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グランプリが俺を呼んでいる! 一度は表舞台から去ったF1ドライバー達の華麗なるカムバック10選

F1の歴史の中では、一度引退したドライバーや1年以上レギュラー参戦から遠ざかっていたドライバーが華麗なる復帰を果たしたケースが数々ある。今回はその中でも著名な10件を紹介。

Nigel Mansell, Williams FW16 Renault

写真:: LAT Images

 2023年のF1では、2019年を最後にレギュラーシートから遠ざかっていたニコ・ヒュルケンベルグがハースのドライバーとして復帰を果たす。そのチームメイトは偶然にも、2022年に2年ぶりのF1カムバックを果たしたケビン・マグヌッセンだ。

 このようにF1では、一度現役を引退したドライバーやF1を離れていたドライバーが復帰を果たすケースが多々ある。今回はF1公式YouTubeでも紹介された著名な例を振り返っていく。

1. ニコ・ヒュルケンベルグ(2010年, 2012年〜2019年, 2023年〜)

 

Photo by: Haas F1 Team

 一度終わったかに思われたF1キャリアを自らの実力と経験、そして運も味方に付けながら再び手繰り寄せたのがヒュルケンベルグだ。

 ヒュルケンベルグは2010年にウイリアムズからF1デビューを果たすと、同年のブラジルGPでポールポジションを記録。その後1年間のF1浪人を挟んで2012年にフォースインディアから復帰を果たし、ザウバー、ルノーなどの中団チームでキャリアを重ねた。

 2019年を最後にレギュラーシートを追われたヒュルケンベルグだったが、コロナ禍に見舞われた2020年、体調不良で欠場となったドライバーの代役としてレーシングポイントから3戦にエントリー(決勝出走は2戦)。急遽の出場ながら、“スーパーサブ”としてしっかりとポイントを持ち帰る彼の堅実な仕事ぶりが再評価された。

 そして2022年もセバスチャン・ベッテルの代役として2戦を走ったヒュルケンベルグだったが、経験豊富なドライバーを求めるハースが2023年のレギュラードライバーとして契約。再びF1レギュラードライバーとしてのキャリアがスタートすることとなった。

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2. ケビン・マグヌッセン(2014年, 2016年〜2020年, 2022年〜)

 

Photo by: Mark Sutton / Motorsport Images

 マグヌッセンもヒュルケンベルグと同様、2度のF1浪人を経験している。

 2014年にマクラーレンからデビューして初戦でいきなり表彰台に登るなどインパクトを残したマグヌッセンだったが、翌2015年のレギュラーシートは得られず(開幕戦のみ代役出場したが、決勝は出走できず)。しかし2016年、ワークス復帰を果たしたルノーのドライバーとしてシートを得ると、2017年からハースのドライバーとして4シーズンを戦った。

 2021年はハースがミック・シューマッハー、ニキータ・マゼピンのルーキーふたりを起用することを決定したためシート喪失。マグヌッセンはアメリカのIMSAを主戦場とした。しかし2022年の開幕直前、ロシアのウクライナ侵攻に端を発してマゼピンが契約解除されることとなり、マグヌッセンに再びチャンスが転がり込んできた。

 マグヌッセンは復帰戦となったバーレーンGPで5位入賞を飾ると、雨絡みのサンパウロGPではポールポジションをゲット。シューマッハーを上回るパフォーマンスを見せ、2023年のシートも確保するに至った。

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3. アラン・ジョーンズ(1975年〜1981年, 1985年〜1986年)

 

Photo by: Sutton Images

 ウイリアムズ黎明期を代表するドライバーであるジョーンズ。1979年に4勝、1980年に5勝を挙げて、後者ではドライバーズチャンピオンに輝いた。1981年もタイトルこそ逃したもののネルソン・ピケ、カルロス・ロイテマンに次ぐランキング3位に入るなど一線級の活躍をしていたが、同年最終戦のラスベガスGPで有終の美を飾ってF1から引退した。

 しかしジョーンズは1983年にアロウズから1戦だけの復帰を果たし、1985年には新興チームのハース(ローラ/現在F1に参戦しているハースとは別のチーム)のドライバーとして終盤戦から出走した。翌1986年も同チームのドライバーとして参戦したジョーンズだったが、マシンの戦闘力はお世辞にも高いとは言えず、入賞2回に終わった。そしてチームの撤退に伴い、同年限りで完全にF1から離れることになった。

4. ナイジェル・マンセル(1980年〜1992年, 1994年〜1995年)

 

Photo by: Motorsport Images

 1980年代〜1990年代初頭にかけて、ウイリアムズやフェラーリのドライバーとして活躍したマンセル。長年活躍するもタイトルにはなかなか手が届かずにいたが、1992年にハイテク武装のウイリアムズFW14Bを駆って圧倒的な強さでシリーズチャンピオンに。“無冠の帝王”を返上したが、チームは翌年のドライバーとしてアラン・プロストを起用することを決定。マンセルは駆け引きに疲れたとされ、この年限りでF1から引退することを表明した(フェラーリ時代にも引退を表明したことがあったが、これは後に撤回している)。

 1993年からはアメリカのCARTに戦いの舞台を移し、1年目からいきなりチャンピオンに輝いてみせたマンセルだったが、1994年のアイルトン・セナ事故死が彼のキャリアにも影響を与えることとなる。

 スターを失ったF1とセナの所属チームであったウイリアムズは、ニューマン/ハースからCARTに参戦するマンセルを呼び戻すことにした。マンセルはまずフランスGPでF1復帰を果たすと、CARTのシーズン終了後はF1の終盤3レースに出場。日本GPではフェラーリのジャン・アレジとドッグファイトを繰り広げ、最終戦オーストラリアGPではタイトルを争うミハエル・シューマッハーとデイモン・ヒルの接触を尻目にポールトゥウィンを飾り、健在ぶりをアピールした。

 翌1995年、マンセルはマクラーレンと契約したが、コクピットが身体に合わず序盤2戦はマーク・ブランデルにシートを譲る形に。専用のモノコックが作られた第3戦から復帰したが、わずか2戦で自らF1の舞台から降りることを決断した。

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5. ロバート・クビサ(2006年〜2010年, 2019年)

 

Photo by: Zak Mauger / Motorsport Images

 8シーズンという稀に見る長いブランクを経てF1復帰を果たしたクビサは、デビュー当初はその将来を渇望されるドライバーであった。

 2006年のシーズン後半戦からBMWザウバーでデビューを果たすと、同年には初表彰台を記録し、2008年は初優勝も遂げて一時はタイトル争いにも名乗りをあげるほどの活躍でランキング4位となった。

 2010年にルノーに移籍したクビサは2011年も同チームから参戦予定だったが、開幕直前にラリーで大事故を起こし重傷を負ってしまった。クビサは結果的に同年のF1を全休したのはもちろんのこと、約2年ほどレース活動から離れることになった。

 その後ラリーで競技復帰したクビサだったが、2017年にテストという形で久々のF1ドライブを実現。未だF1で戦うに足る資質があることをアピールした。そして2019年、ウイリアムズはジョージ・ラッセルのチームメイトとしてクビサを起用することを決定し、9年ぶりのカムバックが決定した。

 2019年のウイリアムズはテールエンダーに終始したため、クビサは1ポイントを獲得したのみ。翌年以降のシートも得られなかったが、クビサはその後もアルファロメオで度々フリー走行に参加しており、2021年にはキミ・ライコネンの代役として2レースに出走した。

6. ミハエル・シューマッハー(1991年〜2006年, 2010年〜2012年)

 

Photo by: Sutton Images

 F1界のありとあらゆる記録を更新し、史上最強ドライバーのひとりとして歴史に名を刻んだシューマッハーは、フェラーリ時代の2006年に現役引退を発表。この年はルノーのフェルナンド・アロンソと最終戦までもつれる壮絶なタイトル争いを演じ、惜しくも敗れはしたものの、未だトップクラスの実力があることを誇示して惜しまれつつF1を去った。

 そんなシューマッハーは、引退後も復帰の噂が絶えなかった。特に2009年のハンガリーGP予選でフェラーリのフェリペ・マッサが負傷した際には、その代役としてシューマッハーを起用する計画がなされていたが、結果的にバイク事故で負った怪我の影響で実現しなかった。しかしシューマッハーは、翌2010年にメルセデスのドライバーとして正式に復帰を果たすことになる。

 復帰後のシューマッハーはかつてほどの輝きを取り戻すことはできず、チームメイトのニコ・ロズベルグに先行されるケースが目立った。しかし2012年にはヨーロッパGPで6年ぶりの表彰台を獲得、モナコGPでは予選トップタイム(ペナルティによりポールポジション獲得はならず)を記録してみせた。そして同年にシューマッハーは、自身2度目かつ最後となる引退発表をするのであった。

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7. フェルナンド・アロンソ(2001年, 2003年〜2018年, 2021年〜)

 

Photo by: Alpine

 2023年シーズンはアストンマーチンに移籍、未だ衰えることを知らないアロンソは今年で42歳を迎える。

 2001年にミナルディからF1デビューを果たしたアロンソは、翌年はレギュラーシートを失うもルノーのテストドライバーを務め、2003年に同チームのレースドライバーに昇格。2005年、2006年のワールドチャンピオンに輝いた後、マクラーレン、フェラーリで度々タイトル争いを演じた。

 そんなアロンソも2015年のマクラーレン復帰以降は中団での戦いが続き、2018年を最後に一度F1から引退した。その後アロンソはル・マン24時間レースを連覇してWEC(世界耐久選手権)王者となり、インディ500やデイトナ24時間、ダカール・ラリーに参戦するなど他カテゴリーでその比類なき実力を遺憾なく発揮していたが、2021年に古巣ルノーの流れを汲むアルピーヌからF1復帰。2021年のカタールGPでは7年ぶりの表彰台も手にした。

 2023年からはアストンマーチンに移籍するアロンソ。既に歴代最多の出走数を誇るが、あと2シーズン参戦すれば前人未到の参戦400戦に届くこととなる。

8. キミ・ライコネン(2001年〜2009年, 2012年〜2021年)

 

Photo by: Simon Galloway / Motorsport Images

 2001年にザウバーからF1にデビューしたライコネン。2007年にはフェラーリでドライバーズチャンピオンに輝いたが、2009年を最後に一旦F1から離れ、WRC(世界ラリー選手権)に転向することとなる。

 その後も復帰の噂が絶えなかったライコネンは、ロータスと契約して2012年にF1復帰。この時期のロータスのマシンは戦闘力が高く、ライコネンは同年のアブダビGPと翌年のオーストラリアGPで勝利を飾った。

 2014年にフェラーリに移籍してからは勝利には恵まれずにいたが、2018年のアメリカGPで5年ぶりの優勝。2019年からアルファロメオで3シーズンを過ごし、F1を引退した。

関連ニュース:

9. ニキ・ラウダ(1971年〜1979年, 1982年〜1985年)

 

Photo by: Motorsport Images

 一度F1を離れて復帰を果たしたワールドチャンピオンが、復帰後もタイトルを手にした例はわずか2例。その内の1例がニキ・ラウダだ。

 1976年ドイツGPでの生死を彷徨う大事故からの奇跡的なカムバックでも知られるラウダ。フェラーリで1975年、1977年にタイトルを獲得した後、ブラバムで2シーズンを過ごしたがやがて戦意を失い、1979年のシーズン途中に突如引退。その後は自身の航空会社を立ち上げるなど第二の人生をスタートさせていた。

 しかし1982年にラウダはマクラーレンからF1復帰を果たす。しかも彼は復帰3戦目にアメリカ西GPで優勝を飾り、その腕が全く錆び付いていないことを証明した。

 そして1984年、マクラーレンはベテランのラウダのチームメイトに気鋭のアラン・プロストを起用。TAGポルシェエンジンを搭載したマクラーレンMP4/2はふたりの手によって圧倒的な成績を残した。この年プロストは7勝を記録したが、優勝5回、2位4回を記録したラウダがわずか0.5ポイント差でプロストを上回り、3度目のタイトルを手にした。ラウダは翌1985年もマクラーレンで1勝を挙げ、キャリアに幕を下ろした。

10. アラン・プロスト(1980年〜1991年, 1993年)

 

Photo by: Motorsport Images

 F1で4度のタイトルを獲得したプロストは、1年のブランクの後チャンピオンチームから復帰し、1年で王座に返り咲いてキャリアを終えるという、華々しいカムバックを果たしたドライバーだ。

 1985年、1986年、1989年とマクラーレンで3度タイトルを獲得したプロストは、チームメイトであるアイルトン・セナとの確執が深まったことで1990年はフェラーリに移籍した。お互いチームのエースとなったセナとプロストはタイトルを争ったが、日本GPではスタート直後の1コーナーでふたりは接触。タイトルはセナのモノとなった。なお1989年にもふたりはチームメイトながら日本GPで接触しており、鈴鹿で2年連続して遺恨を残すこととなった。

 翌1991年のフェラーリはマクラーレンやウイリアムズに対して後れを取り、プロストは優勝に届かないレースが続いた。そして業を煮やしたプロスト公然とマシン批判を展開したことで、シーズン終了を待たずにフェラーリを追われることとなり、1992年は浪人状態となった。

 しかし1993年、プロストは92年に圧倒的な強さでチャンピオンに輝いたウイリアムズのシートを確保。開幕からの10レースで7勝を記録したプロストは、ライバルのセナやチームメイトのデイモン・ヒルを退けて4度目の王座に輝き、そのまま現役を引退した。

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