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F1キャリアは僅か”800メートル”。日本でも活躍したマルコ・アピチェラの物語……童夢F1もテスト「他より速かったかは分からないけど、良いマシンだった」

マルコ・アピチェラは、念願だったF1にたどり着いた。しかしそのレースはわずか800mで終わり、以後出場の機会は巡ってこなかった。1993年のことだ。

Marco Apicella, Jordan J193 Hart

Autosport

Content from Autosport

 全てのレーシングドライバーは、F1に参戦することを夢見るものだ。モータースポーツで最も格式の高いレースに挑み、そこで偉大なドライバーたちと対峙し、表彰台でシャンパンを浴びたり、チャンピオンシップや栄誉を手にすることを追い求める。

 しかしF1に辿り着いた後、最初のコーナーを曲がる前にクラッシュし、その舞台に挑むチャンスを二度と得ることができない……そんな状況を思い描くドライバーなど誰もいない。しかしマルコ・アピチェラは、まさにそんな運命を辿った。彼のF1キャリアは、デビュー戦をわずか800mほど走ったところで、あっけなく幕をおろしてしまった。

 アピチェラは1993年、ジョーダンに急遽招聘され、イタリアGPでルーベンス・バリチェロのチームメイトを務めることになった。これはティエリー・ブーツェンが成績低迷によりチームを去った後のことだった。

 そもそもこの年のジョーダンは、バリチェロとイワン・カペリのコンビでシーズンをスタートさせた。しかしカペリは前年の1992年にフェラーリで過酷なシーズンを過ごしたことで失った自信を取り戻すことができず、わずか2戦のみでチームを去った。ブーツェンはその後を受けてジョーダン入りしたが、やはり成績は低迷……そこでアピチェラに声がかかったのだ。

 バリチェロはこの年デビューしたばかりの期待の若手であった。そのためベテランドライバーをチームメイトに据え、バリチェロを牽引してくれることを期待していた。しかしカペリもブーツェンも、バリチェロの後塵を拝してばかりであり、結局ジョーダンはチームメイトにも若手ドライバーを起用することに方向転換した。もちろんその若手ドライバーたちには、スポンサーフィーを持ち込むことが求められた。

 若手と言えど、アピチェラはそれ以前に豊富なフォーミュラカーでの経験を持っていた。1987年に国際F3000に参戦。当時はまだ劣勢に立たされていたダラーラ製のマシンで奮闘し、スパ・フランコルシャンでは5位に入る健闘を見せた。

 1988年にはファースト・レーシングに加入し、モンツァで2位に入るなど好調な走りを見せたが、経験豊富なチームメイトであるピエルルイジ・マルティニには及ばず。1989年には同チームに残留したが、この年チームはシャシーをマーチからレイナードに変更。このレイナードのマシンは他を圧倒し、ブロムリー・モータースポーツのロベルト・モレノがタイトルを獲得し、アピチェラは総合4位でシーズンを終えた。

 翌年はランキング6位。ポーでは初優勝にあと一歩まで迫ったが、バリアに激突してしまう。その後ポール・スチュワート・レーシングに移籍し、無限エンジンを搭載したローラ製のマシンで高い戦闘力を発揮したが、表彰台は数多く獲得したものの、初優勝は手にできなかった。

■F1テスト

Marco Apicella, Jordan J193 Hart

Marco Apicella, Jordan J193 Hart

Photo by: Rainer W. Schlegelmilch

 当時アピチェラは、F3000での活躍と並行して、ミナルディF1のテストに参加していた。そして新チームであるモデナ・レーシングと契約しF1に参戦するところまであと一歩まで迫ったが、これは実現しなかった。

「1987年末に、モトーリ・モデルニ・エンジンを搭載したミナルディのF1マシンのテストを始めたんだ」

 アピチェラはそう振り返る。

「1990年までミナルディでテストを担当していた。様々なエンジンを搭載した何台かのマシンをテストしたよ。私の役割はテストドライバーのようなモノだったけど、正式なモノではなかった。でもミナルディは若いドライバー、特にイタリア人ドライバーを常に支援しようとしていたから、チャンスをもらえた。キャリアの初期に僕にチャンスを与えてくれたのはミナルディだけだった」

「ミナルディの後、1991年にランボルギーニF1でテストした。ドライバーとして活躍できそうだったけど、エリック・ヴァン・デ・ポールにポジションを奪われてしまった。マニ・クールとエストリルで何度かテストしたけど、マシンはそれほど良いモノではなかった。まあまあだった。当時としては非常に新しいマシンだったから、それで十分だったんだ」

■欧州でのチャンスを見限り、日本へ

Marco Apicella, Mauro Forghieri, Eric van de Poele, and Nicola Larini

Marco Apicella, Mauro Forghieri, Eric van de Poele, and Nicola Larini

Photo by: Ercole Colombo

 1992年、欧州でのチャンスに恵まれなかったアピチェラは、当時の多くの外国人ドライバーと同じように来日。童夢に加入して全日本F3000に参戦することになった。

 この全日本F3000でアピチェラは、マウロ・マルティニやロス・チーバー、フォルカー・バイドラー、ローランド・ラッツェンバーガーら外国人ドライバー、鈴木利男や服部尚貴、星野一義ら日本人ドライバーと対峙。オートポリス戦で優勝するなどし、ランキング10位で終えた。なおオートポリス戦での優勝は、アピチェラにとってF3000での初勝利であるとともに、童夢および国産シャシーとしてもF3000初優勝であった。

 1993年も童夢で走り、SUGOで2勝目を挙げることになった。

 F1に参戦するのは、アピチェラにとってはあくまで夢……のようにも思えた。しかし彼はジョーダンと定期的に連絡を取っており、1991年にはF1参戦まであと一歩まで迫ったこともあった。

 しかし1993年のイタリアGPで、アピチェラに悲願のチャンスが訪れた。ブーツェンが離脱したことで空いたジョーダンのシートに、母国イタリアGPで座るチャンスが訪れたのだ。

■ジョーダンからのお誘い

Marco Apicella, Jordan J193 Hart

Marco Apicella, Jordan J193 Hart

Photo by: Sutton Images

「エディ・ジョーダンとは、F3000時代からの知り合いなんだ」

 そうアピチェラは語る。

「1991年には彼のチームでレースする寸前までいったんだけど、結局実現しなかった。でもその後も、エディ・アーバインや他のドライバーたちと同じように日本のレースに参戦していたこともあり、常に連絡を取り合っていたんだ」

「彼はエディ・アーバインと密に連絡を取っていた。当時のアーバインは、ジョーダンのドライバーという部分もあったし、日本に来ていてもそれには変わりはなかった。でもジョーダンは、『マルコはイタリア人だから、イタリアGPのチャンスを託せる』と考えたのだろう。それで日本滞在中に何度か電話をくれて、モンツァを走る契約がまとまったんだ」

 契約が決まった後、アピチェラにはイモラで数日間、ジョーダン193をテストする機会が与えられた。このマシンは派手さこそないものの、コンパクトなハートV8エンジンを搭載することで堅実な速さを見せていた。しかし信頼性が低く、セッティングの問題もあったため、ポイントを獲得できていなかった。

 そのためブーツェンは、ベルギーGPを最後にチームを離れた。なおブーツェンのレースエンジニアを務めていたのは、プジョーのル・マン・プロジェクトからやってきたティム・ライトであり、ブーツェンが去った後にはアピチェラのレースエンジニアを務めることになった。

「ティエリーは、このままでは自分のキャリアにとって何のプラスにはならないことに気付いていたと思う」

 そうライトは語った。

「スパ・フランコルシャンを、最後のレースにすると決めていた。でもレース開始直後にクラッチが壊れてしまい、たしか半周くらいしか走れなかったと思う。まさに絶望的な状況であった。それで『もう十分だ』と、チームを去ることを決意させたのだろう」

「エンジンにも多くの問題があった。ブライアン・ハートは素晴らしいエンジニアだったが、あのエンジンは彼の最高傑作とは言えなかった。ティエリーのクラッチやエンジンの様々なパーツの故障など、多くの問題があった。つまり全く良い年ではなかった」

「シャシーもかなりひどいモノだった。なんとフロントサスペンションはモノショックだったんだ。まともに動かすのも大変だった」

■僅か800メートル

Derek Warwick, Footwork FA14 Mugen-Honda, is hit and spun by teammate Aguri Suzuki, Footwork FA14 Mugen-Honda, at the start after being tapped by Karl Wendlinger, Sauber C12

Derek Warwick, Footwork FA14 Mugen-Honda, is hit and spun by teammate Aguri Suzuki, Footwork FA14 Mugen-Honda, at the start after being tapped by Karl Wendlinger, Sauber C12

Photo by: Motorsport Images

 アピチェラはモンツァで走り始めると、ジョーダンのマシンに比較的早く慣れたようだった。フリー走行では19番手と18番手で終え、最初のセッションではチームメイトのバリチェロをいきなり上回ってみせた。

 迎えた予選では、バリチェロは19番手。アピチェラはそこから0.5秒ほど遅れたが、クリスチャン・フィッティパルディ(ミナルディ)、ルカ・バドエル(スクーデリア・イタリア)、ペドロ・ラミー(ロータス)を抑えて23番手となった。

「シャシーと空力性能は本当に素晴らしかった。最大の問題は(ハートの)エンジンだった。ドライブしやすいエンジンだったが、パワーが足りなかった」

 そうアピチェラは振り返る。

「馬力がモノを言うモンツァでは、鈴鹿や他のサーキットで発揮したような速さは発揮できなかったんだ」

「セミオートマチックのトランスミッションを搭載した、最初のマシンだった」

「私にとって難しかったのは、コースに出るタイミングを掴むことだけだった。当時の予選では、1セッションにつき、12周しか走れなかったからね。エディは僕を、セッション開始と同時にコースインさせた。トップチームの邪魔をしないようにそうさせたのかもしれないけど、路面はまだ濡れていて、完璧な状態とは言えなかった」

「でもルーベンスとの差はそれほど大きくなかったし、私はかなり満足していた」

 ザウバーのJ.J.レートがグリッド上でエンジンストールしてしまったため、最後尾に回されることになり、アピチェラはひとつ順位を上げることになった。

 ただこれが不運の始まりであった。最後尾スタートとなったレートは半ばフライング気味にスタートを切り、一気に集団の中へ。アピチェラはクリーンなスタートを切ったものの、この中でレートと接触してしまう。チームメイトのバリチェロも、この混乱に巻き込まれた。

 アピチェラはこの接触でスピン。マシンに大ダメージを負い、レースを続けることができなかった。

「最悪だった!」

 そうアピチェラは語る。

「私はイタリア人だから、モンツァはよく知っているコースだ。何度もレースしていた。最初のシケインもよく知っているから、とても慎重に走っていた。でも誰かにぶつけられて、それで終わりだった」

■あまりにも短いF1キャリア

Marco Apicella, Jordan J193 Hart

Marco Apicella, Jordan J193 Hart

Photo by: Rainer W. Schlegelmilch

 アピチェラは全日本F3000への参戦を優先しなければならなかったため、次のポルトガルGPはエマニュエル・ナスぺッティにジョーダン193のシートを譲らなければいけなかった。ナスぺッティはジョーダンでテストドライバーを務め、1992年には資金難に陥ったマーチからF1に数戦出場するなど、豊富な経験を持っていた。しかしそのナスぺッティはエンジントラブルに見舞われ、8周を走ったところでリタイアに終わった。

 ジョーダンはその次の日本GPのシートを、アーバインに託すことを決めた。アーバインは全日本F3000に参戦していたため、鈴鹿サーキットを熟知していた。それを最大限に活かしたアーバインは、予選8番手。バリチェロよりも4つも上のグリッドを獲得した。そして決勝では、バリチェロ5位、アーバイン6位でフィニッシュし、ジョーダンとしてダブル入賞。これがチームにとってこのシーズン初のポイント獲得でもあった。

 つまりアピチェラには、その後F1のレースに出走するチャンスは訪れなかった。結局アピチェラのF1でのキャリアは、わずか800mで終わることになってしまったわけだ。F3000で長く活躍したことを考えれば、あまりにも短すぎるF1キャリアだったと言うしかない。

「アピチェラとナスペッティには、少し同情したよ」

 そう前出のライトは言う。

「エディ(ジョーダン)は才能のあるドライバーを探していただけで、彼らはただそこに放り込まれただけのようなモノだった。特にアピチェラは、マシンのことを全く理解できていなかった。ナスペッティはもう少し多くテスト走行していたけどね。でも、決してドライブしやすいマシンではなかった」

■童夢F105との出会い

Marco Apicella, Jordan J193 Hart

Marco Apicella, Jordan J193 Hart

Photo by: Motorsport Images

 さてイタリアGPを終えた後、アピチェラは日本に戻ってレースを続けた。その年は全日本F3000でランキング4位。翌1994年には、MINE、鈴鹿、富士と3勝を挙げ、シリーズチャンピオンに輝いた。

 そのアピチェラが再びF1に近づくことになった。

 童夢がF1参戦プロジェクトを立ち上げ、マシンを開発。実際にシャシーF105が出来上がり、無限ホンダエンジンを搭載してテスト走行が繰り返された。アピチェラはこの童夢F105を、中野信治ら多くのドライバーと共にテストで走らせた。

 童夢・無限は1997年からのF1参戦を目指していたが、結局これは実現せず。またしてもアピチェラの手から、F1フル参戦のチャンスがすり抜けていった。

「童夢のオーナーである林(みのる)さんは、本田(博俊/無限創業者)さんと友人関係だった」

 そうアピチェラは当時を振り返る。

「ふたりとももっと大きなことを成し遂げたいと思っていたんだろう。当時の日本は、資金の面でも恵まれていた。それで彼らは挑戦し、マシンを製作し、テストも行なった。でも、何かがうまくいかなかった」

「結局のところ、一番の問題は資金不足だったのかもしれない。資金は常に、大きな障害になるからね」

「鈴鹿サーキットのショートコースでテストし、F1で一度も使われたことのない十勝のサーキットでもテストした。だからマシンの性能を正確に把握するのは難しい」

「でもエンジンは良かったし、クルマの見た目も良かった。彼らと経験できたことも良かった。彼らはクルマを作り上げるのが上手いし、非常に優れた風洞も持っている。エンジニアも皆優秀だった。だから、彼らならF1マシンを作れたはずだと確信している。他のF1マシンと比べてどのくらい速かったかは分からない」

 童夢のF1プロジェクトが中止となった後、アピチェラは1997年までフォーミュラ・ニッポン(元全日本F3000)に出場した。その後は全日本GT選手権/スーパーGTに参戦。ル・マン24時間レースにも複数回参戦したが、2009年限りで現役を引退した。現在はフリーランスのテストドライバーを務める傍ら、ヘルメットメーカーであるStiloのレースサービスチームにも所属している。

 アピチェラのF1でのキャリアは、800mと実に短いモノであった。しかし少なくともF1ドライバーになるという夢を叶えた。ただ彼のキャリアをこうして振り返ってみると、もし運命が少しでも違っていたら、もっと長くF1で活躍できたかもしれない。

 しかし現実とは非情なもの。結局はそうはならなかった。

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