インタビュー

【トップインタビュー】高橋国光が海を渡り受けた“衝撃”「日本は全てにおいて遅れていた」

半世紀以上に渡ってモータースポーツ界の最前線に身を置いてきた高橋国光氏にmotorsport.comがインタビュー。2輪ライダー時代の知られざるエピソードなどを伺った。

高橋国光 Kunimitsu Takahashi

高橋国光 Kunimitsu Takahashi

Kunimitsu Takahashi

 2021年最初のインタビューは、日本のモータースポーツ界の至宝である高橋国光さん。高橋さんは半世紀に及ぶライダー、ドライバー歴を経て、今はスーパーGTに参戦するTEAM KUNIMITSUの代表を務める。そして2020年、チームは2度目のチャンピオン・タイトルを獲得した。スーパーGT最終戦は大激戦で、最後の最後まで勝者がわからなかった。その戦いを勝ち抜いてのタイトル獲得に、感無量の表情だった。

 しかし、今回のインタビューはTEAM KUNIMITSUの話ではない。本インタビュー・シリーズはこれまで語られなかった歴史や真実に目を向けるのが狙い。そこで今回は高橋さんのモータースポーツ人生初期の2輪時代を語ってもらった。そこには、誰も知らない高橋国光がいる。

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ーー高橋さんは子供時代からバイクに乗るのが好きだったと聞いています。

「乗るのが好きでした。カミナリ族みたいなものです。あとは、自分のバイクを分解してエンジンのシリンダーヘッドを外して、なんてことをやっていました。そんな時に浅間火山レースがあって出たんです。僕は英国製のBSAで、伊藤史朗と同じチームでした。京都のバイク屋で小僧をしていた北野元君もホンダのバイクで出ていて、そこで知り合ったんです」

ーー日本のレースの夜明けですね。

「日本のモータースポーツの始まりはどこかというと、浅間ですね。自分で言うのも変だけれど。その浅間のレースで勝って、ホンダの契約選手になったんです。本田宗一郎さんが世界一のバイクを作るんだと言うことで、僕たちをテストライダーにしたんですね」

ーーホンダがちょうど世界グランプリへ打って出ようとしていた時ですね。

「そうですね。そこで我々を世界に連れ出してくれた。向こうに行ってショックを受けました。最初にドイツのソリチュードという一般公道を閉鎖したサーキットに行ったのですが、そこには50年もの歴史があったんです。1960年にですよ。日本はダートコースをダラダラ走るだけで、サーキットなんかありませんでした。本田宗一郎さんが鈴鹿サーキットを作ったのは我々が世界に出ていった3年後です。そういうことを見ても、モータースポーツはヨーロッパから日本にやってきたことがわかります。僕はヨーロッパへ行ってそのことをつくづく感じました。日本を出る前は、ヨーロッパと日本のレースは大差ないと思っていたのです。でも勉強不足でした。文化、知識、全てにおいて日本がヨーロッパに大きく遅れていたんです。まあ、普通の道路見てもそうでした。ヨーロッパは田舎道でも舗装されている。でも日本は田舎に行くと砂利道でしたから」

ーーそんな環境下からヨーロッパのレースに挑んだ。

「僕はヨーロッパに行くまでレースのレの字も知らなかった。例えば普通のバイクは4速ギヤだけどレース用は6速でしょ。加速、減速はわかるけど、正しいギヤを使っていかにコーナリングするかがわからなかった。バイクのシャシーって言うの? 剛性が不足してるとコーナー曲がってるとフニャフニャして怖かった。日本ではヨーロッパ行く前に荒川のテストコースしか走ってないから本当のことはわかっていなかったんです」

ーー荒川のテストコースにはコーナーと言えるものはないですからね。

「浅間とかで走っていたので僕はコーナーは速いと思っていました。でも、初めて走るヨーロッパのコースでもコーナーは100%の力で走らなければいけない。それが出来なければそのコースの限界がわからない。限界がわからないとコースは攻められない。攻めないとコースの限界がわからない。禅問答みたいだけどそれが真実。ヨーロッパの初めてのコースでそうやって走った時に、初めてレースの怖さがわかった。でも、レースの怖さがわかって自分に速く走る必然性が出て来た。そうなると、少しずつ攻めて走ることがわかってきた。それは、日本人が考える大和魂だとか特攻精神だとか言うのとはまったく違う、論理的な考え方、見方によって走るということなんです。それを知ったときのショックは大きかった。でも、それがモータースポーツの価値なんですよね」

ーーヨーロッパで貴重な経験を積んできた高橋さんですが、世界グランプリに参戦して直ぐに勝ちました。

「1960年から世界グランプリに挑戦しましたが、61年のドイツ(ホッケンハイム)で勝ちました。62年にはスペインとフランスのグランプリでも勝ったんです。もちろん自分では勝てるなんて思ってもいなかったんですが、いきなり勝ったので感動がなかった。表彰台に上ってもなにか他人ごとのように思えて。でも、表彰台の下でホンダの河島監督(注・後の河島喜好本田技研社長)が涙流しているのを見て自分も優勝の意味がわかった気がしました。『世界グランプリで勝ったんだ』って思いました。表彰式が終わってパドックに帰ってきたとき、可愛い女の子が『サインください』って、その嬉しかったこと。それがヨーロッパのレースなんですね」

高橋国光 Kunimitsu Takahashi

高橋国光 Kunimitsu Takahashi

Photo by: Kunimitsu Takahashi

ーーところが、その後マン島TTレースで事故に遭います。

「速すぎたから怪我をしたんですね。というより、速さを飛び越えたんです。クレルモンフェランのフランスグランプリで勝った時、雨だったんですが、2位以下を1分近く離して勝ったんです。監督が『抑えろ』と合図してたんですが、最後の5周くらいになるまでタイムを落とさなかった。その時、感覚が研ぎ澄まされてコースが凄くハッキリ見えたんです。乗っていたと言えば聞こえはいいけど、気持ちが高揚して鼻が高くなっていたんですね。それがマン島の事故に繋がったと思っています」

ーーマン島のレースは公道ですから、ひとつ間違えば大事故ですね。

「マン島のレースに出る前にアイルランドのレースに出てそこでも勝ったんです。ますます有頂天ですよ。それでマン島でも練習、予選で凄く速く走れた。事故にあったユニオンミルズ・コーナーは減速してギヤを1段落とさないと曲がれないんです、普通は。でも、練習中は調子が良くて減速しないでそのまま行けたんです。それを見ていたマイク・ヘイルウッドやジム・レッドマンが来て、『絶対に全開走行は止めろ、クラッシュする』と注意をしてくれたんですが、僕も21歳で若くて、世界グランプリで勝ち始めて有頂天だったんですね。彼らにはサンキューとは言いましたが、全然アドバイスは聞いていなかった。それで、スタートして6キロ地点のユニオンミルズでやっちゃたんです。スタートも一番だったので、コースは汚れていたしタイヤは暖まっていなかった。でも、そんなことまったく気にしなかったんです。経験不足と無鉄砲ですね。それが大事故に繋がったんです。人間、おごることなかれ、ですよ」

ーーマン島の事故では入院した病院のナースと恋が芽生えたとか。

「ははは、若かったですからね」

ーーその後2輪のレースに復帰しますが、以前のように成績は伸びず、1964年に4輪レースに転向します。

「成績が伸びなかったこともあるけど、1962年に本田宗一郎さんが鈴鹿サーキットを作り、時代は4輪レースに移りつつあったんですよ。そこで、ホンダの河島さんが日産自動車の難波靖治さんのところへ、田中健二郎、北野元、それに僕の3人を貸し出したんですよ。移籍って言うより、貸し出しでした。それでいきなり4輪レースです。当時難波さんは実験部の課長で、実質的に日産の追浜ワークス監督でした。でも、当時は凄い時代ですよね。ホンダで2輪レースやってたのに、うちは自動車造ってないからって日産にドライバーとして貸し出すんですから」

ーーそうですね。でも、それがきっかけでその後の高橋さんの4輪レースでの数々の伝説が生まれました。

「いろんなクルマに乗りました。スカイラインGT-Rの50勝にも貢献できましたし、ニッサンR380とかR381といった最先端のレースカーにも乗りました。幸せでしたよ」

ーー高橋さんの4輪レースの話はまた詳しく伺います。しかし、ここでも高橋さんのチームがスーパーGTで2度もチャンピオン・タイトルを獲得したことには触れないといけませんね。

「チーム国光は僕がドライバーを引退する前の1992年に設立して、当初は僕もドライバーとして走っていました。ドライバーを引退したのは99年限りです。スーパーGTはその前身の全日本GT選手権から参戦していますが、2018年に山本尚貴君とジェンソン・バトンのコンビで、そして2020年には山本君と牧野任祐君のペアでタイトルを取ることが出来ました。監督というポジションですが、本当に嬉しく思っています。チームのみんなが本当によくやってくれた結果です」

ーー最後にエピソードはありますか?

「2018年のバトンが印象的です。彼はF1でチャンピオンを獲った後なので、鼻高々で日本にやってくると思ったんです。でも、全然違いました。凄く謙虚でした。初めてNSXに乗った時には山本君より遅かったんです。でも、凄く努力して山本君のタイムを凌ぐようになった。人間はなんでも出来るわけではないですが、バトンの努力は日本のドライバーも大いに見習うべきだと思います。素晴らしい人格者でもありました」

山本尚貴とジェンソン・バトン、高橋国光総監督(#100 RAYBRIG NSX-GT)

山本尚貴とジェンソン・バトン、高橋国光総監督(#100 RAYBRIG NSX-GT)

Photo by: Masahide Kamio

ーーまた4輪の話を中心に伺いたいと思いますが、2輪でもまだ話したいことがおありのようなので、そちらもうかがいます。

「2輪ではルイジ・タベリさんのこともお話ししたいですし、4輪ではそれこそ大勢の方に助けられたので、彼らのことも欠かせません。ぜひお話しさせてください」

 

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