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初の親子制覇が目前だった……ジャック・ビルヌーブは何故モナコGPで勝てなかったのか

父ジルが成し遂げたF1モナコGP優勝という偉業に続こうと、ジャック・ビルヌーブは過去に2度“勝てるクルマ”でモナコに乗り込んだが、それらはいずれも最悪のレースに終わった。

Jacques Villeneuve,  Williams FW19

Jacques Villeneuve, Williams FW19

Sutton Images

 1981年、フェラーリのジル・ビルヌーブはF1モナコGPで躍動し、印象的な勝利を挙げた。チームメイトのディディエ・ピローニを含めた他のターボエンジン勢が苦戦する中でフロントロウを獲得し、熟成されたマシンとは言えないフェラーリ126CKをねじ伏せながらトップチェッカーを受けたその走りは、ジルを伝説の存在として昇華させるのに大きな役割を果たした。

 そして15年の歳月が流れ、1996年のモナコGPにジャック・ビルヌーブがやってきた時、人々は彼に大いに期待した。何を隠そう、彼はジルの息子だったからだ。

 1995年にアメリカのCARTでチャンピオンを獲得したビルヌーブは、翌1996年にF1デビュー。それも当時強力なマシンを開発していた名門ウイリアムズからの参戦だった。彼はデビュー戦でポールポジションを獲得し、第4戦ヨーロッパGPで早くも初優勝を挙げるなど、チームメイトでありタイトル最有力候補だったデイモン・ヒルを苦しめる活躍を見せていた。

 そんな中で迎えたモナコGP。無論ビルヌーブには大きな期待が寄せられていた。ここで優勝すれば、史上初となる親子2代でのモナコ制覇が達成されるからだ(もっとも、それはヒルも同じ状況だったが)。しかしビルヌーブはこのレースでリタイア。翌1997年も、最強マシンで臨みながらリタイアに終わった。

 その後、ビルヌーブが“勝てるマシン”でモナコにやってくることはなかった。ルノーのワークス撤退によりウイリアムズが戦闘力を欠いた1998年は5位、2001年はB.A.Rで4位に入ったが、モナコでの入賞はこの2度にとどまった。

 では何故、ビルヌーブは速いマシンを手にしていた2年間でモナコ制覇を成し遂げられなかったのか? 当時のインタビューを元に紐解いていく。

■コースの習熟に苦戦、レースでも歯車が噛み合わなかった1996年のモナコ

Jacques Villeneuve, Williams FW18 Renault

Jacques Villeneuve, Williams FW18 Renault

Photo by: Motorsport Images

 1997年モナコGPの数週間前、彼は前年のモナコ初挑戦に関して次のように振り返っていた。

「それは勝つのが最も難しく、また最も簡単なレースだ」

「インディ(500マイルレース)に少し似ている。簡単にミスをしてしまうので勝つのが難しく、必ずしも最も速い者が勝つとは限らない」

「ストリートコースという意味では、ラリーにも似ている。トラックのグリップレベルは年によって僅かに変化するため、最終的なラインはどうなるのか分からない」

「まだ僕がF1ドライバーになる前のモナコでのことを覚えている。レースウィークエンドはまるでバカンスのようだった。そこで働いていない人々にとっては素晴らしい週末だけど、チームやドライバーにとってはおそらく最悪の週末だろう」

「僕は去年狂ったようにセットアップに取り組んでいたと思う。モナコは他のトラックよりも習熟に時間がかかるんだ。F3に乗っていた時からそれは知っていたけど、その時のマシンはもっと幅が狭いものだった。壁との距離が20cm近くなると、それだけで大きな違いがあるんだ」

「デイモンがすぐに速いタイムを出す一方で、僕たちは思ったセットアップの方向性からどんどん離れていってしまっていた。僕のエンジニアのジョック(クレア)は今年のセットアップにこれまでとは異なるアイデアを採用した。うまくいくかは分からないけど、うまくいくことを願っている」

 そのビルヌーブのコメント通り、1996年モナコGPでのビルヌーブは予選から大いに苦戦した。予選では2番手タイムを記録したチームメイトのヒルから1秒遅れの10番手に沈んだのだ。

「(予選で)僕は他のトラックではデイモンの1秒以内にいた。他のドライバーが1秒以上離される中でもね。だから悪くても2番手でスタートできていたんだけど、モナコでは10番手になってしまった」

 抜きどころのないモナコにおいて10番手スタートは絶望的に思われたが、決勝での雨がチャンスの扉を開いた。忍耐強くレースを戦えば結果に繋がるかもしれない……そんな日だった。

Jacques Villeneuve, Williams FW18 Renault

Jacques Villeneuve, Williams FW18 Renault

Photo by: Motorsport Images

 レースはポールシッターのミハエル・シューマッハー(フェラーリ)がオープニングラップでバリアにぶつかりリタイアするという波乱の幕開けとなり、ビルヌーブはそれに乗じて順位を上げていたが、路面コンディションが変化する中ドライタイヤに変更するタイミングに失敗した。

「僕にできることは何もなかった」とビルヌーブは振り返る。

「問題だったのはピットに入るタイミングが遅かったということだ。もっと早く入りたかったけど、ウエットからドライになるという状況は初めてだったんだ」

「それにチームは十分な燃料を入れてくれなかった。何故かデータが機能していなかったので、僕がどれだけ燃料を使っているのか分かっていなかったんだ。僕は『とにかく燃料を節約して』と言われていたので、出来るだけ速く走りながらも、ブレーキングエリアの50m手前からアクセルを離すようにした。そしたらミカ・サロ(ティレル)が迫ってきた。彼は僕とレースをしていたけど、僕はレースをしている感覚ではなかった」

 レース終盤、燃費走行を強いられていたビルヌーブは4番手のジョニー・ハーバート(ザウバー)を追いかけながらも、サロとミカ・ハッキネン(マクラーレン)に迫られていた。ハッキネンがサロを交わして順位を上げると、ビルヌーブはさらに大きなプレッシャーにさらされることとなった。

 そしてビルヌーブは周回遅れのルカ・バドエル(フォルティ)とミラボーで遭遇。これが彼にとってのターニングポイントとなった。

Johnny Herbert, Sauber C15 Ford leads Jacques Villeneuve, Williams FW18 Renault, Mika Häkkinen, McLaren MP4/11 Mercedes

Johnny Herbert, Sauber C15 Ford leads Jacques Villeneuve, Williams FW18 Renault, Mika Häkkinen, McLaren MP4/11 Mercedes

Photo by: Motorsport Images

「僕はイライラしていた。ただオーバーテイクが難しい中でも、シケイン、ロウズ(ヘアピン)では相手がミスをすればチャンスがあるかもしれないと思っていた」

「ジョニーに近付くこともあったけど、燃料をセーブしないといけなかったのでなかなか交わせなかった。そしてジョニーが(ミラボーで)バドエルを抜いた時、僕もそこに続かないといけないと思った。次のコーナーがロウズだったからだ」

「僕にはあまり選択肢がなかったので、そこで行くことにした。そうしないと後ろにいるハッキネンが(ロウズで)僕をパスしようとしただろう。でもバドエルがターンインしてくるともうそこにはスペースがなかった、そして僕たちは接触したんだ……」

 この接触によりビルヌーブはマシンにダメージを負い、リタイアとなった。バドエルは後に罰金と執行猶予付きの出場停止処分を受けたが、ビルヌーブにとっては何の慰めにもならなかった。一方チームメイトのヒルもトップ走行中にマシントラブルに見舞われており、ウイリアムズは全滅。共に親子2代でのモナコ制覇という夢を果たせなかった。このレースを制したのは、14番手スタートのオリビエ・パニス(リジェ)だった。

■不可解なギャンブルは大失敗、悪夢のような週末となった1997年のモナコ

Jacques Villeneuve,  Williams FW19

Jacques Villeneuve, Williams FW19

Photo by: Sutton Images

 1997年、ビルヌーブはハインツ=ハラルド・フレンツェンを新たなチームメイトに迎え、ウイリアムズで2年目のシーズンを迎えた。開幕4戦を終えた時点で、ビルヌーブが2勝、フレンツェンもサンマリノGPで勝利を挙げるなど、ウイリアムズの速さは前年に続いて健在だった。

 そして迎えた第5戦モナコGP。ウイリアムズの2台が圧倒的に優位なレースと思われたが、彼らはまたしても勝つことができなかった。

 ビルヌーブはこの年のモナコGPについても、後にコメントを残している。

「僕たちに関する“黒歴史”は、主にモナコの事だと言っていいだろう」

「僕たちは戦略面で大きなギャンブルをした。でもそれはうまくいかなかったんだ……」

 この年のモナコでのビルヌーブは前年ほどの苦戦はしなかったものの、ポールポジションはフレンツェンに奪われる格好となり、開幕から続いていた連続ポールポジション記録が4でストップした。2番手にはフェラーリのシューマッハーが入り、ビルヌーブは3番グリッドに着いた。

「昨年全くダメだった予選で3番手、しかもトップからわずか0.3秒差というのは悪くなかったけど、僕の気分は最悪だった。アタックでミスをしてしまったからだ」

「僕の強みはプールサイドのエリアからスタート/フィニッシュラインにかけてだったけど、僕はそこでミスをしてしまったんだ。何故かは分からない。(モナコの)予選での酷い走りで批判されていたから、3番手というのは悪くない順位だったんだけど……」

 ビルヌーブが言うように、3番グリッドは悪い位置ではなかった。奇数グリッドはレーシングライン上にあるため、スタート直後のサン・デボーテで2番手に上がる事は比較的容易だからだ。

 しかしながら、レース直前になって雨が降り始めた。これは途中で収まったが、依然として路面は濡れている、そんな状況だった。シューマッハーとフェラーリはここから雨が強くなると予想。誰よりも遅くレコノサンスラップを行なった後、よりダウンフォースの大きいウイングに付け替え、ウエットタイヤを装着した。

 一方でウイリアムズ陣営は、ドライタイヤでレースをスタートするという理解しがたい決断をする。彼らは当時、独自の気象予報サービスを利用していたが、その情報は他とは少しずれていた……。

Jacques Villeneuve,  Williams FW19

Jacques Villeneuve, Williams FW19

Photo by: Sutton Images

 ウイリアムズの名誉の為に補足すると、マクラーレンもハッキネンにドライタイヤを履かせていた。しかし彼らは、デビッド・クルサードのマシンにはウエットタイヤを履かせ、チームとしてリスクヘッジをしていた。

「最後に決めるのはドライバーだ。ドライバーが最終決定をする」とビルヌーブ。

「ただ、マシンの中にいると、傘だったり大きな木があったりで、空模様が見えないんだ……。スタート/フィニッシュラインはそれほど濡れていなかったけど、実はカジノあたりは濡れていた。ミハエルが最後に(レコノサンスラップを)走っていたのをスクリーンで見ていれば、僕たちもそれが分かっただろうね」

「半々の状況だった。インターミディエイトタイヤを履きたいとも思ったけど、その後雨が止んだ。そこで僕は思ったんだ。『勇気を出してリスクを負えば、うまくいくかもしれない』と」

「フォーメーションラップに向かった時、雨がまた降り始めた。『やられた』と思ったけど、もう遅かった……」

 ドライタイヤでフォーメーションラップを走り、グリッドへと向かう中で、ビルヌーブは迷っていたという。

「僕たちは(フォーメーションラップ中にピットインして)タイヤを変えることもできたかもしれないけど、僕たちはその時点で『リスクを冒せば全力を尽くせる』と思った」

「もしピットに入ったら最後尾に落ちてしまうし、それこそ大きなリスクになる。しかし一旦ギャンブルをすると決めたのであれば、その道を行った方が良い。マシンはドライ用(セッティング)になっていて、ウエットではどの道うまく機能しなかっただろう」

Jacques Villeneuve, Williams FW19 Renault, followed by Jean Alesi, Benetton and Mika Hakkinen, McLar

Jacques Villeneuve, Williams FW19 Renault, followed by Jean Alesi, Benetton and Mika Hakkinen, McLar

Photo by: Motorsport Images

 ウイリアムズ2台の戦略は大失敗に終わった。ビルヌーブはスタートから順位を落としながらも何とかコース上に踏みとどまっていたが、結果的に数周した後ピットに入り、インターミディエイトタイヤへと交換。最後尾に落ちた。

「最悪だった。何もできることはなかった。ただただマシンがスライドした。この作戦が大失敗だということは分かったけど、時を戻すことはできない」

「『おいおい、レースが台無しになっちまったよ』という感じだった。まだ数ポイントは回収できたかもしれないけど……」

 レースリーダーであるシューマッハーに周回遅れにされるという憂き目に遭ったビルヌーブは、バリアに接触した際のダメージによって、わずか17周でリタイアした。その後フレンツェンもクラッシュしたことにより、ウイリアムズ勢はまたしても全滅。1990年代は圧倒的な強さを見せていたウイリアムズだが、その間にモナコGPを制することは一度もなかった。

 1997年のドライバーズチャンピオンに輝いたビルヌーブは、この後自身がFW18やFW19のような競争力のあるマシンに恵まれないとは想像もしていなかっただろう。モナコでの2度の失敗がなければ、彼はグラハム・ヒル以来となる“世界三大レース制覇”にも大きく近付いていたはずだ。

 なお、ビルヌーブが成し遂げられなかった親子2代でのモナコ優勝は、2013年にニコ・ロズベルグ(メルセデス)の手によって成し遂げられることとなる。

 

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Photo by: Motorsport Images

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