【特集】遅咲きの2世ドライバー……デイモン・ヒルが振り返るF1ベストレース5選
デイモン・ヒルが史上初となる親子2代でのF1ワールドチャンピオンに輝いて25年が経とうとしている。そんなヒルのF1時代のベストレースを本人の回想と共に紹介する。

1962年、1968年のF1ワールドチャンピオンであるグラハムを父に持つデイモン・ヒル。2輪でレースキャリアをスタートさせ、F1デビューは30歳を過ぎてから。しかし1996年には王座を獲得し、史上初となる親子2代でのF1チャンピオンとなった。そんなヒルのキャリアベストレースを、本人の回想を交えながら振り返っていく。
5. 1998年ベルギーGP
マシン:ジョーダン198
グリッド:3番手
決勝結果:優勝

Start action
Photo by: Steve Etherington / Motorsport Images
ヒルがキャリア最後の勝利を挙げた1998年のベルギーGPは、雨により大荒れのレースとなった。このレースでチームオーダーが出されたこと、そして“真の勝者”をラルフ・シューマッハーだとする声があることは、ここでは忘れよう。首位のミハエル・シューマッハーがリタイアしたその瞬間から、ヒルは勝者にふさわしい存在だった。
1998年シーズンはマクラーレンとフェラーリによるタイトル争いが繰り広げられていたが、スパ・フランコルシャンで行なわれたベルギーGPの予選ではジョーダンのヒルがフェラーリ勢を出し抜き、マクラーレン勢に次ぐ3番グリッドを確保した。スタート直後には、デビッド・クルサード(マクラーレン)がウォールにヒットしたことを発端とする多重クラッシュが発生し、半数以上のマシンがこれに巻き込まれたが、ヒルはなんとかこれをかいくぐった。
レースは即座に赤旗中断となり、再スタートが切られた。そこで好発進を見せたヒルは、スペアカーを駆るクルサードと、ポールポジションのミカ・ハッキネン(マクラーレン)をまとめて抜き去り、トップで1コーナーのラ・ソースを抜けた。ハッキネンはそのラ・ソースでスピンしリタイア。クルサードも直後にスピンオフを喫したことで、ヒルがフェラーリの2台を従えるという展開となった。
44周のレースの8周目、ミハエル・シューマッハーがブランシモンでヒルに並びかけ、バスストップ・シケインでオーバーテイク。ここで首位が入れ替わった。ミハエル・シューマッハーは瞬く間に後続との差を広げていくが、ヒルも悪化していくコンディションにマシンセットアップが合っていないにも関わらず、3番手以下を引き離していた。
そんな中、25周目にドラマが起きる。トップを行くミハエル・シューマッハーがクルサードを周回遅れにしようとする際、クルサード車のリヤに追突。リタイアとなったのだ。再びレースリーダーとなったヒルはこの時点でチームメイトのラルフ・シューマッハーを14秒リードしていたが、ジャンカルロ・フィジケラ(ベネトン)と中野信治(ミナルディ)のクラッシュでセーフティカーが出動したため、その差はなくなってしまった。

Damon Hill, Jordan 198 Mugen-Honda leads Ralf Schumacher, Jordan 198 Mugen-Honda and Jean Alesi, Sauber C17-Petronas
Photo by: Motorsport Images
レースは残り12周で再開された。ヒルは背後に迫るラルフ・シューマッハーの追撃を受けたが、ここで彼は、2台のマシンがバトルをしないことがジョーダンにとっての利益になるとチームに指摘。代表のエディ・ジョーダンもそれに納得し、チームオーダーを出して順位を維持させた。その結果、ジョーダンは創設以来初の優勝をワンツーフィニッシュで達成することになる。
ヒルのそれまでの勝利は全て、1990年代を代表する最強パッケージ、“ウイリアムズ・ルノー”で挙げたもの。それ故にヒルは過小評価される傾向にあったが、英国Autosport誌のナイジェル・ローバックは、このレースでヒルのベストラップがラルフ・シューマッハーよりも3秒近く速かったことを指摘し、次のように述べていた。
「素晴らしいレースだったし、このレースで彼が3位以下になることは間違いなくなかっただろう。そして『ヒルはウイリアムズ・ルノーに乗っていたから勝てただけ』という考えは、ついに覆されたのだ」
そしてヒル自身は次のように語っていた。
「このサーキットでこれまでにないくらい良い走りができたと思っている」
「運が味方していなかったとは言わないが、僕たちはこの週末の間ずっと戦い続けていたし、この結果にふさわしいと思う」

Race winner Damon Hill, Jordan
Photo by: Sutton Images
4. 1994年オーストラリアGP
マシン:ウイリアムズFW16B
グリッド:3番手
決勝結果:リタイア

Damon Hill, Williams FW16B
Photo by: Motorsport Images
ヒルは自身のF1キャリアにおいて、最終戦までもつれるタイトル争いのプレッシャーを2度経験している。1994年と1996年だ。実際にタイトルを勝ち取ったのは後者の方だが、前者の方がF1ファンの印象に強く残っている。「ミハエル・シューマッハーは競争力のあるマシンに乗っていなかったし、(ジャック)ビルヌーブはタイヤが外れたんだけどね!」とヒルは自虐気味に言う。
1994年シーズンは、ベネトンを駆るシューマッハーと、アイルトン・セナ亡き後のウイリアムズのエースとなったヒルとの一騎討ちとなった。シーズン前半はシューマッハーが圧倒的な強さを誇っていたが、中盤戦以降の度重なる失格騒動と出場停止により、ヒルが肉薄。第15戦日本GPではヒルが改良版のFW16Bで見事な走りを見せ優勝し、タイトル争いは最終戦オーストラリアGPに持ち越された。シューマッハー92点、ヒル91点。その差はわずかに1点だ。
後にヒルは間の悪い行為だったと認めているが、彼はアデレード市街地で行なわれるオーストラリアGPを前にチームのサポートに対して疑問を呈していた。そのおかげかフリー走行はうまくいかず、予選でもチームメイトのナイジェル・マンセル、そしてシューマッハーの後塵を廃し3番手に甘んじた。
決勝レースがスタートすると、ポールシッターのマンセルはホイールスピンを喫し、タイトルを争うふたりに瞬く間に飲み込まれた。シューマッハーがヒルに2.1秒の差をつけてオープニングラップを終えたが、翌周ヒルはそれを0.5秒縮め、そこからは膠着状態に。11周を終えた時点で、3番手を走るマクラーレンのハッキネンは彼らの18秒も後方となっていた。
共に1回目のピットストップを終えた後も、両者の位置関係は変わらず。シューマッハーは34周終了時にヒルとの差を2.9秒まで拡大したが、ヒルはすぐさまその差を2秒前後まで縮めていた。

Michael Schumacher, Benetton B194 Ford leads Damon Hill, Williams FW16B Renault
Photo by: Motorsport Images
そして36周目、シューマッハーはウェイクフィールドの左コーナーでウォールにヒット。マシンの右リヤにダメージを負った。そこにヒルが接近し、続く右コーナーでシューマッハーのインサイドに飛び込んだが、そこで両者は接触し、ベネトンのマシンは宙を舞ってバリアに突き刺さった。
ヒルは走行を続けたが、シューマッハーとの接触による左フロントサスペンションのダメージは致命的で、ピットに戻るとマシンを降りた。これにより、シューマッハーの1994年F1ワールドチャンピオンが決定した。
シューマッハーはその後、「とても僅差だったし、どちらがタイトルを獲ってもおかしくなかった。ここ2戦でデイモンはしっかりとした素晴らしい仕事をしていたと思う」と語り、終盤戦のヒルの仕事ぶりを称えた。ヒル自身もシューマッハーを追い詰めたアデレードでの走りを誇りに思っており、次のように話した。
「僕にとって、あのレースはああいう形で終わってしまうまで“鈴鹿パート2”のようだった。レースペースは強烈だったし、ミハエルにプレッシャーをかけることができていた。彼は無理をした結果コースオフしたんだ」
3. 1996年モナコGP
マシン:ウイリアムズFW18
グリッド:2番手
決勝結果:リタイア

Damon Hill, Williams FW18 Renault
Photo by: Motorsport Images
ヒルの父グラハムは、かつてモナコGPを5度制し“モナコマイスター”と呼ばれたドライバーだ。息子デイモンは最終的にヒル家のコレクションにモナコの新たなトロフィーを加えることができなかったが、それに最も近付いたのが1996年のレースであった。
予選でポールポジションを獲得したのは、フェラーリのミハエル・シューマッハー。しかし濡れた路面の中で行なわれた決勝レースでスタートダッシュを決め、トップに立ったのはヒルだった。シューマッハーはポルティエ手前でクラッシュして1周目で戦列を離れ、レースはヒルの独走状態となっていった。
ローバックは当時「ヒルの駆るウイリアムズは、他と比べて少なくともクラスがひとつ上だった。毎周毎周大きな差をつけていた」と綴っていた。5周を終えた時点で、ヒルが2番手のジャン・アレジ(ベネトン)につけた差はなんと13.3秒だった。
「振り返ってみて『自分のできる限りの仕事をした』と思えるレースがいくつかあるけど、モナコでは本当にうまくいっていたんだ」
当時を振り返り、ヒルはそう語る。
ヒルは28周目にスリックタイヤに交換。上位陣のピットストップが全て終わった段階でヒルのリードは30秒以上に広がっており、開幕6戦5勝は確実と思われた。
「タイヤ交換は完璧に成功したのに、その後ルノーエンジンがブローしたんだ」とヒル。レースが折り返しを過ぎた41周目、ウイリアムズ・ルノーFW18は白煙を上げながらトンネル出口で力なく停止した。
レース後にローバックはこう綴っている。
「デイモンは全てを完璧にこなした。ただ悲劇的なのは、彼が二度とモナコGP(での勝利)を手中に収められないかもしれないということだ」
ローバックの予感は的中することとなってしまう。ヒルがモナコGPで首位を走ることは2度となかったのだ。
2. 1997年ハンガリーGP
マシン:アロウズA18
グリッド:3番手
決勝結果:2位

Damon Hill, Arrows Yamaha A18
Photo by: Sutton Images
「これは他のどのレースよりも話題に挙がるんだ」。ヒルにそう言わしめるのが、1997年のハンガリーGPである。
1996年にチャンピオンを獲得しながらも、同年限りで最強ウイリアムズを離れることとなったヒルの新天地はアロウズ。アロウズ・ヤマハA18のデビュー戦となった開幕戦オーストラリアGPは、ヒルがトップから5.4秒遅れの予選20番手、チームメイトのペドロ・ディニスに至ってはトップから6.6秒遅れで最後尾22番手と惨憺たるものだった。しかし、この年からF1参戦を開始したブリヂストンタイヤを履くA18は着々と進歩を遂げていった。
そんな中迎えた第11戦ハンガリーGP。テクニカルなハンガロリンクは元々ヒルの得意とするサーキットではあったが、彼はそこで驚くべきパフォーマンスを発揮する。
「素晴らしい週末だった」とヒルは振り返る。
「ブリヂストンは毎回剛性があって信頼性の高いタイヤを作ってくれていたので、プッシュすることができた。そしてハンガリーではパワフルなエンジンを必要としないので、バランスを取れた」
ヒルは予選でミハエル・シューマッハー(フェラーリ)、ジャック・ビルヌーブ(ウイリアムズ)に続く3番グリッドを獲得。シューマッハーのタイムからわずか0.372秒遅れという大健闘の結果であった。
決勝ではグッドイヤー勢の多くがソフトなコンパウンドを選択したが、この判断はすぐに間違いであることが判明した。首位を走るシューマッハーのタイヤには早々にブリスターが発生しペースダウン。ヒルは11周目のターン1でシューマッハーを交わしてトップに浮上した。

Damon Hill. Arrows A18 overtakes Michael Schumacher, Ferrari F310B
Photo by: Sutton Images
「ミハエルはコーナーをうまく立ち上がることができていなかった」とヒル。
「数周したら彼のタイヤはダメになって、僕はなんとか彼をパスすることができたんだ」
3周後にはビルヌーブがシューマッハーを交わし2番手に浮上したが、ヒルに追いつくことはできず。7秒前後の差がついたまま、お互い最初のピットインを終えた。
ビルヌーブ以上にヒルの脅威となり得たのが、ハインツ-ハラルド・フレンツェン(ウイリアムズ)であった。グッドイヤー勢の中でもハードなコンパウンドを選択していたフレンツェンは、上位2台のピットインで首位に浮上するとハイペースで飛ばし、マージンを築いていた。しかし、ピットストップの前に燃料タンクのコネクターが外れてしまったことでリタイアを余儀なくされた。
これで再びヒルがトップに立ち、ビルヌーブとの差をぐんぐんと広げていった。残り3周となった時点でヒルは34秒もの大量リードをビルヌーブに対して築いていたが、ここで油圧システムにトラブルが発生してスロットルとギヤボックスが正常に機能しなくなってしまった。ビルヌーブは瞬く間にヒルに追い付き、最終ラップでオーバーテイク。ヒルは大金星を逃し2位に終わった。
「あと1周というところで何かが起きたことは残酷だったが、少なくともフィニッシュはできた」とヒルは淡々と語って締めくくった。
1. 1994年日本GP
マシン:ウイリアムズFW16B
グリッド:2番手
決勝結果:優勝

Damon Hill, Williams FW16 celebrates his victory
Photo by: Sutton Images
ふたりのドライバーが命を落とすという悲劇的なシーズンとなった1994年。アイルトン・セナ亡き後のウイリアムズのエースとなったヒルは、前述の通り前半戦終了時点でベネトンのミハエル・シューマッハーに大差をつけられていたが、シューマッハーが失格→出場停止となったベルギー、イタリア、ポルトガルの3連戦で3連勝し一気に点差を縮めた。シーズンが残り2戦となった段階で、シューマッハー86点、ヒル81点。ヒルがタイトル争いを優位に進めるためには、雨の鈴鹿で何としてもシューマッハーを打ち負かす必要があった。
「緊張していたよ」
そうヒルは振り返る。
「(前戦の)ヘレスでは彼に圧勝されてしまったからね。僕はあの時大敗したように思っていたけど、後になって燃料装置に異常があったことが分かった。余計な燃料を積んでいたことがパフォーマンスに影響を与えていたんだ」
「フランク・ウイリアムズとパトリック・ヘッドとは対立していた。彼らは僕の走りに不満を持っていたみたいだけど、僕から言わせてもらうと『僕がうまくいかない理由は君達が一番よく分かっているだろう?』という感じだった」
「だからチームの間にも緊張があった。彼らは僕のことを見限っているような気がしていたんだ。彼らはナイジェル・マンセルをチームに呼び戻したりしていたから余計にね」
迎えた予選では、シューマッハーがポールポジション、ヒルが2番手と、タイトルを争うふたりが順当にフロントロウを確保した。シューマッハーはヒルの前で1周目の1コーナーを抜けると、そこからは独走状態となっていった。
「彼のリヤライトを見失ってしまうと、そこからは逃げられてしまうと思っていた」とヒル。
「レース全体として、これまで僕が走ってきたどのレースよりもレベルが高かった」
「僕はミハエルの速さに恐れを抱いていたけど、それと同時に何としても勝ちたいと思っていた。彼のマシンは調子が悪く、毎回縁石に乗っていた。他のドライバーならコントロールを失うところだろうが、それでも彼はなんとか体勢を立て直していた。それを毎周続けるんだから驚いたよ」

The Safety Car leads Michael Schumacher, Benetton B194 Ford, Damon Hill, Williams FW16 Renault, Jean Alesi, Ferrari 412T1
Photo by: Motorsport Images
ヒルがそう語るように、コースコンディションは最悪と言えた。片山右京(ティレル)、井上隆智穂(シムテック)はホームストレートでスピンしてリタイア。セーフティカーランが解除された後もスピンの連鎖は止まらず、マーティン・ブランドル(マクラーレン)がマシン撤去作業中のマーシャルを跳ねてしまったことで赤旗が掲示された。これによりレースは2ヒート制となり、赤旗中断前のレースと再開後のレースの合算タイムで競われることとなった。
第1ヒートでヒルに6.9秒の差をつけていたシューマッハーは、第2ヒートでも首位を走ってリードを広げていたが、早々に1回目のピットインへと向かった。ベネトンは2ストップ作戦だったのだ。一方のウイリアムズ陣営はその裏をかき、ヒルをシューマッハーの7周遅れでピットインさせて多くの燃料を積み、1ストップ作戦に出た。ただ、ヒルのマシンは右リヤタイヤが外れず、タイヤ3本交換でコースに戻ることになってしまった。
「僕はそのことに全く気付いていなかった。チームは教えてくれなかったんだ」とヒルは言う。
シューマッハーは終盤、予定通り2回目のピットストップを実施。これでレースリーダーはヒルとなった。アウトラップを終え、残り9周となった時点でヒルとのタイム差は14.6秒あったが、シューマッハーは猛然とプッシュを開始。その差はどんどんと縮まっていった。
「差が縮まっているのが見えて、油断できない状況になっていたから、何か策を打つ必要があった」
「僕は言った。『アイルトン、そこにいるなら力を貸してくれ。僕はもう限界だ!』と。次の瞬間、僕はS字で飛ぶように速く走ることができた。まるで誰かが僕の足がスロットルを踏み続けるようにしてくれたみたいだった」
「デグナーの2個目かヘアピンあたりに来て『これを続けていてはいけない』と思った。もっと慎重になってこれで十分(勝てる)と願うしかなかった。チャンピオンシップの状況を考えれば驚くべき経験だったよ。あの時はまるで本能でマシンを走らせているかのようだった。僕の全ての力があのパフォーマンスに注がれていたんだ」
ヒルのその判断は正解だった。ヒルは交換できなかった右リヤタイヤの摩耗に苦しみながらも、最終的に3.4秒差で逃げ切り、見事勝利を収めたのであった。この走りには、シューマッハー本人もマシンを降りて祝福に訪れるほどであった。

Winner Damon Hill, Williams, is congratulated by second place Michael Schumacher, Benetton
Photo by: Motorsport Images
「僕はシューマッハーや他の偉大なドライバーのような溢れる自信を醸し出してはいなかっただろう」とヒル。
「僕には自信がなかった。僕は32歳という年齢で遅れてF1にデビューしたし、それも代役参戦だった。僕はアイルトン・セナのチームメイトとして戦うことになると思っていたけど、いつの間にかチャンピオンを争うようになっていた」
「あのレースは、最も過酷なコンディションの中、さらにF1のタイトルが懸かった状況の中で(優勝を)成し遂げたという意味で、僕の印象に強く残っている」
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