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高橋国光さんとの長い旅路

3月16日に逝去した、日本モータースポーツ界の伝説的ライダー/ドライバーである高橋国光さんを偲ぶ。

高橋国光 Kunimitsu Takahashi

写真:: Kunimitsu Takahashi

 1976年のある夜、私は小金井にある高橋国光さんの自宅を尋ねた。高橋家の食卓では大皿に見事な刺身を盛って私を歓待してくれた。20代半ばの駆け出しのジャーナリストには余りにも豪勢な出迎えだった。恐縮する私を高橋さんは笑顔で食卓に誘い、「よろしく。良い本を書いてください」と微笑んだ。これが私と高橋さんとの長い旅路の始まりである。

 当時、出版社を辞めて渡英の準備をしていた私は、とにかくそのための費用が欲しく、やって来る仕事はなんでも引き受けた。その中のひとつが、高橋国光さんの本の執筆依頼だった。話をくれたのは、当時ヤマハのエピキュリアンという雑誌を作っていた編集プロダクションの社長。実は、私はそのプロダクションの依頼でヤマハ・ポプコン(ヤマハポピュラーソングコンテスト)で賞を取った世良公則、八神純子、福島邦子らのインタビューを行ない、エピキュリアンに寄稿していた。そのプロダクションの社長の依頼を断れるはずはなかった。

 しかし、実は私はこの依頼にゾクゾクしていた。以前勤めていた出版社が自動車関連の雑誌や書籍を出版している会社で、私は自動車レースの雑誌の編集に携わっていたからだ。当然高橋さんの名前は知っていたし、彼のレースは何戦も取材したことがあった。ただ、余りに雲上人のように感じられて、シャイな私には声を掛けることすら躊躇される存在だった。編集プロダクションの社長は私の前歴を知っており、高橋さんとも面識があるという理由で本の執筆を依頼してきたに違いなかったが、打診を受けた私は嬉しさと不安との板挟みにあった。それでも依頼を受けたのは、新宿の飲み屋で相談した大手出版社の単行本編集担当の先輩が、「物書きになりたければチャンスを逃すな。毎週一冊書くぐらいの気持ちでやれ」と叱咤してくれたからだ。翌日編集プロダクションへ出向いて、「書かせてください」と頭を下げた。

 小金井で始まった高橋さんとの行脚は、それから随分と長い間着かず離れずで続いた。私は1977年に渡英し、欧州の自動車レースを取材して80年に帰国した。その後も度々世界中あちこちへ出掛け、地に足の着かない生活を続けた。ゆえに、日本国内のレースに顔を出す機会は減り、高橋さんのレースを見る機会は少なくなった。しかし、不思議と高橋さんの出場するビッグレースには顔を出している。パドックで話し込んだり、グリッドで挨拶したり、さもご無沙汰の兄弟が久し振りに会った時のような感じだった。1999年の高橋さんの引退レースが行なわれた九州のオートポリスへも、長いドライバー生活を讃えに出掛けたら、遠いところまでよく来てくれたね、と反対に感謝された。高橋さんという人はそういう人だった。

 しかし、正直な話をすると、私の中の高橋さんは、私が実際に自動車メディアで働き始める以前の記憶の中の偉大なドライバーとしてのほうが存在感が大きい。実際にこの目で見たことはないが、欧州のオートバイのGPで勝利を挙げる高橋さん、日本GPでニッサンR380を駆って生沢徹のポルシェ904と死闘を繰り広げたり、ニッサンR381で富士スピードウェイを疾走する高橋さん。そうしたイメージが私の中に出来上がっており、実際に目の前でレースを走る姿に現実感を見つける方が困難だった。迷宮の中の不思議な関係だったと言える。

 私が取材した実際のレースで不思議な高橋さんを見たのは、1974年6月の富士グラチャン・レースだった。鈴木誠一、風戸裕両ドライバーの命を奪った大事故が発生したレースだ。高橋さんはポールポジションから逃げ、事故はその後方で起こった。1周してメインストレートに戻って来た時、遠くストレートの向こうの黒煙を見て異変を知り、高橋さんはピットにクルマを滑り込ませた。そしてクルマから降りてヘルメットを脱ぎ、呆然と立ちすくんだ。長い時間だったか短かったか、今になっては思い出せないが、どうしたの、何が起こったの、と自問しているように見えた。駆け出し記者の私はもちろん声も掛けられず、喧噪の中で止まった時間の中に立ちすくんでいる高橋さんを見つめていたように思う。

 ドライバーを引退してから柔和さが増した。どうしてこんなに誰にでも優しく接することができるのか不思議だった。多分、怒りや恐怖やおののきはドライバーを辞めるときに捨ててきたのだろう。私は柔和な高橋さんも、ドライバー時代の鬼のような高橋さんのこともよく知っている。ヘルメットの中の孤独な目の光も知っている。

 レースでは、ドライバーは常に追いかけられる恐怖に苛まれる。高橋さんも例外ではない。上位を走るドライバーの、追われる恐怖、追い付かれる恐怖、抜き去られる恐怖、背後から突いてくる追走者の存在。高橋さんはその恐怖と何十年も共に生きてきた。1977年に上梓した本のタイトルに、あるマラソンランナーの言葉を引いた。

『恐怖を背中に貼りつけて走った』

 高橋国光さん、有り難うございました。

 
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