憧れの人の代役を務め、跳ね馬”1戦限り”のシートを手に……モルビデリの想い
1991年の最終戦直前、アラン・プロストは急遽フェラーリを追放された。代役に就いたのはジャンニ・モルビデリ。憧れのプロストの代役を、複雑な想いで務めたという。
Jean Alesi and Gianni Morbidelli, Ferrari 643 and the team
Ercole Colombo
アラン・プロストにとって、フェラーリに在籍していた1991年は、彼のキャリアの中でも最悪のシーズンだったと言える。シーズン終了を待たずにチームを解雇され、しかもデビュー年以来の”未勝利シーズン”となったからだ。
1990年のプロストは、マクラーレン・ホンダのアイルトン・セナと、激しいタイトル争いを演じた。しかし日本GPのスタート直後にふたりは接触。両者リタイアとなったことで、セナが自身2度目のタイトルを決めた。
フェラーリはタイトル奪還をかけ、1991年シーズンに挑んだ。しかし同年のマシンは、マクラーレン ・ホンダだけではなく、ウイリアムズにも劣るモノ。ネルソン・ピケのベネトンも1勝を挙げた中、フェラーリは結局未勝利でシーズンを終えることになった。
1990年には5勝を挙げたプロストは、結局5回の表彰台(最高位2位)を獲得するのが精一杯だった。
Alain Prost, Ferrari 643
Photo by: Motorsport Images
第15戦に組まれていた日本GP終了後、4位に終わったプロストは、次のように語ったと言う。
「ドライブするのが恐ろしい、トラックのようだった。喜びはまったくないよ」
プロストがそう語った原因は、ショック・アブソーバーの故障だった。それによりステアリングは信じられないほど重くなっていたようだ。つまり、マシンを揶揄したモノではなかった。
しかしフェラーリは、プロストのこの発言に迅速の反応。アデレードでの最終戦を前に、プロストをチームから追いやったのだ。
プロストはチームを良くするために、コース以外の部分でも、チームにもっと関与したいと考えていた。しかし結局は「政治的な理由」により解雇されたと、プロストは信じている。
プロスト更迭に伴い、チームはテストドライバーであるジャンニ・モルビデリに白羽の矢を立てた。当時フェラーリエンジンを搭載するミナルディのマシンでF1に参戦していたモルビデリは、友人と休暇を楽しんでいる時に、代役でフェラーリに乗るという知らせを受けた。
当時のモルビデリは23歳。BMSダラーラとミナルディから、まだ18レースにしか参戦していなかった。そんな彼が、フェラーリに乗る……しかもイタリア人……そのプレッシャーの大きさはいかばかりだっただろうか?
Gianni Morbidelli, Ferrari 643
Photo by: Ercole Colombo
「テストでは、アラン・プロストやナイジェル・マンセルと一緒に仕事をする必要があった。これは若いドライバーにとっては夢のようなモノだった」
そうモルビデリは当時のことを語る。
「プロストは僕のアイドルだった。そしてある日、僕はフェラーリで、彼の代役を務める必要があったんだ……」
「僕は20代前半だった。当時のF1は、今のように若い段階で参戦できるようなモノではなかったから、素晴らしい経験だった。フェラーリでレースをするというのは、僕にとっては素晴らしいことだった」
「僕はポート・ダグラスで休暇を楽しんでいた。そしてミナルディではなく、フェラーリに乗るという連絡を受けた。レースの週末の前の火曜日、夜の11時頃だったと思う」
Helmets of former Ferrari drivers Alain Prost, Jean Alesi, and Gianni Morbidelli, Ferrari
Photo by: Sutton Images
モルビデリはアデレードに向かう間に、何が待ち受けているのかを考えた。そして、サーキットに到着するまでは、落ち込んでいなかったという。
「僕の大好きなドライバーであるプロストの代役を務めるんだ。だからフリー走行の時にピットに尋ねなければいけなかったよ。『僕は夢を見ているんだろうか?』とね」
「テストで走らせていたから、クルマのことはよく理解していた。ジャン(アレジ)と並んで、8番グリッドを獲得したんだ」
Gianni Morbidelli, Ferrari 643
Photo by: Ercole Colombo
レースでは悪天候だったにも関わらず、モルビデリは適切なアプローチでマシンを走らせ、短縮されたレースで6位フィニッシュ。レースは規定周回数を満たしていなかったためハーフポイントとなり、モルビデリは0.5ポイントを手にした。これが、彼にとって初めてのポイント獲得だった。
「天候のせいで、僕にとってはとても不運な1日だったと思う」
そうモルビデリは語った。
「豪雨により、F1史上最短のグランプリとなった。とても危険な状態だったよ。多くのインシデントがあり、コースを目視するのも不可能だった」
「正直に言って、その日は最善を尽くしたと思う。表彰台を獲得していたら、フェラーリは翌年の契約を結んでくれていただろうか? 僕の人生が変わっていたかもしれない。時々、人生は幸運である必要があると思うことがある。でも、決して単純じゃない」
Gianni Morbidelli, Ferrari 643
Photo by: Motorsport Images
Gianni Morbidelli, Ferrari 643
Photo by: Motorsport Images
わずか16周……多くのクラッシュが起きたためにレースは中断され、その後再開されることはなかった。モルビデリは前述の通り6位となったが、実際には3番手でフィニッシュラインを通過していた。
「セナとピケの後ろ、3番目にフィニッシュラインを通過した。でも、レッドフラッグのルールにより、6位に戻されてしまった」
そうモルビデリは振り返る。
「僕は3番手だったけど、人生が投げかけたモノを受け入れなければいけない。世界で最も大きなチームで、情熱を持って仕事をしたから、自分がしたことについては満足できると思う」
Gianni Morbidelli, Footwork FA16 Hart, Mark Blundell, McLaren MP4/10B Mercedes-Benz
Photo by: Motorsport Images
「雨が止んで、レースが再開されたらどうなっていたか……それを知っている人がいるだろうか? レースがあと2周長く行なわれていれば、ジャンがやったように、僕もウォールに突っ込んでいただろう」
このレースから4年後、モルビデリはアロウズのマシンを駆り、オーストラリアGPで念願の表彰台を手にした。
「このサーキットには自信があった。そして、リベンジを果たしたんだ」
そうモルビデリは笑う。
「僕にとってその表彰台は、非常に大きな意味を持っていた。財政的な状況はかなり悪かったからね。アラン・ジェンキンスやジャッキー・オリバーとの仕事は、素晴らしいモノだった。だから、その表彰台を成し遂げたのは、素晴らしい気分だった」
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