップ。
Ayrton Senna, Toleman TG184-Hart
LAT Images
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先日行なわれたF1ロシアGPでは、マクラーレンのランド・ノリスが終盤までトップを走行し、ルイス・ハミルトン(メルセデス)を従えて走行していた。しかしノリスは残り数周というタイミングで降り出した雨に翻弄される格好となり、インターミディエイトタイヤに交換するタイミングを誤った結果7位に転落した。
F1初優勝のチャンスを逃したことで、レース後にはひどく落ち込んでいることを認めたノリス。こういった経験をしたドライバーはノリスが初めてではなく、おそらく最後でもないだろう……今回は歴史に名を残すF1ドライバーたちが初優勝を逃したレースを10戦ピックアップした。
ナイジェル・マンセル:1984年モナコGP
Nigel Mansell, Lotus 95T
Photo by: Motorsport Images
悪コンディションの中で行なわれた1984年のモナコGPでは、ポールポジションスタートのアラン・プロスト(マクラーレン)にミスファイアの症状が出たことでロータスのナイジェル・マンセルがトップに立った。彼がレースをリードするのはキャリア初のことであった。
コースはまさにずぶ濡れという状況だったが、マンセルは臆することなく走行し、プロスト以下後続とのリードを1周2秒ずつ広げていった。
しかしその数周後、マンセルはサン・デボーテを立ち上がった後の上り坂でコントロールを乱しウォールにヒット。マシンを降りることとなった。
マンセルは同年のダラスGPでポールポジションからスタートするも優勝ならず。翌年ウイリアムズに移籍し、地元ブランズハッチで初優勝を挙げた。
アイルトン・セナ:1984年モナコGP
Race winner Alain Prost, McLaren and Ayrton Senna, Toleman, with their trophies
Photo by: Ercole Colombo
同1984年のモナコでは、マンセルのリタイア後、もうひとりの若手ドライバーが初優勝に向けて好走していた。それがトールマンを駆るアイルトン・セナであった。
13番グリッドからスタートしたセナは猛烈な追い上げで順位を上げていき、あれよあれよと言う間に2番手に浮上。首位を独走するプロストとの差を急速に詰めていった。
勝利をルーキーのセナに奪われる危機に瀕したプロストは、レースの中断をスチュワードに訴えた。競技委員長のジャッキー・イクスもこれに同意し、32周終了時に赤旗とチェッカーフラッグが掲示された。セナは赤旗掲示直後にプロストを追い抜いたものの、レースは31周終了時点の順位でハーフポイントながら成立となり、プロストが優勝、セナが2位となった。
セナはロータスに移籍した翌1985年のポルトガルGPで初優勝。その後の活躍は周知の通りだ。
デイモン・ヒル:1993年ドイツGP
Damon Hill, Williams, 1993 German GP
フル参戦2年目の1993年に当時のチャンピオンチームであるウイリアムズに加入したデイモン・ヒルは、開幕から表彰台こそ獲得していたものの、優勝には手が届かずにいた。
ただ第9戦の母国イギリスGPでは、41周目にエンジンブローでリタイアするまではチームメイトのプロストを従えてトップを快走するなど、初優勝がすぐそこまで迫っていることを予感させた。
しかし、2週間後にホッケンハイムで行なわれたドイツGPでも悲劇は繰り返された。2番グリッドスタートのヒルは、PPのプロストのスタート失敗やペナルティにも助けられ、レース終盤まで悠々とトップを快走していたが、残り2周でまさかのタイヤトラブル発生。左リヤタイヤがバーストしたヒルはタイヤ交換のためにピットに向かったが、その道中でスピンし終戦となった。
なおヒルは翌戦ハンガリーGPでリベンジを果たし初優勝を挙げると、そこから怒涛の3連勝を記録した。
ジャン・アレジ:1994年イタリアGP
Jean Alesi, Ferrari, leads the 1994 Italian GP
フェラーリで4年目のシーズンを迎えたジャン・アレジは、イタリアGPでキャリア初のポールポジションを獲得。是が非でも初優勝が欲しいアレジは、ティフォシからの大きな期待を背負ってレースを迎えた。
レースはスタート直後のクラッシュにより仕切り直しとなったが、アレジは2度目のスタートをうまく決め、チームメイトのゲルハルト・ベルガーを突き離して1回目のピットストップに向かった。
しかし、燃料補給とタイヤ交換を終えてピットアウトしようとしていたアレジのマシンにギヤボックストラブルが発生。アレジはそのままマシンを降りてしまった。
アレジは翌1995年のカナダGPで悲願のF1初優勝を達成。しかし同年のイタリアGPでは首位に立ちながらも、終盤にホイールベアリングのトラブルによりリタイア。またしても彼を愛するティフォシが集まるイタリアで勝利を届けることができないまま、1996年にベネトンへと移籍した。
ジャック・ビルヌーブ:1996年オーストラリアGP
Jacques Villeneuve, Williams FW18 Renault, Damon Hill, Williams FW18 Renault, Eddie Irvine, Ferrari F310
Photo by: Motorsport Images
1995年のインディ500、そしてCARTを制したジャック・ビルヌーブは、1996年にウイリアムズから鳴り物入りでF1デビューを果たした。そのデビュー戦となったオーストラリアGPの予選で、ビルヌーブはチームメイトのヒルを抑えて見事ポールポジションを獲得。期待に違わぬ活躍を見せた。
迎えた決勝レースは、ジョーダンのマーティン・ブランドルの大クラッシュにより赤旗中断となる波乱の幕開けとなるが、ビルヌーブはヒルを従えたまま首位でレース終盤を迎えた。
しかしビルヌーブのマシンは深刻なオイル漏れが発生してペースダウン。残り5周で首位が入れ替わり、ヒルが優勝を飾った。デビューウィンを逃したビルヌーブだったが、第4戦ヨーロッパGPで初勝利を挙げると最終戦までヒルと王座を争い、翌1997年にはワールドタイトルを獲得した。
ミカ・ハッキネン:1997年ルクセンブルクGP
The start of the 1997 Luxemburg GP
ミカ・ハッキネンはアイルトン・セナ亡き後、1994年からマクラーレンの若きエースとしてチームを牽引してきた。低迷しつつあったチームは1997年に入り着実に戦闘力を増しており、第14戦を終えた時点でデビッド・クルサードが既に2勝を記録。しかしハッキネンはイギリスGPやオーストリアGPでトップ快走中にエンジンブローに見舞われるなど、勝利から見放されていた。
迎えた第15戦ルクセンブルクGPの舞台はドイツのニュルブルクリンク。ハッキネンは予選でポールポジションを獲得した。これは自身初のポールポジションであり、マクラーレンにとっても1993年のセナ以来、エンジンサプライヤーのメルセデスにとっては実に1955年以来のポールであった。
ハッキネンはチームメイトのクルサードを従えて、ワンツー体制を築いていた。しかし、地元ドイツでメルセデスエンジンが立て続けにブロー。クルサードがストップした直後、ハッキネンのマシンも音を上げた。
ことごとく運に見放されてきたハッキネンだったが、最終戦ヨーロッパGPで初優勝。翌1998年はそれまでの不運が嘘かのように勝ちまくり、ワールドチャンピオンとなった。
ファン・パブロ・モントーヤ:2001年ブラジルGP
Michael Schumacher, Ferrari F2001, battles with Juan Pablo Montoya, Williams FW23 BMW
Photo by: Motorsport Images
2001年の第3戦ブラジルGPでは、ルーキーのファン・パブロ・モントーヤ(ウイリアムズ)が見せ場を作った。CART上がりのドライバーで、アメリカ仕込みの威勢の良いエキサイティングな走りに定評があったモントーヤは、セーフティカー明けの3周目に1コーナーでミハエル・シューマッハー(フェラーリ)を大胆にオーバーテイク。首位に浮上した。
その後モントーヤはリードを広げていき、レース中盤には後続に30秒近い差をつけて独走していた。
しかし39周目、モントーヤはアロウズのヨス・フェルスタッペンを周回遅れにした際、フェルスタッペンに背後から追突されてしまいスピン。リヤウイングを失ったモントーヤはそのままマシンを降りた。
モントーヤは同年のイタリアGPで初優勝を記録。その後もウイリアムズとマクラーレンで活躍し、通算7勝を挙げた。
キミ・ライコネン:2002年フランスGP
Kimi Raikkonen, McLaren Mercedes MP4/17 runs wide, Michael Schumacher, Ferrari F2002 pass
Photo by: Rainer W. Schlegelmilch / Motorsport Images
今季限りでのF1引退を発表したキミ・ライコネンのF1デビューは2001年。ザウバーでセンセーショナルな活躍を見せた後、翌2002年から名門マクラーレンのドライバーに抜擢された。
シーズン前半で2度の3位表彰台を獲得したライコネンは、第11戦フランスGPで初優勝のチャンスを手にした。レース序盤はフェラーリのシューマッハー、ウイリアムズのモントーヤ、そしてライコネンの三つ巴となっていたが、シューマッハーのペナルティ、モントーヤのピット戦略失敗などでライコネンが首位に浮上した。
全てが順調に見えたライコネンだったが、トヨタのアラン・マクニッシュが撒いたエンジンオイルに乗ってしまい、ヘアピンでオーバーラン。その隙にシューマッハーが首位に立ったのだ。
2位でフィニッシュしたライコネンはレース後、人生で最もガッカリしたレースだったと語った。なお、彼の初優勝は翌年のマレーシアGPで達成された。
シャルル・ルクレール:2019年バーレーンGP
Charles Leclerc, Ferrari, 3rd position, in Parc Ferme
Photo by: Mark Sutton / Motorsport Images
2018年のルーキーシーズンにアルファロメオ・ザウバーで印象的な活躍を見せたシャルル・ルクレールは、2019年にフェラーリに移籍。将来有望な若手の加入にファンの期待が高まった。
しかし、ルクレールのポテンシャルはその期待をはるかに上回るものだったと言える。彼は第2戦バーレーンGPでいきなりポールポジションを獲得して見せたのだ。
ルクレールはスタートでポジションを失うも、すぐに挽回しトップに浮上。その後は落ち着いた走りでメルセデスのルイス・ハミルトン、バルテリ・ボッタスに対して十分なリードを築いていた。
しかしレース終盤、ルクレールはパワーユニットのシリンダーにトラブルが発生。ペースが一気に落ちてハミルトンとボッタスの先行を許してしまい、なんとか3位でフィニッシュした。ルクレールは同年のベルギーGPで初優勝を挙げ、続くイタリアGPでも連勝を飾った。
ジョージ・ラッセル:2020年サヒールGP
George Russell, Mercedes F1 W11, in the pits
Photo by: Steve Etherington / Motorsport Images
2022年からのメルセデス加入が決定しているジョージ・ラッセル。しかし彼はすでにメルセデスのマシンを駆ってレースに出場し、優勝に近付いた。それが2020年のサヒールGPだ。
新型コロナウイルスに感染したハミルトンの代役として、急遽メルセデスからサヒールGPに出場することとなったラッセル。それまで戦闘力の劣るウイリアムズのマシンで苦戦を強いられており、表彰台はおろか入賞すら記録したことのなかったラッセルにとって、千載一遇のチャンスとなった。
ラッセルは予選でチームメイトのボッタスと僅差の2番手。レースではスタート直後にボッタスから首位の座を奪い、初優勝が目前に迫っていた。しかし、ラッセルの代役としてウイリアムズから出走していたジャック・エイトケンのクラッシュにより出されたセーフティカーが、彼らのレースを狂わせることになる。
ラッセルは新しいタイヤに交換するためピットインしたが、誤ってボッタスのタイヤを履かされてしまった結果、再度のピットインを余儀無くされた。
これにより順位を下げたラッセルだったが、猛然と追い上げて優勝戦線に復帰した。しかし今度はパンクが発生したことでまたしても緊急ピットイン。最終的に9位に終わった。
ラッセルのここまでのキャリア最高順位は2021年ベルギーGPでの2位(2021年ロシアGP終了時)。メルセデス移籍後、サヒールでの屈辱を晴らせるか。
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