ハミルトンはシューマッハーを超えたのか(3):大きな決断が黄金時代を生んだ
ルイス・ハミルトン、ミハエル・シューマッハーというふたりの天才F1ドライバーのキャリアを紐解く特集の第3回。今回はふたりが黄金時代を築くためにした大きな“決断”にフォーカスを当てる。
Lewis Hamilton, Mercedes AMG F1
LAT Images
F1の歴史に名を残すふたりのドライバー、ルイス・ハミルトン、ミハエル・シューマッハーのキャリアを紐解くこの特集。ハミルトンはメルセデス、シューマッハーはフェラーリに移籍した後黄に金時代を築いたが、彼らはどのような経緯でチームを移ることを決めたのだろうか?
2007年にマクラーレンからF1デビューを果たしたハミルトンは、2008年には史上最年少でチャンピオンに輝いたが、その後はタイトルに届かず、マクラーレンとの関係も徐々に微妙なものとなっていた。
そんな中でハミルトンに手を伸ばしたのが、メルセデスだった。当時のチーム代表であるロス・ブラウンと非常勤会長のニキ・ラウダは2012年、ハミルトンに来たるハイブリッド時代に向けてメルセデスの見通しがいかに明るいかを説明し、チームに加わるべきだと説得した。
同年シンガポールGPの際には、既にハミルトンの意思はほぼ固まっていた。彼はそこでラウダと最後の会合を行なった後レースに臨み、ギヤボックストラブルのためにリタイアした。
レース後、ハミルトンはタイに飛んだ。そして頭の中を整理し、後に彼のキャリアを大きく変えることになる決断をしたのだ。
「(チームに)留まり、いつもと同じようなことをするのは、僕に合っていなかった」
ハミルトンは当時そう語っていた。
「僕は何か違ったことがしたかったし、決して競争力が高いとは言えないマシンを勝てるマシンにするという挑戦がしたかった」
「それは僕が自立するための最後のステップだったと思う。(自分がメルセデスに加入するのは)ロスがいるからでも、ニキがいるからでもなく、メルセデスがここ数年成功を収められていないチームだからだ」
「何人かの偉大なドライバーが、決して素晴らしいとは言えないマシンを勝てるマシンにして、チームの優勝に貢献した。例えばマイケル(シューマッハー)なんかがそうだ。彼はフェラーリをワールドチャンピオンにした。F1ドライバーで彼の名を知らない人はいないし、僕もいつかそういう存在になりたいね」
そんなハミルトンの野望は現実のものとなる。シューマッハーをひとつのモデルケースとした彼の決断により、ハミルトンはメルセデスで黄金時代を築き、タイトル獲得回数や優勝回数でシューマッハーに匹敵する記録を残すことに成功したのだ。しかし、彼らふたりの歩みは異なるものだった。
■ベネトンから低迷期のフェラーリに移籍したシューマッハー。鍵は“汚名返上”?
Michael Schumacher,Benetton B194 Ford after his crash
Photo by: Sutton Images
シューマッハーは1994年、1995年とベネトンで2年連続チャンピオンを獲得し、アイルトン・セナ亡き後のF1の中心人物として活躍した。ただ、1994年シーズンのベネトンとシューマッハーは、いくつかの物議を醸す騒動によって慌ただしいシーズンを過ごした。
ベネトンは、ドライバーを補助する違法ソフトウェアの存在が発覚したにも関わらず、罰則を逃れている。またドイツGPでは、不正に改造した給油リグによってピットレーン火災を引き起こしたが、こちらもお咎めなしとなった。
シューマッハーはイギリスGPでフォーメーションラップ中の追い越しでペナルティを受けたにも関わらず、それを無視したため失格に。加えて執行猶予付きの2戦出場停止処分を言い渡された。そしてベルギーGPで優勝した際に、スキッドブロックが規定より薄いことが発覚し、またも失格。これにより2戦出場停止も執行されることとなった。
圧倒的な速さを見せていたシューマッハーだったが、上記の失格&出場停止もあり、デーモン・ヒル(ウイリアムズ)とのタイトル争いは最終戦までもつれた。この時点でヒルを1ポイントリードしていたシューマッハーは、最終戦オーストラリアGPのレース中、ヒルを従えて走行していたが、コースオフしてしまい軽く壁にヒットした。そこにヒルが追いついて交わそうとしたが、シューマッハーは譲らずに両者接触。双方ダメージを抱えてマシンを降り、この瞬間シューマッハーの初タイトルが決定したのであった。
翌1995年のシューマッハーは、強力なルノーエンジンを手にしたベネトンと共に、文句なしのシーズンを過ごして2年連続チャンピオンとなった。しかし1994年の一連の騒動は、人々が彼を批判するための十分な口実を作ってしまっていた。よってシューマッハーは、1994年のベネトンでの1年が自身の評判を傷つけたとして、チームを離脱。名門フェラーリと契約した。
Eddie Irvine (left), Nicola Larini, Luca Di Montezemolo and Michael Schumacher (right)
Photo by: Sutton Images
当時、フェラーリは長きにわたってタイトルから見放されていた。ドライバーズタイトルは1979年(ジョディ・シェクター)、コンストラクターズタイトルは1982年を最後に獲得できていなかった。
フェラーリは1991年、1970年代にチームのスポーティング・ディレクターを務め、ラウダと共に黄金時代を築いたルカ・モンテゼモロをフェラーリ社長に任命。さらに1993年には、プジョーの監督としてラリー界を席巻していたジャン・トッドをフェラーリの監督に抜擢した。そして1996年にシューマッハーがエースドライバーとして加入。そして翌年には、ベネトンのテクニカルディレクターであるブラウンと、チーフデザイナーのロリー・バーンを引き抜いてきた。勝利のピースはこれで整った。
シューマッハー、トッド、ブラウン、バーンらによって、フェラーリの本格的な改革が始まった。1997年、1998年はシューマッハーが終盤までタイトルを争うも届かず。1999年はシューマッハーが中盤戦に負傷離脱したが、チーム一丸となり17年ぶりのコンストラクターズタイトルを獲得。そして2000年、ついに念願のダブルタイトルを勝ち取った。
このフェラーリ復活劇は、その莫大な予算、シューマッハーという最高のドライバー、無制限だったプライベートテスト、そして特別仕様のブリヂストンタイヤが相まって実現したものだ。
シューマッハーにとってフェラーリ移籍は確かにギャンブルだったが、タイトル獲得のオッズは決して高くないと考えていた。ブラウンとバーンが自分の元に来ることを知っていたので、忍耐強く戦っていれば、いつか結果は出ると確信していたのだ。
■ヒル「偉大なドライバーは“ゲーム”の仕方を知っている」
Michael Schumacher, Mercedes AMG F1, Lewis Hamilton, McLaren
Photo by: Motorsport Images
ある意味ではハミルトンのメルセデス移籍の方が、彼にとって根拠のないギャンブルであったとも言える。メルセデスは2009年にタイトルを獲得したブラウンGPを引き継ぐ形で2010年から参戦していたが、2012年までの3シーズンで優勝は1回。確かにハイブリッド時代を迎えれば強力なチームになるとの噂はあったが、それを確かめる方法はなかった。
シューマッハーのライバルのひとりだったヒルは、ハミルトンがメルセデスで成功を収めたことについて次のように語った。
「人々は皆、彼はただチーム(マクラーレン)を離れたいだけで、(メルセデスでは)苦戦するのではないかと懸念していた。しかし、彼は結果的に正しいことをした」
「その抜け目のなさは彼の才能の一部だ。多くの勝利を収める偉大なドライバーは自分を適切な場所に置く“ゲーム”の仕方を知っているんだ」
「彼がそういった結論に至った要因は色々あるだろう。彼は少し窮屈な思いをしていて、自由を手に入れられていないと感じていた。そして彼は自ら条件を提示できるメルセデスに移籍したんだ。これは最高のドライバーでないとできないことだ」
【第4回(最終回)に続く】
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