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バーニー・エクレストンが、F1で”儲ける可能性”に最初に気付いた時

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バーニー・エクレストンが、F1で”儲ける可能性”に最初に気付いた時
執筆:
2020/05/20 3:40

1974年のベルギーGPは、バーニー・エクレストンがF1の商業的な可能性に最初に目を向けたグランプリであり、その週末は後の全てに影響を与えることになった。

 ブリュッセル近郊のニヴェル・サーキット。このあまり有名でないサーキットは、1972年と74年にF1ベルギーGPの舞台となった。いずれのレースもエマーソン・フィッティパルディが勝利を収めている。

 それほど有名ではないサーキットではあるが、同地で2回目のベルギーGPとなった1974年のレースは、F1の歴史において重要だがあまり知られていない役割を果たし、今のF1を形作る礎ともなった。

 ニヴェル・サーキットは、スパ・フランコルシャンの危険性が問題視されたことにより、代替開催の候補地として名が挙がった。GPDA(グランプリ・ドライバーズ・アソシエイション)は、特に雨天のスパにおける危険性について、長いこと危惧していた。

 その結果1969年のベルギーGPはキャンセルされ、安全対策が施された後、1970年に復活。ただ1971年にジュネーブで開催された会議で再度議論がなされ、GPDAのチームの投票の結果、同年の開催も再びキャンセルとなった。

 それまでのスパ・フランコルシャンは、現在のコースとは異なり、公道も使った1周14kmにもなる長いコースだった。これを使い続ける限り、安全性の問題が解決されることはないとされたのだ。そのため常設部分を含め、コースの全長を約半分にする計画が始動。ただそのプロジェクトには数年かかることが予想された。

 1971年にグランプリを代替開催するサーキットは存在しなかった。同国内にはゾルダー・サーキットがあったが、大勢の観客を受け入れるための設備が整っておらず、F1を開催するには不適切だとみなされたのだ。しかしベルギー自動車クラブは、2年間同国内でグランプリを開催しなかった場合、開催を再申請する権利を自動的に失うことになっていた。そのためスパの改修が完了するのを待つのではなく、なんとしてでも1972年にグランプリを開催する必要があったのだ。

 当時は、イギリスのオールトンパークやブランズハッチで、ベルギーGPを開催するという案も浮上していたが、より現実的な新しいサーキットがすでに建設中だったのだ。

Dave Walker, Lotus 72D Ford and Emerson Fittipaldi, Lotus 72D Ford

Dave Walker, Lotus 72D Ford and Emerson Fittipaldi, Lotus 72D Ford

Photo by: Motorsport Images

 ニヴェール-ボレールは、ブリュッセルから南へ約40分ほど行ったところに作られた。1969年の1月に議会が承認する前から工事が進められていたが、その中心人物だったイヴァン・ドーリアック氏が交通事故で亡くなったことにより、その後の進み具合は鈍化していた。その結果、1971年の4月には「土地を所有する不動産会社は、そこを住宅地にした方がいいと考えているようだ」と報じられている。

 しかし、建設企業家であるロバート・ブノワが、地元自治体との間で63年間のリース契約を結んだことで、作業が進展。1971年の9月5日には最初のレースとしてフォーミュラ・フォード1600選手権を主催することになった。

 1周3.7kmのコースは、長いピットストレートと高速コーナー、そしてトレードマークともいえるタイトなヘアピンを特徴したコースであり、安全性を最優先して作られた。そのため、広大なランオフエリアが設けられ、飛散防止のフェンスが張り巡らされた。コースはもう少し長く、よりチャレンジングなモノになるはずだったが、土地価格の高騰により実現しなかった。

 そのようにサーキットは完全なモノではなかったが、1972年6月に、F1ベルギーGPを開催する権利を手にした。

 1972年の4月には、ヨーロッパF5000選手権のレースを主催した。しかしまだピットビルディングは完成しておらず、ドアも取り付けられていなかった。雨が降るとランオフエリアが泥沼に変わり、その泥がコース上に流れ込んだ。チケット販売やパドックへのアクセスについても問題があった。また地元の住民の中からは、騒音に対する不満の声も上がっていた。

 そして開催された1972年のF1ベルギーGP。その週末には大きな問題はなく、ロータスを駆るフィッティパルディが勝利した。しかし、雰囲気の欠如はあまりにも明白だった……そこは、スパではなかったのだ。

 翌月には騒音の問題に取り組み、サーキット周辺の住民を支援することを目指した組織も作られた。

 ただ1973年のベルギーGPは、ゾルダーで開催されることになった。同サーキットは、F1を迎え入れるのに十分なだけのアップデートが施されたのだ。しかし、路面はF1マシンのグリップに耐えることができず、アスファルトが剥がれてしまい、複数の事故を引き起こした。

Helmut Marko, BRM P153B leads Andrea de Adamich, Surtees TS9B Ford

Helmut Marko, BRM P153B leads Andrea de Adamich, Surtees TS9B Ford

Photo by: Motorsport Images

 その結果、1974年のベルギーGPは、ニヴェールに戻ることになった。当時ある選択肢の中では、悪い考えのようには見えなかった。

 しかし、当時は様々な混乱の中にあった。主催者は地元の商業裁判所によって破産したと宣言されていたのだ。一部の地元の利害関係者は、ベンチャービジネスの成功を望んでおらず、騒音問題によってもプレッシャーをかけ、サーキットの土地を別の用途に活用しようと企んでいたのだ。

 当時ブラバムF1のオーナーであったバーニー・エクレストンは、コンストラクターズ・オーガニゼーションの責任者を務めていた。そして、このニヴェールのレース開催を待ち望んでいた。

 エクレストンは当時、チームを代表して、レースのオーガナイザーとお金に関する問題について戦っていた。そして自身の力を拡大させているところだった。そして後に、彼がF1の開催スケジュールを完全に掌握することとなるのだが、ぞれはずっと先の話だ。

 マールボロとテキサコは、すでにレースのスポンサーになっていた。しかしさらなる資金が必要だった。そのためエクレストンはブリュッセルに赴き、テキサコのスポンサーシップ部門のジョン・グーセンスに会った。また、マルボロの現地法人やベルギー自動車クラブの代表とも会っている。

 この結果、テキサコとマルボロは共にさらに多くの資金を投入することについて同意したが、まだ不足していた。そのためグーセンスは、サーティースF1のスポンサーでもあるバング&オルフセンの責任者であるフレディ・デ・ドライヴァーを引き入れることにした。

「私の父は、『オーケー。お金は用意しよう』と言ったのだ」

 ドライヴァーの息子であるバーナードは、そう回顧する。

「しかし、それはバング&オルフセン・ベルギーGPである必要がある。メインスポンサーになりたかったのだ」

「テキサコ、マルボロ、ベルギー自動車クラブとの間で小さな争いがあった。そして私の父は、『あなた方が私の立場に同意しないのなら、私は支払わない』と言った。父はもう会議を終わらせようとしていたんだが、バーニーは『フレディ、座ってくれ』と言った。そして彼らは契約に同意し、そしてグランプリが開催されたんだ」

 ベルギーを訪れている間、エクレストンはニヴェールにも立ち寄っている。当時はファイヤストンタイヤを履くヘスケスやBRM、サーティースがテストを行なっていた。エクレストンはグッドイヤーのタイヤを使うブラバムのオーナーであり、スパイと疑われ退去を求められたという。

 なお3社の資金によって、サーキットをレンタルし、必要なスタッフを手配するのに十分な金額が集まった。

 ただエクレストンはこれで満足したわけではなかった。彼はチームを代表して働いていたため、各チームの収入も確保しなければならなかったのだ。

 英国オートスポーツ誌のパディ・マクナリーが後に報告したところによれば、入場料収入と広告、そしてプログラムの販売による収入を、各チームに分配するようにしたという。彼らは利益を得つつもリスクも共有したのだ。

 しかしロータスのコリン・チャップマンやティレルのケン・ティレル、マクラーレンのテディ・メイヤーらは、自らのチームの運営に忙しく、そのために収入を失うこともあった。そのためバーニーが、レースへのスタートと賞金収入を個人的に保証するようになったのだ。

Jean-Pierre Beltoise, BRM P160B leads Mike Hailwood, Surtees TS9B Ford

Jean-Pierre Beltoise, BRM P160B leads Mike Hailwood, Surtees TS9B Ford

Photo by: Motorsport Images

 そのため結果的には、1974年のベルギーGPのプロモーターは、エクレストンが務めることになった。

「それが彼らが望んだ最後のことだった。私は個人的に、それをしなければならなかった」

 エクレストンはそう語っている。

「コリンや他のチーム代表のほとんどは、『レースはしたいが、チケットを一般に販売するとか、そういうモノには関与したりしたくはないんだ』という態度だった」

「私が物事を引き継いだ時、チームのために全てを行ない、全てを実行すること、そしてそれらをサポートし、適切な支払いを受けられるようにすることを提案した。そして、私はリスクのために収入の30%を得るつもりだったが、チームはそうはしたくなかった」

「プロモーターのポジションに立てなかったことで、可能な限りの金額を集めてチームに支払うということに行き詰まった。サーキットやその他に支払う資金を見出さねばならなかったのだ。当時はあまり選択肢はなかった。当時はそんなことは思わなかった。もしそれに気付いていたら、その役割を担うことはなかっただろう……」

 エクレストンは、レースへの関心を引き上げるべく、地元の英雄であるテディ・ピレットのために3台目のブラバムのマシンを用意。また日立からの追加の資金も確保した。

 レースウィークエンドに問題がないわけではなかった。フェラーリのクレイ・レガッツォーニが圧倒的な速さでポールポジションを獲得したものの、これはあまりにも速すぎ、タイムキーパーの陰謀すら疑われた。また、パドックやピットレーンへのアクセスに関しても大きな問題があった。

 レースをスタートしたのはなんと31台。この数は、F1史上最多の数である。サーキットの周りには、テキサコ、マルボロ、バング&オルフセンの看板が林立していた。

 ベテランのジャーナリストであるデニス・ジェンキンソンは、次のように記録している。

「絶え間ない広告と宣伝の仕掛けにより、サーキット全体が爆発したようだった」

 サーキットには7万人の観客が訪れ、彼ら全員がチケットとプログラムを購入することになった。

「チームは本来支払われるべき金額を受け取ることができた」

 そうエクレストンは語る。

「私は、何が起きてもそれを実行することを約束していた。お金が入らなかった場合でも、私はそれを支払うことを約束していたのだ」

 エクレストンはその上で、個人的にも利益を手にしていた。前出のマクナリーは、なぜベルギー自動車クラブがレースのプロモートをしなかったのかについて疑問視。「一部の人々は、気弱な主催者が、F1コンストラクターの策略にまんまとハマったと主張するだろう」と語った。

「コンストラクターは、すでにオーガナイザーのある一部の領域を引き継いだ。そして、根拠はないが、スキャンダラスな話もある。彼らは、グランプリ開催の全てのオペレーションを担うことを望んでいると示唆している」

Emerson Fittipaldi, McLaren

Emerson Fittipaldi, McLaren

Photo by: Motorsport Images

 数年後、それは現実のモノとなった。エクレストンにとって、1974年のベルギーGPの際に、レースのオーガナイザーを裏側から見ることができたということは、貴重な教訓と言えただろう。

「それがどのように機能しているかは知らなかった」

 そうエクレストンは語る。

「我々は学ぶ必要があったのだ」

 エクレストンの仕事には、マクナリーも参加することになった。彼はサーキットの看板、プログラム、ホスピタリティを、オールスポート社を通じてコントロールし、その過程で大金を稼いだ。彼がそれを実現できたのには、英国オートスポーツ誌のジャーナリストのふりをして、1974年のベルギーGPの際に、エクレストンが何をしているか……それを注視していたからだ。

 フレディ・ド・ドライヴァーは、その幸運を逃してしまったひとりだ。彼の息子は次のように振り返る。

「レース後、バーニーは私の父のところにやってきて、『フレディ、私がやりたいことをあなたに示した。私にはあなたのような存在が必要なのだ』と言ったんだ。しかし父は『バーニー、申し訳ない。私にはたくさんの仕事があるので、引き受けることができない』と答えた。でもその数年後、彼は『おそらくあの申し出は、受け入れるべきだったのかもしれない……』と考えていた」

 グランプリは、1975年にはゾルダーに戻された。ニヴェールではそれ以降、国際的なレースが行なわれることはなく、国内レースで使われることすらほとんどなかった。そして1978年、その会場がオークションにかけられた。それに興味を示したのは、興味深いことにバーニー・エクレストンだった。

 1979年に短くなったスパ・フランコルシャンがオープンすると、ニヴェールの存在感はさらに薄れていった。1979年11月17日に最後の自動車レースが行なわれ、1980年の2月5日には、ベルギー自動車クラブの公認も外された。バイクのレースは、翌年まで開催された。

 隣接するカートコースもしばらくの間は存続し、1980年にはアイルトン・セナ・ダ・シルバが2位になった、カートの世界選手権が開催された。そのブラジル人レーサーの走りは、当時11歳で観客席にいた、ミハエル・シューマッハーという名の少年に驚異的な印象を与えた。

 その後、サーキットの状況は悪化していき、州政府と地方政府が関わる、法的な複雑さの中に取り残されていった。敷地は適切に封鎖されていなかったため、何年もの間に人々は忍び込み、暴走することもできた。

 2000年代初めには、工業団地の用地として採用されたが、サーキットの大部分はフェンスの向こうに取り残されたまま。自然に破壊されていった。

 サーキットの前半は、アクセス道路に活かされていた。そして2014年の6月には、F1グランプリ開催40周年を記念したイベントが開催された。

 この日のイベントには様々な歴史的なマシンが持ち込まれ、1974年のグランプリでティム・シェンケンがドライブし10位になったトロージャンのF1マシンも含まれていた。そしてモータースポーツの会場としての、数奇の歴史が終わることになった。

Track at Nivelles-Baulers

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Photo by: Adam Cooper

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シリーズ F1
執筆者 Adam Cooper