とんでもねえ奴と同じ時代に生まれちまったもんだぜ……”最強の敗者”F1ランキング2位が最も多いドライバーってだ〜れだ?
1950年から続くF1世界選手権。2022年シーズン終了時点では、ミハエル・シューマッハとルイス・ハミルトンが7度のドライバーズタイトル獲得で最高記録タイとなっている。では、ランキング2位を最も獲得しているドライバーは誰なのだろうか? F1の歴史を紐解いてみよう。
就職活動の説明会や面接では、よくこんな質問を投げかけられることがある。
「日本で2番目に高い山はどこか?」
「世界で2番目に高い山はどこか?」
これは答えられないことが前提の質問で、「2位以下が人々に記憶されることはない」ということを暗に意味している。しかしこれは就職に限った話でなく、競争の世界では尚更だ。
1950年から始まったF1世界選手権。設立から73年目となった2022年シーズン終了時点では、ミハエル・シューマッハとルイス・ハミルトンが7度F1世界チャンピオンに輝き、タイトル最高獲得回数で並んでいる。しかし、惜しくも2位に終わったドライバーは忘れ去られることが多い。
本稿では、F1ドライバーズランキングで2位獲得回数が多いドライバーを紹介する。
ルイス・ハミルトン:3回(2007年、2016年、2021年)
Lewis Hamilton, McLaren MP4-22 Mercedes
Photo by: Andrew Ferraro / Motorsport Images
ハミルトンは、2008年にマクラーレン、2014年と2015年、2017年と2019年、2020年はメルセデスでF1世界チャンピオンを獲得。シューマッハーと並び最も獲得回数の多いドライバーではあるが、同時にタイトルを逃した回数も多い。
まずはF1デビューイヤーの2007年。”秘蔵っ子”として初年度からトップチームであったマクラーレンに所属し、2度のF1世界チャンピオンであったフェルナンド・アロンソとコンビを組んだ。
ハミルトンは第6戦のカナダGPで初勝利を挙げると、シーズン終盤までポイントリーダーに立っていた。しかし立場の危ういアロンソとの仲が険悪になる中でミスやトラブルに泣き、最終戦でフェラーリのキミ・ライコネンにタイトル獲得を許した。王者ライコネンと、ハミルトン&アロンソのポイント差はたった1点だった。
2回目のランキング2位はチームメイトだったニコ・ロズベルグに破れた2016年。F1がハイブリッド時代に入って以降”向かうところ敵なし”の強さをメルセデスだったが、チーム内での抗争は激しくこの年はスペインGPとオーストリアGPでロズベルグとハミルトンは同士討ちを演じた。ハミルトンはシーズン終盤で破竹の4連勝を挙げるも、シーズン中にエンジントラブルがハミルトンに集中したこともあり、タイトル獲得を逃した。
ハミルトンは2021年にもタイトル争いの末に敗れている。今度はチームメイトではなく他陣営で、相手はマックス・フェルスタッペン(レッドブル)だった。この年も激しいタイトル争いがシーズンを通して繰り広げられ、最終戦アブダビGPではセーフティカー解除手順に混乱があったもののフェルスタッペンが初の世界チャンピオンに輝いている。
セバスチャン・ベッテル:3回(2009年、2017年、2018年)
Sebastian Vettel, Ferrari SF71H, walks away from his car after crashing out from the lead
Photo by: Steve Etherington / Motorsport Images
2022年シーズン末でF1から引退した4度の世界チャンピオンであるセバスチャン・ベッテルも、ランキング2位を3度経験している。
1度目はホンダのワークスを引き継いだブラウンGPが脅威の速さを見せた2009年。ベッテルが所属するレッドブルも第5戦中国GPでチーム初勝利を記録し、シーズン中盤から安定して勝利を重ねるようになったものの、シーズン前半にポイントを荒稼ぎしていたブラウンGPのジェンソン・バトンが最終戦を待たずして第16戦ブラジルGPでタイトルを決めている。なおその翌年から、ベッテルがレッドブルで4年連続のチャンピオンを獲得している。
ランキング2位を続けて獲得した2017年と2018年、ベッテルとフェラーリの前にはメルセデスとハミルトンの最強タッグが立ちふさがった。2シーズンとも序盤は一進一退のタイトル争いが繰り広げられたものの、サマーブレイク以降で失速。2018年シーズンは首位走行中にブレーキングを見誤りリタイアを喫することもあるなど、ミスも目立った。
フェルナンド・アロンソ:3回(2010年、2012年、2013年)
Fernando Alonso, Ferrari
Photo by: Andrew Ferraro / Motorsport Images
2005年と2006年に2年連続で世界チャンピオンとなっているアロンソは、マクラーレンとルノーを経て2010年からフェラーリへ移籍。この年はハミルトンとバトン、ベッテルとそのチームメイトであるマーク・ウェバー、そしてアロンソがタイトル争いを繰り広げる大混戦となった。アロンソはポイントリーダーとして最終戦アブダビGPを迎えたものの、肝心の決勝レースでは苦戦……ベッテルに初の戴冠を許した。
2度目のランキング2位となった2012年、3度目の2013年も破れた相手もレッドブルのベッテル。2012年は3ポイント差と奮闘するも、2013年は155ポイント差をつけられた。
ベッテルとレッドブルがいなければ、アロンソのタイトル獲得数は3以上になっていたかもしれない。
ナイジェル・マンセル:3回(1986年、1987年、1991年)
Nigel Mansell, Williams FW14 Renault retires from the race as he runs over the kerb and spins off at First Curve. Ayrton Senna, McLaren MP4/6 Honda continued to take 2nd position
Photo by: Motorsport Images
ナイジェル・マンセルは1992年に世界チャンピオンに輝くまでに3度ランキング2位を経験している。
1986年はポイントリーダーで最終戦を迎え、3位以上でチェッカーを受ければ初タイトルが決まるというレースだったものの、3位走行中にタイヤがバーストしてリタイアし、タイトルはアラン・プロストへ。翌1987年はウイリアムズ・ホンダでチームメイトだったネルソン・ピケとの一騎打ちとなったものの、第15戦日本GP予選でマンセルがクラッシュを喫し、ピケの戴冠が決まった。
その後マンセルは一度フェラーリを経て、1991年から再びウイリアムズに復帰。シーズン序盤は信頼性トラブルが頻発しマクラーレン・ホンダのアイルトン・セナに先行されたものの、シーズン中盤以降はウイリアムズが速さを見せはじめた。ただ、逆転チャンピオンの可能性を残して臨んだ第15戦日本GPではコース逸脱によりリタイアを喫し、3度目の正直とはならなかった。
しかしマンセルは翌1992年に、アクティブサスペンションなどの電子デバイスを搭載したウイリアムズ『FW14B』を駆り、16戦中14回のポールポジション、計9勝を記録して初のF1世界チャンピオンに輝いている。
グラハム・ヒル:3回(1963年、1964年、1965年)
Graham Hill, BRM P57
Photo by: Motorsport Images
グラハム・ヒルは1962年と1968年に2度F1世界チャンピオンに輝いているが、その間には3度ランキング2位を経験している。当時のF1ではBRMのヒルとロータスのジム・クラーク、フェラーリのジョン・サーティースがタイトルを争い、1963年にはクラーク、翌1964年にはサーティースにタイトル獲得を許した。ヒルは1965年に再びクラークに破れたことに加え、ルーキーのジャッキー・スチュワートの台頭やチームの苦戦もあり1966年を最後にBRMを離れている。
ロータス移籍2年目となった1968年には、チームメイトのクラークがF2参戦中のクラッシュにより命を落とす中、チームを牽引し2度目の世界チャンピオンに輝いている。
なお1996年の世界チャンピオンで息子のデイモン・ヒルは、1994年と1995年にランキング2位を記録している。
アラン・プロスト:4回(1983年、1984年、1988年、1990年)
The wrecked cars of Alain Prost, Ferrari 641 and Ayrton Senna, McLaren MP4/5B Honda
Photo by: Motorsport Images
ベッテルと同じく4度世界チャンピオンに輝いているアラン・プロストは、同じ数だけランキング2位という悔しい思いを経験している。
ルノーから参戦した1983年、ブラバムのピケとフェラーリのパトリック・タンベイとのタイトル争いで後半戦に向けて頭ひとつ抜け出すこともあったプロストだが、ピケとの接触もあってフェラーリのルネ・アルヌーも加わる四つ巴へとタイトル争いが激化……最終的にピケに2ポイント及ばず逆転チャンピオンを許した。
翌1984年、ルノーからマクラーレンへ移ったプロストの前に立ちふさがったのはチームメイトのニキ・ラウダ。この年、プロストはラウダよりも2勝多い計7勝をマークしたものの、ベテランにはわずか0.5ポイント及ばなかった。ただトールマンのアイルトン・セナが猛追する中、自ら中断を訴えた大雨のモナコGPを仮に走りきってフルポイントが付与されていれば、1年早くタイトルを掴めていたかもしれない。
プロストは1985年と1986年はマクラーレンで蜜月期を過ごし、ドライバーズタイトルを2連覇。しかし1987年はホンダエンジン勢に抗いきれずランキング4位、1988年からはマクラーレンでホンダエンジンを手にしたもののチーム新加入のセナとのタイトル争いの末に敗れ、1988年はランキング2位となった。
当時プロストとセナの確執は頂点に達しており、プロストのマクラーレン在籍最終年となった1989年日本GPでの接触はあまりにも有名な話だ。シケインでの交錯後、プロストはマシンを即座に降りた一方で、セナはレースを続行しトップチェッカーを受けるも、最終的に”押しがけ”が原因でセナが失格扱いに。雨の最終戦オーストラリアGPでプロストが棄権を選び、セナもリタイアを喫したことで、プロストが3度目のタイトルを手にしてフェラーリに移籍した。
ふたりの遺恨は990年にも響いた。セナがポイントリーダーで迎えた第15戦日本GPでは、スタート直後にセナがアウト側にいたプロストを押し出す形で交錯し両者はリタイア。今度はセナがタイトルを手にし、プロストは4度目のランキング2位となった。
スターリング・モス:4回(1955年、1956年、1957年、1958年)
Stirling Moss, Mercedes Benz W196
Photo by: Motorsport Images
スターリング・モスは、4度に渡りランキング2位を獲得しながらも、1度も世界チャンピオンに届かなかったことから”無冠の帝王”と称される。
モスの前に立ちはだかったのは、5回のタイトル獲得を誇るファン・マヌエル・ファンジオ。1955年はメルセデス・ワークスへ加入し、最強と謳われた『W196』を駆り第6戦イギリスGPをポール・トゥ・ウィンという形で制しF1初優勝を挙げるも、チームメイトだったファンジオは全7戦中4勝(当時組み込まれていたインディ500を除けば6戦4勝)を挙げてタイトルを掴んだ。
メルセデスの撤退に伴い1956年にモスはマセラティへ移籍するも、フェラーリへ移ったファンジオに再び戴冠を阻まれ、翌1957年はそのファンジオがマセラティに移籍したことでモスはヴァンウォールへ。この年もモスはランキング2位となった。
1958年限りでファンジオがF1へのフル参戦を終了し、1959年にモスはフェラーリのマイク・ホーソーンとタイトルを争うことに。モスは全11戦中4勝をマークしたものの、第6戦フランスGPの2位を除いて他全てでリタイア……結果、コンスタントに表彰台獲得を重ねてフランスGPで1勝を挙げたホーソーンに世界チャンピオン獲得を許した。
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